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シュッと音を立て、マッチに火をつける。その火をいくつか立ててある蝋燭に移し、その後、線香にも火をつけてからフッと吹き消した。 ユラユラと、線香の煙が静かに上っていく。真っ青な夏の空に、眩しい太陽。一筋の飛行機雲が、紙にジワジワと広がるインクのように、輪郭を曖昧にぼやけさせつつあった。買ってきた仏花の包装紙を外し、既に飾ってある花の隣りに追加して飾る。蓮川が、母の命日に墓参りに来るのは毎年の事だったが、そのいずれの年にも、こうして、必ず、先に花が飾ってあった。それを誰が飾ったのか、蓮川は知っている。今まで、一度も確認したことは無いけれど、なぜだか知っていた。 こんな時、蓮川は何とも言えない複雑な心境に陥る。嫌でも、血の道、というものを感じるからだ。 去年の命日には、なんとなく思い立ち、裕太を一緒に連れてきたけれど、今年は一人で来た。裕太が、どうしても参加しなくてはならない学会と、日にちが重なっていたせいもあるけれど、蓮川自身が精神的に安定しつつあるからだろう。去年の今頃は、どうして、と思うほど、焦っていたような気がする。裕太と進路が別れ、将来の先行きに、らしくもなく不安を覚えたからなのだと今なら分かるけれど、当時は本当に必死だった。もっとも、その事を、当事者の一人である裕太は、未だに、あまり理解していないようだが。 それでも、今日、墓参りに行くことを告げた時には、穏やかな微笑みを浮かべて、 「ゆっくり、話して来れば?」 と言ってくれた。その表情は、酷く大人びていた。最近、裕太は、そんな表情を見せることがある。何ともいえない、穏やかで温かい眼差しを蓮川に向ける。それは、蓮川に、バツが悪いようなくすぐったい居心地の悪さと、心の底からの安寧との相反する二つを同時に与えるものだった。 母の墓前で、蓮川は手を合わせる。目を閉じて思い浮かべる母の顔は、いつも寂しげな綺麗な笑顔だった。母は、いつも笑っていた。泣いている顔を思い出せないほど、いつでも、蓮川には笑っていた。蓮川は七歳になるまで母と二人暮らしで、その後の八年間は祖父母の家で育ったが、どうしてか、鮮明に思い出せるのは母と二人きりで生活していた子供の頃の事だった。 狭い六畳一間のアパート。かろうじてトイレは付いていたが、風呂は無かったから、近くの銭湯に行くのが日課だった。安っぽいビニール袋に着替えと、タオルと、石鹸を入れて母と夜道を歩く。それを学校でからかわれたこともあったけれど、蓮川は、自分が惨めだとも可哀相だとも思ったことが無かった。確かに豊かでは無かったけれど、それでも、真綿に包まれるように温かく、楽しかったと言う印象しか残っていない。それとは別に、一つだけ忘れられないことがある。まるで、鍋の底にこびりついて取れない汚れのように、それは、蓮川のどこかに残り続けていた。 毎月一日にだけ、訪れる男の事を蓮川はあまりよく見たことが無かった。その男が来ると、いつも母は一人で外に出て、ドアをピシャリと閉めてしまっていたからだ。薄い玄関のドア越しに聞こえてくる会話はいつも同じで、だから、蓮川は嫌でも覚えてしまった。 『今月の分だ』 『いりません』 『いいから受け取れ』 『受け取れません』 そして沈黙。微かな衣擦れの音。 『私の欲しかったものは、こんなものじゃありません』 最後の母の台詞はいつも同じで、その言葉に何も答えることなく男が立ち去るのも同じだった。 一体、男が何を差し出していたのか、そして母はそれを受け取ったのかどうなのかを蓮川が知ったのは、母の死後だ。蓮川要の名義で、毎月、少しずつ金額を増やしながら積み立てられていた貯金の金額は、ゆうに八桁に達していた。 いつもは笑顔の母が、その男が来た後だけは、酷く沈んだ暗い顔をしていたのを、蓮川はもどかしい気持ちで見ていた。泣いてはいないけれど、今にも泣き出しそうな顔で、ぐ、と唇を噛み締めている。胸が痛くなるようなその顔は、けれども、なぜだかとても綺麗に見えた。 『お母さん』 と蓮川が声を掛けると、母は力なく笑い、 『要の顔は、お父さんに似てるねえ』 と言いながら、蓮川の頭を優しくギュッと抱きしめてくれた。柔らかな温かい胸の中に。 不意に、ジャリッと地面を踏みしめる音が背後からして、蓮川は振り返る。 「ああ、やっぱり要だ」 振り返った先には、珍しく、地味な黒いサマードレスに身を包んだ涼子が立っていた。涼子は、蓮川の父親の愛人で、言うなれば、母とは敵対していたはずの女性なのに、毎年、こうして母の墓参りに訪れてくれる。それどころか、本妻の息子である自分を、15歳の頃から育ててくれた。懐の大きい人だと思うし、感謝もしているが、どうしても、最後の最後で心を許せない。それを涼子も知っていて、だから、蓮川は大学に進学した時から、涼子の家を出た。出た後も、母親のように、涼子は折に触れて蓮川の心配をしてくれる。それは、蓮川にとって半分は嬉しいことで、半分は申し訳ないことだった。 「……涼子さん」 蓮川は、涼子の腕の中にある大きな花束を呆れたように見つめる。涼子は、いつも、仏花にしては豪華すぎるだろうと言うほどの、大きな花束を持ってくるのだ。 「その花、どこに置くつもり?」 苦笑いを漏らしながら蓮川が尋ねると、涼子はふふんと得意げに鼻で笑い、墓石のまん前のスペースに、ドサッとその花束を置いた。花束の殆どは真っ白な百合で占められている。母のイメージなのだと、涼子は以前に言っていた。 涼子は線香を供えると膝を折り、両手を合わせて、随分と長いこと目を閉じていた。それを邪魔することも出来ず、蓮川も傍らにじっと佇んだまま墓石を見つめる。静かな墓地に、ジジジと、蝉の鳴く声だけが響き渡っていた。 「十年か」 いつの間にか目を開いていた涼子は、独り言のように漏らし、すっと立ち上がる。ふっと見やった彼女の横顔は、どこか凛として、何かをふっ切ったようなそれだった。 十年。長いようで短い。母が亡くなって、もうそんな時間が経ったのかとも思ったし、まだそれしか経っていないのかとも思った。ふ、と思い立って蓮川は口を開く。 「涼子さん。俺の母親の事、憎くないの?」 ごく自然に、するりと零れ落ちた言葉は、今まで、ずっと蓮川が禁忌にしてきたはずの言葉だった。母が憎ければ、恐らくその子供である自分も憎いだろう。それを知るのが怖かったのではない。そうではなく、その質問は、涼子を傷つけ、追い詰めるそれのような気がして聞けなかった。 涼子は、少しだけ驚いたような顔で蓮川を振り向き、けれども、すぐに、ふっと柔らかく笑った。 「どうかな。憎いのかもしれないけど。でも、罪悪感の方が、ずっとずっと大きいわ」 「罪悪感?」 「そう。もう、時効かな。要も大人だし、知っても良いわよね。仁が、こんな仕事で一生懸命、お金稼いだのって、貴方のお母さんのためだったのよ」 「……母さんの?」 仁、つまり自分の父親は、母にとってはただの害虫だとしか蓮川は思っていない。何もかも、あの父親が悪いのだ。母が苦労したのも、いつも、どこか寂しげな笑顔を浮かべていたのも。ろくでもない仕事をして、フラフラしてばかりで、一度も、母を省みたことなど無かった。それが、どうして母の為だなどと、涼子が言うのか蓮川には分からなかった。 「……故人を悪く言う気は無いのよ。でも、あなたのお祖父さんって、とても厳格で、格式に拘る古い考えの人だったでしょう?」 「……ああ」 「一度はね、仁はお祖父さんの所に頭を下げに行ったのよ。真面目に、お嬢さんを下さいとかって土下座したらしいわ。まあ、その時、既に、容子さんは妊娠してたんだけどね。……それを、あなたのお祖父さん、ろくに話も聞かずに、仁を蹴り倒して、お前みたいな馬の骨に二度と娘には会わせないって言ったらしいわ。でも、仁も、もともと育ちが良くなかったし、取り立てて学歴があるわけでもないし、結局、水商売でしかのし上がる方法を思いつかなかったの。少しでも早くお金を稼いで、容子さんを迎えに行きたかったんでしょうね。かなり、危ない橋も渡ったりしてた。私は、そういう仁の状況を知ってて付け込んだのよ。ぶっちゃけ、ホステスとしては、私も相当稼いでたしね。仕事上の手駒として、仁が、私の事、手放せないことを私は知ってたのよ」 涼子は、そこまで言うと、何かに耐え切れなくなったかのように、ふいっと視線を逸らし、俯いた。その細い肩が微かに揺れている。不意に、蓮川は気が付いた。涼子は、こんなに小さい人だっただろうかと。 すぐ近くで聞こえていた蝉の声が止まる。忙しない羽音が聞こえたから、きっと、どこかに飛び去ったのだろう。蓮川は何も言えずに、ただ、立ち尽くしていた。 「あの頃の仁は、メチャクチャだった。気持ちと体がバラバラで。容子さんにもそれが、理解できなかったんだと思うわ。そもそも容子さんは、お金なんてどうでも良かったのよ。仁に手を引いて連れて行ってもらえれば、貧しかろうがなんだろうが幸せだって思う、そういう人だった。でも、仁にはそれが分からなかった。ある程度、仕事が軌道に乗って、まとまったお金が手に入って容子さんを迎えに行った時には、もう、容子さんは気持ちを閉ざして、開いてくれなかった。……本当は、相思相愛の二人だったのにね」 涼子はそこまで言うと、いったん口を噤み、墓石の方に目を移した。そして、そこをじっと見つめる。まるで、そこに蓮川の母、容子が立っていると思っているかのように。 「私、一度、容子さんに会いに行ったことがあるのよ。まだ、あなた達が、古くて狭いアパートに二人で暮らしてた頃。持っている中で一番高い洋服を着て、馬鹿みたいな値段の宝石も付けまくって、しっかり化粧もして、何百万もする時計をつけて行ったわ。容子さんが、仁からの金も受け取らないで、当て付けみたいに、みすぼらしい生活をしているのが腹立たしかったから文句を言いに行ったの。仁が容子さんしか見てないのが分かっていたから余計に彼女が憎かった。金を受け取らないなら、さっさと離婚しろとも言ったわ」 涼子の言葉を聞いて、蓮川は、ふ、と奇妙な事実を思い出す。父と母は、ずっと絶縁状態のようなものだったのに、決して籍を抜こうとはしなかった。最後の最後、母が死ぬまで母も、そして蓮川も、『蓮川』の籍に入っていたのだ。 「容子さんはね、即答で嫌だって言ったわ。自分は仁を愛しているから、仁が離婚するって言うまでは絶対に籍を抜かないって。その顔を見てね、私、この人は何て綺麗な人なんだろうって、絶対に勝てないって思った。容子さんは、化粧もしてなければスーパーで安売りしているような服しか着てなかったのにね、私よりも、ずっとずっと綺麗だと思ったわ」 自嘲の笑みを浮かべて、涼子は言う。いつの間に、日が傾いていたのだろうか。先程は聞こえなかった蜩の声が、他の蝉の声に混じり始めていた。 「仁を愛しているなら、どうして仁のところに来ないの、お金だって受け取れば良いじゃないって言ったら、容子さんは悲しそうに笑ってね、私の欲しいものはそんなものじゃないんです。あの人が、それに気が付いてくれるまでは、あの人の所には行きませんって。……でも、あの馬鹿男は、結局、最後まで気が付かなかったけど。容子さんが死ぬまで、ううん、死んだ今でも気が付いていないわ。…………可哀相な人」 母の本当に欲しかったものが、蓮川には分かる気がした。そして、父が、それに気が付かないだろうということも、不思議と分かる気がしたのだ。蓮川は、そんな自分に戸惑う。それが、恐らく表情に出ていたのだろう。 涼子は、ふっと蓮川に視線を移し、少しだけ、表情を和らげた。 「仁が憎い?」 「……分からない」 以前なら、即答で肯定していた質問に、なぜか答えられず、蓮川は首を横に振る。 「じゃあ、容子さんは不幸だったと思う?」 続けて尋ねられた質問に、思い出したのは、初めてまともに付き合った女(ひと)の最後の言葉だった。母は、きっと不幸じゃなかったと彼女は言っていた。そんな風に、蓮川も、誰かを愛することが出来るのだ、とも。連想ゲームのように、次に思い出したのは、今、一緒に暮らしている恋人の顔だった。 はい、とも、いいえ、とも答えられずに蓮川は首を横に振る。 「……それも、よく分からないな」 正直に答えた蓮川に、涼子はそれ以上、追及することはせずに、ただ、 「そう」 と、穏やかに笑っただけだった。 「そろそろ、私は帰るわ。今度、裕太君も連れて、遊びにいらっしゃい」 先程までの重たい話が嘘のように、涼子はからりとした軽い口調で告げると踵を返した。カツカツとヒールの音を立てて遠ざかる背中を見送ってから、蓮川は、腕時計に視線を落とす。もう少しで、裕太の学会の終わる時間だ。会場まで、迎えに行こうと、蓮川も歩き出した。 黄昏の薄暗闇の中、車を止めて裕太を待つ。学会の会場であるはずのビルからは、ざわざわと人が出始めていた。手持ち無沙汰に、煙草を吸い続けたせいで、車内の灰皿はすでに一杯だ。 蓮川は、本来、待つという行為が苦手だった。待つ間に、どうしても、奇妙な閉塞感が付きまとうからだ。それは、狭いアパートの中で、すぐに追い返すだろう男を、毎月待っていた母を思い出してしまうからだったのかもしれない。それが、あまり苦痛でなくなったのは、裕太と付き合うようになってからだ。 ドアの中から、一人の青年が出てくる。慣れないネクタイを窮屈そうに緩めながら歩く姿は、どこか、子供っぽい。自分の存在を知らせるかのように、クラクションを軽く鳴らすと、猫背が少しだけ伸びて、視線をふとこちらに移した。フロントガラス越しに目が合うと、裕太は屈託無く笑う。笑って、車に向かい駆けて来た。何の戸惑いも無く、助手席のドアを開け、車に乗り込む。裕太が助手席のドアを閉めた瞬間に、蓮川は、不意に煙草の臭いが気になって、ウィンドウを開いた。エアコンで冷えていた車内に、夏の夜の熱気が流れ込む。裕太は、不思議そうに、 「何で窓開けんの?」 と尋ねてきた。 「……いや、煙草の臭いが気になるかと思って」 蓮川は煙草を吸うけれど、裕太は吸わない。大学時代の研究室は、理系だったせいもあり、男が多く、煙草を吸う人間の比率が高かった。もともと、喫煙の習慣が無くとも、飲み会などで、つられるように吸い始める人間も少なくなかったのに、裕太は吸わなかった。なぜ吸わないのかと一度聞いた時に、返ってきたのは、 「不味いから」 という、至極、シンプルな答えだった。 「中学の時に、友達に誘われて、試して吸ってみた事あるけど、マズくて最悪だった。なんで、あんなの皆吸ってるか分かんなかったもん」 だからと言って、裕太は喫煙を否定しているわけではない。単なる嗜好の問題で、自分は不味いと思うから吸わないだけ。裕太が好きな酒を、酒の嫌いな人間には勧めないのと同じことだった。 そんな風に、裕太は全てにおいて自分の気持ちに嘘がない。性格は意地っ張りなのに、芯の部分が真っ直ぐで、自分を虚飾しようという部分が殆ど無いのだ。それは、物の選び方にも表れている。安いものでも気に入れば使うし、高いものでも、欲しければ、他を我慢して手に入れたりする。蓮川が、自分とは違うと思うのはそんな所で、そして好ましいと思っている部分でもあった。もしかしたら、自分は自分自身に対して嘘をつき続けていたのではないかと思うようになったのも、裕太と付き合うようになってからだった。 最初は、正直、セックスしてみたいという、ごくごく即物的な興味からだった。真面目に付き合うだとか考えていたわけではない。興味は執着に形を変え、いわゆる『恋』というものに変貌したけれど、今は、そこに、それよりも穏やかで、けれども深い何かも加わっているような気がする。 自分を気遣う蓮川に、裕太は不思議そうな顔を向ける。きょとんとした、猫みたいな顔だった。蓮川は、裕太のこんな表情が好きだ。キスしたいという衝動に駆られて手を伸ばし、髪に触れた瞬間、けれども思い出してしまった。ついさっき、裕太が来る直前まで自分が煙草を吸っていたことを。多分、煙草の臭いが強く残っているだろう。だから、キスすることを躊躇して、その髪をすっと梳いただけで手を離した。 すると、裕太は微かに頬を赤く染め、怒ったような顔で蓮川を睨みつけてきた。蓮川が特に好きな、情欲を誘われる(もっとも裕太はそれを自覚していないだろう)表情だった。 「なんで、キスしないの?」 責めるような、強い口調で裕太は尋ねる。キスしてもらえなかったのが不満だ、とでも言うような声だった。それに苦笑を漏らしながら蓮川は、 「いや、さっきまで煙草吸ってたから。お前、煙草嫌いだろ?」 と、正直に答える。裕太は、納得したのかしないのか、 「ふーん」 と答えると、蓮川の目をじっと見つめた。悪戯を思いついた子猫のように、クルクルと瞳を瞬かせて、裕太は蓮川に顔を近づける。そして、頭の後ろに手を回したかと思うと、らしくもなく、強引な仕草で蓮川にキスをした。珍しく、長くて積極的なキスを蓮川にした後、裕太はゆっくりと唇を離し、やっぱり悪戯な顔で笑った。 「俺、お前の、煙草の味のするキスは、嫌いじゃないよ?」 そしてそんな事を言う。その瞳は、いつもと同じ、真っ直ぐなそれだった。ふと、閃きのように蓮川は思い至る。この瞳は、母に似ている。父の事を語る母に、とても似ていた。裕太の瞳には、母のような翳りは無いけれど、その真っ直ぐさは同質のそれだ。 言葉につまり、ただじっと裕太を見つめていると、裕太は今度は少しばかり神妙な顔で、もう一度、蓮川に触れるだけのキスをした。それから、何気ない口調で、 「やっと学会も終わったし、さっさと帰って、家でゆっくりしようぜ」 と、蓮川を促した。なんとなく、してやられたような気分で、蓮川は、 「ゆっくり? できると思うか? お前の学会準備のせいで、二週間もお預け食らってたんだけど?」 と切り返す。こういうやり取りが、どちらかと言えば苦手な裕太だ。てっきり顔を赤くして憎まれ口でも叩くかと思ったけれど。 「うん、良いよ。今日は、好きなこと、好きなだけして」 返ってきた言葉は、らしくもなく大胆なものだった。けれども、その顔は、蓮川を誘うようなそれじゃない。まるで、慈しむかのような穏やかな表情だった。一緒に暮らすようになってから、時折、見せるようになった、あの表情。 「今日は特別。甘やかしてやる」 にっこりと、とびきりの笑顔つきで言われた言葉に蓮川は、絶句し、それから降参したように肩を竦めて見せた。多分、裕太は、蓮川がどれだけ裕太を好きなのか知らないだろうと思う。どれだけ救われているかということも。 車を走らせて、いつもと同じ家路を辿る。昼間の涼子の質問が、脳裏に寄せて返す。母は不幸だったのだろうか。死ぬまで、たった一人を思い続けたことは、幸なのか不幸なのか。真実は蓮川には分からない。それでも。 多分、自分が思っていたよりも、母は、幸福だったのだろうと思った。 |