mundane and everyday world ………… |
ケホケホ、という、自分の咳の音で二宮奏は目を覚ました。首の動く範囲で周囲を見回してみるが、真っ暗で、ほんのりと浮かび上がるデジタル時計の表示だけがかろうじて見える。その時計が示している時間は、午前四時だった。どうにも中途半端な時間に目が覚めたのは、酷く喉が渇いているからだ。 空調が強めに設定してあるせいか、室内は乾燥していて奏の喉はチリチリと微かな痛みを訴えている。けれども、奏の喉を痛めた一番の原因は乾燥ではない。 体を動かそうと身じろぐが、自分の体に回された腕は殊の外重く、ままならない。背中に密接した自分以外の体温に、奏は小さな溜息をついた。奏は平熱が若干高く、自分を背後からおんぶお化けのように抱きしめている男は逆に低体温だ。だから、今のような暑い季節には、その体温が心地いい。いいが、心情的には全く逆で酷く居心地が悪い。 もう、何度目になるか分からないほど、馴染みになった溜息を重ねて漏らす。呆れと自己嫌悪と、腹立たしさと、少しの後悔を含んだ溜息。 しばらく奏は、背中の体温を感じたまま、身動きせずにいたが、どうやら、腕の持ち主である佐宗郁人は、寝返りを打つ気配すらなかった。本当に眠っているのか、狸寝入りなのかは分からない。以前の郁人は、奏とのセックスの後、割合と深く眠ることがあったが、色々なゴタゴタの後、この、どうにも表現しようの無い、どうにもならない関係になってからは、随分と眠りが浅くなってしまったようだった。 少し強引に、奏は郁人の腕を退けるとベッドから降りる。恐らく、郁人は目を覚ましただろうが、後ろから奏に声を掛ける気配は感じられなかった。これも、いつものことだ。奏の決まりの悪さを知って、狸寝入りをしているのかもしれないが、その気遣いさえも苛立ちを覚える。そもそも、奏は、郁人のありとあらゆる言動に苛立ちを覚えるのだが。そのくせ、一切無視をしたり、接触しないように避けることが出来ないのが始末に終えない。 立ち上がり、歩き始めると、腰から重りでもぶら下げているかのように下肢がだるかったが、強引に足を動かしバスルームへと向かった。 情事の残滓を流しさるべく、軽くシャワーを浴びて脱衣所兼洗面所に備え付けられている大きな鏡を覗き込む。首筋やら胸元に、まるで悪い伝染病にでもかかったかのように派手な鬱血の痕があるのを、ぼんやりと見つめた。洗面台に両手を付き、体を支えながら、またもや小さな溜息をもらす。どこか狂っている、と、さして緊迫感も無く奏は思った。 短い2年ほどの蜜月のあとの別離。そして、再会。 あれほど憤り、決して郁人を許すまいと奏は決心していたはずなのに、体の関係が戻ったのは、再会して、わずか三ヶ月ほどした頃だった。それ以来、このずるずるとけじめの無い腐った関係が続いている。かれこれ、1年近い。しかも、矛盾するように、いつでも郁人を焚きつけて誘うのは奏のほうなのだ。 当然だ。郁人に奏を自由にする権利など無い。未だに、奏は郁人を許したつもりはないし、これからも、許す予定はない。だのに、まるで恒例行事のように、月に2、3度はこうして郁人を呼び出してセックスをする。する度に、奏は後悔する。もうしないと思っているのに、一月ともたず、麻薬の切れ掛かった中毒患者のように郁人を呼び出す。 しかもこの春、音大への復学を理由に宇野辺衛のマンションを出て、ワンルームマンションに一人暮らしを始めてからは、その頻度は、ほぼ週一という体たらくだ。 だが、郁人とのセックスがそれほど気持ちが良いのかと問われれば、その答えは否だ。快楽よりも苦痛が勝る。それは、郁人の抱き方が原因だった。 体中に散らばった鬱血の痕が示すように、郁人の抱き方は酷く激しい。一度で済んだ試しもない。高校時代とは別人のように、余裕も無く奏を執拗に追い詰める。そこには、恋人同士のような甘さは、一切無かった。だのに、奏は、そのことに安心する。郁人の抱き方に、穏やかさなど全く存在しないことに、抱かれるたびに安堵してしまうのだった。安堵という表現は、むしろ過小表現かもしれない。正直に言ってしまえば、そのことに喜びさえ感じるのだ。 ただ屈託無く笑いあい、全身で好意を伝え合えたのはほんの数年前の話なのに、自分達は随分と遠く変わってしまったのだと思う。覗き込んだ自分の顔は、成人を向かえ、青年に差し掛かったことによる成長を加味しても、随分と雰囲気が変わったように思えた。兄に似てきたのだと漠然と思い、いや、今の兄ではなく、大学時代の兄に似てきたのだと思い直した。 奏と、兄である響は顔の造りは似ている。少なくとも、初対面の人間が見て兄弟だとすぐに気がつける程度には似ている。だが、二人の持つ雰囲気があまりに違うため、最初は似ている兄弟だ、と言っていた人に、次第に、やっぱりあまり似ていないと言われることも少なくは無かった。 以前、響と奏をはっきりと見分けさせていたのは、響の纏っていた翳りだった。対する奏は天真爛漫、無邪気な性質で、正反対の兄弟だと、二人を良く知る周囲の人は誰しもがそう言った。 けれども、今は、どうだろう、と奏は自分自身で思う。鏡に浮かぶ自分の瞳は、決して天真爛漫と呼ばれるようなそれではなかった。今まで知らなかった色々な物を、このわずか数年の間に郁人は奏の心の奥底の、決して取り去ることの出来ない場所に植え付けた。そのどれもが、決して明るくも美しくも無いものだ。自分の中に、これほどまでに暗く、重たい何かが存在していることを奏は、郁人と深く関わるまで知らなかった。知ったからこそ、郁人が許せない。否、許さないのだ。 時折、奏は自分でも分からなくなる。自分が、郁人に向ける感情が一体なんなのか。三年前までなら、はっきりと分かった。それは、恋だとか愛だとかよばれる、キラキラとした綺麗なものだった。それが粉々に壊されて、けれども、心の中から吐き出すことも出来ず、砕け散った欠片達が、腐ってドロドロと澱のように深い場所に積もっていく。もしかしたら、醗酵して腐臭さえ放っているのかもしれない。 相手の事が好きならば、愛しているのなら、きっと、その人が苦しんでいる姿を見るのは苦痛だろう。何かに飢えているのなら与えてやりたいと思うだろう。けれども、奏は郁人が自分の許しを得られずに苦しんでいる姿を見ると、暗い愉悦を覚える。自分から奏を求めることが出来ずに飢え乾いている様を知れば、後ろめたい高揚感に包まれる。 奏を抱く時の、郁人の激しさは演技してのものではなく、隠し切れない飢えから来るのだ。だから、郁人の抱き方が激しければ激しいほど、奏は溜飲を下げる。まるで、美味しい餌を見せびらかすだけ見せびらかして、容易にはそれを口に入れてはやらない意地悪な飼い主のように。 「俺って、サドっ気があったのかな」 鏡の中の自分の顔が、自嘲気味に笑う。その笑い方も、割合と最近覚えたものだった。精神的にはサドかもしれないが、肉体的にダメージを被っているのは自分なのだから、やっぱり、マゾなのかもしれないと益体もないことをぼんやり考える。いずれにしても、優位に立っているはずの自分が長い間「待て」をすることができずに、堪え性も無く、短いスパンで郁人を呼び出してしまうのは事実だ。けれども、その動機はセックスがしたいからでも、欲求不満でもない。 普段の奏は、案外と淡白な性質だった。年齢の割りに、さして、したいとも思わない。だのに、郁人だけにはそれが反転する。まるで、パブロフの犬かと自分でも呆れるくらい、郁人と接触すると激しい情動に飲み込まれてしまう。ならば接触しないようにと、郁人を避けて距離を置けば、今度はどうにもならない暗い不安に襲われる。郁人が奏を追いかけることに疲れて諦めてしまったらどうしよう、と、いてもたってもいられなくなるのだ。ゆえに、長い間、郁人と触れ合わずにいられない。そんな自分の弱さが奏は無性に腹立たしかった。鏡を見つめながら、イライラと爪を噛む。以前には無かった癖だが、郁人と一緒にいると頻繁に出てしまう癖だ。 すぐ近く、自分の後ろの方に人の気配があるのに気が付いてはいたけれど、気が付いていない振りで鏡のほうだけを見つめていると、 「奏」 と、低い声が聞こえた。随分と切羽詰った声だ。ふと頭によぎったイメージは、メロドラマか何かの修羅場で、別れるつもりなら殺してやると包丁を持った男に迫られるシーンだった。馬鹿馬鹿しい連想に、奏は小さな笑みを零す。もちろん、郁人は包丁など持っていなかったし、自分達は別れ話がこじれているわけでもない。 気配が近づいて、鏡の中の郁人が鏡の中の自分に後ろから覆い被さって来ても、奏は決して振り返らなかった。鏡越しに目が合ったけれど、何も言わない。 「奏、奏」 と、郁人は馬鹿の一つ覚えのように奏の名前だけを呼び、後ろから乱暴な手つきで奏の体をまさぐり始めた。尻の辺りに、完全に勃ち上がっている郁人の性器が触れる。奏は眉間に皺を寄せ、 (郁人って、前からこんなに絶倫だっけ? ) と、悠長なことを考えた。既に、ベッドで三回はしているはずだ。最後の方は、奏の意識も朦朧としていたのでその回数が正確かどうか、定かではないが。 性急な手は奏の胸元を弄り、右、左、と変えながらやや強めにその先端を押しつぶして転がして、摘み上げる。それは簡単に芯を持ち、奏の意思に反して尖って敏感に刺激を伝えてきた。 「ア…ウッ……」 狭い場所では、酷く声が響いて奏をいたたまれない気持ちにさせる。鏡に写った自分の顔は上気して、真っ黒な瞳は潤んで媚びているようだった。 「奏、奏」 と、呪文のように呟く声に首筋をくすぐられる。それさえも、奏は簡単に快感と捉えて、背筋に甘い痺れを走らせた。声の合間に、うなじから耳の裏にかけてをねっとりと舐め上げられる。なおざりに奏の性器を扱き上げて勃たせてしまった手は、忙しなく後ろへと周り、まだ柔らかさを残していたその場所をもう一度、ほぐしにかかっていた。 「ア、ア、アンッ」 上体を支えていられなくなり、洗面台にすがり付いていた腕に顔をうずめて奏は体を支える。まるで、盛りの付いた犬のように郁人は、焦らす事も無く奏の中に自分を埋めた。条件反射のように、奏の中が郁人を締め付ける。まるで、離すまいと貪欲にむしゃぶりついているかのようだった。 「うっ」 と、短い呻き声を漏らして郁人の動きが止まる。暴発するのを堪えたのだろう。初めての高校生でもあるまいし、入れただけで達してしまうのは、さすがにプライドが許さないのかもしれない。だが、短いブランクの後、すぐに郁人は激しく腰を動かし始める。まるで、奏を責め立てるかのように。アンアンと、甲高い喘ぎを上げながらも、奏は必死に抗議の言葉を口にする。 「……ンッ! ……きとっ! 郁人っ! ……ゴムッ! してなッ……」 普段は完全に優位に立っている奏だが、一度セックスになだれ込んでしまえば割合と、郁人の好きにさせている。けれども、上手に説明できないわだかまりが胸にあって、生ですることだけは、いつも嫌だと訴えていた。もっとも、それが受け入れてもらえる確率は、お世辞にも高いとは言えないが。この時もそうだった。 「後で俺が全部洗うから」 そう言ったきり、奏の弱いところばかりを狙いすまして突いてくる。 (そしたら、また、風呂の中でもう一回じゃないか! ) 声に出す余裕も奪われて、心の中でだけ奏は悪態を付く。嗚呼、せめて今日が休日であることだけが救いだと、大して慰めにもならないことを自分に言い聞かせて、奏は郁人の良いように体だけは明け渡したのだった。 再び目を覚ましたのは、すでに西日が差し込む時間だった。もちろん、隣りには誰もいない。これもいつものことだった。郁人は奏を抱き潰した後、何も言わずに静かに奏の部屋を出て行く。一人きりで目を覚ますことに幾ばくかの寂しさを感じないといえば嘘になるが、逆に二人で目を覚ました後の気まずさを考えれば、郁人の行動はむしろありがたかった。幼馴染だからなのか、郁人は奏のこういう性格を良く知っている。 長めの時間を睡眠に費やしたからか、郁人が有言実行よろしく後始末を丁寧にしてくれたからか、体のだるさはずいぶんとましになっていた。明日は月曜日で、午前中の講義はない。もう少し、ゆっくりと休めば、きっといつもの自分だ。 体の疲れはともかく、精神的には溜め込んでいた鬱憤を吐き出したかのようにすっきりとしていた。郁人がまだ自分を求め、飢え乾いていることを確認できて安堵したからだろう。そんな自分を、救いようが無いと思いつつ、奏は出かける支度を始めた。 向かう先は、未だに名義が『二宮奏』のままの店だ。何度言っても、梓は、奏をオーナーの席からはずそうとはせず、自分は雇われ店長だと言って憚らない。いい加減、面倒くさくなって、それならば名義を兄にでも変えようとしたら、それもまた、断固として断られた。もっとも、奏としては、店でピアノさえ弾ければ名義など誰でも構わない。ただ、大学に復帰した今現在、音大生とプロのピアニストの二足のわらじを履いている状態だから、肩書きを一つでも減らしたいというのが正直なところだった。 のんびりと軽い食事を取り、緩い規定となっている服装の白いシャツと黒いボトムに着替えてから店に向かった頃には、辺りはすっかりと黄昏時になっていた。 薄暮の中に浮かび上がるレトロな建物から、明るい光が漏れてくるのを奏は、何ともいえない詮無い気持ちで見つめる。安堵と郷愁をないまぜにしたようなそれ。奏には故郷が無い。早世した父も母も、血縁の薄い人だったからだ。経済状況によって、アパートを転々とした奏達一家の一番の拠り所、変わらぬ場所は、この店だった。 店の中から、何人かの客が出てくる。その表情は楽しげで、店のサービスに十分満足したことを伝えていた。カランというドアベルの音と一緒に、店内に響いているピアノの音が漏れ聞こえてくる。聞き慣れた、奏の好きな、兄のピアノの音だった。誰にも気付かれぬよう、猫のような仕草で出てくる客の横をすり抜け、奏は開いたドアに身を滑らせた。 店内では誰も彼もがピアノを演奏している響に注目している。イギリスから戻り、透とも奏とも和解した響は、まるで一皮向けたように、開放的になった。ピアノを禁忌として自らに巻きつけていた鎖を外し、ただ、己の欲するままにピアノを奏でる。その音は、幼い頃に聞いていた奏を惹きつけてやまない兄のピアノと同じだった。いつのまにか見つけて来た私立高校の音楽の臨時講師の仕事とは別に、響は、暇さえあれば、こうして店のピアノを弾いている。どうやら固定ファンも付いているらしく、リクエストを気軽に受けては、結構な額のチップも稼いでいるようだった。店の中心におかれたグランドピアノを弾く響の表情は、酷く楽しげであどけない。まるで、少年のような明るい顔だった。 日本に戻ってきてからの響は、随分と以前のような翳りが薄れたように思う。奏とは反対の変化だ。それは、奏の心を随分と軽くしてくれた。響の苦悩に気が付かぬ演技を続けていた間も、常に奏の肩に重くのしかかっていたそれは、綺麗に消え去った。罪悪感だとかもどかしさだとかを混ぜ合わせたそれを解消できたことは、あの、辛いだけの期間が唯一もたらした功績かもしれない。 響の演奏が続いている中で、いつでも一番最初に奏に気が付くのはカウンターに寄りかかっていた郁人だった。それは、どんなに店内が混雑していても、奏の目が一番最初に見つけ出してしまうのが郁人なのと同じだ。一瞬だけ目が合うと、郁人は晴れ晴れとした穏やかな笑顔を奏に向けたが、奏はそ知らぬふりで無愛想にプイとあさっての方向に顔を向けた。 (あれだけヤりまくれば、すっきりするだろうよ) 心の中で悪態をつきながら、カウンターに向かうと、定位置に座っていた透が奏に気が付き、眼鏡の細いフレーム越しに優しげな眼差しを向けてきた。ここ一年で、透は随分と落ち着いたような気がする。もともと冷静沈着で動じるところなどあまりみせない透だが、それでも、以前は、隠しきれない焦りだとか奏に対する割り切れない感情が透けて見えたりもしていた。恐らく、響となんとか上手くやっているのだろう。時折、都築が横槍を入れているのだと耳にもするが、そんなことは犬も食わないなんとやら、だ。いつも奏は、はいはいと右の耳から左の耳へとスルーしている。 郁人が寄りかかっている位置から一番遠いカウンターの席に腰を下ろすと、何も言わないうちにまかないの料理が差し出される。目の前には梓が立っていて、やはり、奏に優しげな視線を向けていた。何とはなしに、奏はホッと一息吐き出して梓に薄い笑みを見せ、 「ありがとう」 と呟くように言った。 「響、そろそろ休憩するけど交代する?」 「うん。弾きたい」 梓には意地を張る必要も無く、素直に奏は答える。もっとも、いつ聞かれても、奏はこのことにだけは嘘をついたことが無い。 ピアノが、弾きたい。 それはシンプルで、何があっても決して揺らがぬ、奏の中の真理だ。 「やっぱり、ピアノもう一台入れたほうがいいかね。連弾もできるし」 何気なく提案されたことに、奏は苦笑いを零す。 「必要ないよ。共演は、一回だけで十分」 「そう?」 答えた奏に梓は首を傾げるが、それは、正直な奏の気持ちだった。兄とピアノを弾くことが嫌な訳ではない。とはいえ、一緒にピアノを弾いた一番新しい記憶は、一年以上前のステージでの共演だ。素直に楽しいステージだったと今でも思うけれど、ただ、漠然と、次の共演はずっとずっと先が良いと思う。上手くは言えないけれど、宝物はそっと大事に箱の中に閉じ込めて、ごく稀に箱から出して手に取るから余計に輝くのだ。 それに、兄はそれほど自分のピアノが誰かに認められることに頓着していない。だから、奏と連弾などして注目を浴びることを望んではいないだろう。奏との共演以来しばらくの間、響には、あちこちからオファーがあったらしいが、その全てを蹴飛ばして、私立高校の音楽の臨時講師というありふれた職についた。ただ、以前と違うのは、そのピアノの腕を隠したりせず、大盤振る舞いのように生徒や同僚の教師に請われるがままに聞かせているらしい。先日などは、その高校で行われた校内合唱コンクールで、副担任をしているクラスの合唱の伴奏をしてやり、他のクラスの生徒達からずるいとブーイングが起きたと、透から教えてもらった。 奏には響の気持ちが良く分かる。なぜなら、基本的なスタンスは奏も同じだからだ。ただ、ピアノが弾きたい。そして、それが誰かの心に届けば良い。その誰かは、大勢で無くても良いのだ。極端な話、たった一人のために弾くだけでも満足できる。きっと、奏の身に何も降りかからなかったのならば、恐らく奏は響と同じような音楽の教師や、ピアノの講師といった道を選んでいただろう。 ただ、奏には今現在も継続してスポンサー兼プロデューサーである宇野辺衛との契約があるから、プロであり続けている。ビジネスだけの問題ではなく、衛には頭が上がらないほど世話になっているので、恩返しという側面もあるのだが。 盛大な拍手と歓声の中、演奏を終えた響がカウンターに向かって歩いてくる。奏の姿に気が付くと、フッと柔らかい笑みを零してその隣の席に腰を下ろした。 「久しぶり」 響はどこか意地悪めいた笑みを浮かべて、そんな台詞を吐いた。これは嫌味だ。なぜなら、響とこの前会ったのは一週間前で、決して久しぶりなどではないからだ。響とはもう、一緒に暮らさないと決めた奏に、響がチクチクとこんな嫌味をぶつけてくるのはいつものことで、透がいるのにいい加減にしろよと奏は思うのだが、当の透本人は気にした風も無く笑ってそれを傍観している。以前とは違う信頼関係が二人の間に築かれているからこその態度だと思えば、嬉しくもあり、少しばかりの寂しさもある。 「久しぶりじゃない。一週間前に顔見たばっかりだろ」 ぶすっとした可愛げの無い表情で奏は答えたが、それこそが可愛いとでも思っているかのような表情で響は笑い、奏の頭をクシャクシャと撫で回した。ふと、響が自分の兄なのだと今更のように奏が思うのは、こんなときだ。 以前の響は、奏に対しては決して弱みを見せまいと張り詰めていた。しっかりとしていたし、家の雑事はほぼ一手に引き受けていた。だのに、今、すっかり肩の力が抜けた響に甘やかされれている時のほうが、奏は響を兄だと実感するのだ。それは、その距離感から来るものなのかもしれない。 ひとしきり奏の頭を撫で回し、それから、じっと奏を見つめていた響は不意に呆れたような表情になると、奏の白いシャツの襟をつんつんと戯れに引っ張った。 「……お前らさあ……」 そう言ったきり、響は黙り込み、それから振り返り同じような表情で郁人を見て、再び奏に目を戻す。 「ヤりたい盛りの年頃ってのは分かるけど、見えるところに痕つけるの止めるか、じゃなければ服選べよ」 言われてようやく、奏は郁人に付けられていた痕が見えていたことに気が付き、慌てて襟元を握り締める。郁人の馬鹿野郎と小さく呟いて、郁人を睨みつけたが、気にした風も無くニッコリと笑いかけられて、怒る気力も萎れてしまった。 「若いってのは良いねぇ」 からかうように言われて腹が立ち、奏は不意打ちで響の着ているVネックのニットシャツに手を伸ばした。胸元が深く見える位置までシャツの襟を引っ張り下げる。服が伸びると文句を言われるかもしれないが知ったことではない。 だがしかし、響の胸元には奏が期待したような印は一つも見つけられなかった。それが悔しくて響の顔を睨み上げれば、ニヤニヤと人の悪そうな笑みを浮かべている。 「僕は一応センセーですから。不埒な痕なんて付けてません」 ふざけた口調で響は言う。更にむくれて八つ当たり気味に透のほうに視線を移せば、 「うちは、きっちり調教されてるからね」 と、やはりからかうような顔と口調で返された。どっちがどっちを調教してるんだ、という言葉は賢明にも喉のところで抑え、奏はカウンターのテーブルに置かれた水を八つ当たり気味に一気に飲み干した。 「ま、ヨリが戻って盛り上がってんのも分かるけどな」 と、全くフォローになっていないフォローをされて、奏は複雑そうに顔を歪めた。 「ヨリなんて戻ってない」 ぶっきらぼうな声で反論した言葉は郁人にも聞こえていたはずだ。だが、もちろん、郁人はそれを肯定も否定もせず、賢い犬のようにニッコリと笑っただけだった。響は奏の言葉に心底呆れかえった表情で、 「ヨリ戻ってないって言ってもなあ」 と言いつつ、もう一度、ツンツンと奏の襟元を引っ張る。今度は隠す気にもならず、奏はそれを放ったらかしで、 「うるさい! ピアノ弾く!」 と、半ば逆切れのように言い捨てるとカウンターの席から立ち上がった。視界の端に、響と透と梓が、肩を震わせて笑いを堪えているのが見えたけれど。 それを一切無視して、奏はピアノの方に向かったのだった。 |