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冬の道 ………………………………
 僕が初めて彼と出会ったとき、僕の身長は彼の胸の高さくらいまでしかなかった。
 泣くことも出来ずに、ただ、ぼんやりと座っているだけだった僕に綺麗で柔らかくて温かい手が差し伸べられて、僕は迷わずその手を取った。それで僕らは二人で生きて行くことになったのだ。
 僕は、一目で彼の笑顔を愛した。
 彼の清らかさを愛した。
 そして、それは今も変わらない。
 僕が彼の背を追い越してしまった今でも。




* * *




 ストーブの上のケトルがシュンシュンと音を立てて白い湯気を吐き出している。もう、大分古くなったストーブだ。今時こんなものを使っている家も珍しい。
 いい加減、ヒーターに変えたら? と言っても雪生には変えるつもりは更々無いらしかった。
 貧乏性なんだよ、と笑うけど本当はモノを大事にする性格だから捨てられないんだと知っている。そんな風に、モノにまで心を砕く、そういう所も僕は好きなんだけど。
 洗い物が終わったらしく、台所から居間に入ってくる途中でケトルをストーブの真ん中から端に寄せる。そのせいで、少しだけシュンシュン言ってた音が小さくなった。
 もう今はすっかり冬で、外に出れば吐き出す息も真っ白だけど、洗い物をしていたせいで雪生の袖は肘の辺りまでまくり上げられていた。無防備な白くて細い腕が明け透けに晒されている。まるで、僕を挑発しているみたいに。
「お茶、飲む?」
 薄く笑いながら、首を傾げて尋ねてくる。信頼しきったその仕草が僕の胸をチクリと刺した。
「うん。ありがとう」
 短めの答えを吐き出して、僕はさりげなく雪生の肘から視線をはずす。
 最近は、極端に言葉が減った。僕の中のコップがだんだん一杯になっていくのと反比例して。
 雪生が笑うたびに水かさは増えていく。雪生が僕に触れればもっと増える。コップが一杯になって水が溢れだしてしまうのを押しとどめるので精一杯。
 言葉なんて探している余裕は無い。もっとも、雪生は「思春期のせい」だと思っているらしいけど。僕が、雪生にしたいことを知ったならどんな顔をするんだろう。
 そんな捨て鉢な気分のまま僕は参考書に視線を移した。
 雪生は、僕の向かいに座ってこたつに足を入れる。僕の裸足の足と雪生の裸足の足がぶつかって、雪生は屈託無く「ごめんね」と笑った。
 本当に些細なことだ。
 同じこたつに足を入れて、足と足が触れただけだ。
 けれども、僕の中でその度起こる波は決して些細なものとは言い難い。
「別に」
 そっけなく言って、僕は足が触れなくなるようにこたつの中で膝を曲げた。酷く不自然な姿勢になって足がすぐに疲れてきたけれど、もう一度足を延ばすことは出来なかった。
 分かっている。僕が意識しすぎているだけだ。
 でも。こんな風に自分で気を付けていないと僕は何をしてしまうか分からなくて怖い。とても怖い。僕は、自分が雪生に対して抱いている気持ちをとっくに自覚していたし、何をしたいと思っているのかも分かっていた。

 蜜柑の皮を剥いているその綺麗な指先と、それをスルリと体内に取り込んでいくその薄い唇が。
 だから、僕にギクリと体を竦ませる。

 僕は慌てて、ノートに視線を移す。
 言葉が少なくなって、何となく避けているような態度を取ってしまう癖に、気が付くと目は雪生を追いかけている。雪生の伏し目がちな睫や、薄い唇や、無防備な首筋や、細い手足を。
「静かだね」
 穏やかな口調で雪生がポツリとこぼす。
「そうだね」
 僕も平静を装ってポツリと返す。
 けれども。
 けれども本当は、こんな風に二人きりで、静まり返っている夜は息が詰まって困る。




* * *




 その細い体を抱き寄せると、雪生は何の抵抗もなく僕の首に腕を回す。そのままキスしようと顔を寄せたら、下から上目遣いに見上げられた。
 いつもの、静かで穏やかな表情は浮かんでいない。そこに張り付いているのは、まるで僕をからかうような、嘲笑するような、誘っている表情。キスしようと顔を寄せると、近づくにつれてその繊細な睫が降りていき、唇が触れる頃には完全にその瞳は閉じられる。
 触れた唇は、薄く開かれていた。
 おいで、と、誘うように僅かに差し出された舌先に僕は易々と籠絡される。
 余裕が無くて、あちこちに触れようと雪生の体に手を這わせると、くすぐったそうにクスクスと笑って体を捩った。その笑い方さえ、いつもとは違う。
 先へ先へと僕を誘い込むような笑い方。

 年上だから?
 慣れているから?

 どっちでも良い、そんなこと。きれい事なんて言わない。僕はただ、夢中なんだ。目の前の体に溺れているだけなんだ。雪生の泣いている顔が見たい。気持ちの良さそうな声が聞きたい。僕のせいで蕩けてしまった体に触れたい。ただそれだけなんだ。
 雪生の体はしなやかで、僕の悦いように触れて、絡まって、グチャグチャに溶ける。いつもはそんなこと知りませんって綺麗な澄まし顔している癖に、今は僕の腰に足を巻き付けて一生懸命腰を振っている。何でこんなにいやらしいんだろう。まるで、すべての器官が僕を堕落させるために作られているみたいだ。
 僕は、純粋な欲望の頂点で熱を吐き出す。それは、表現しがたい到達感。
 ああ、だけど。
 だけど、僕は知っている。
 この先に待つ虚しさを。




* * *




 時計は、まだ起きるには早い時間を告げている。僕は苦々しい気持ちで一杯のまま、布団の中でため息を吐いた。もう、何遍見たか分からない夢だ。雪生への気持ちを自覚してからはますますエスカーレートする一方で、僕は罪悪感と虚しさを常に抱えて毎日を過ごしている。
 初めて見た夢は、ただ裸で抱き合っているだけの夢だった。
 見てしまった直後は、酷い罪悪感に悩まされたものだ。自分が変態になってしまったのだと悩んで、本気で精神鑑定でも受けようかと思った。けれども何度も見たその夢の相手は必ず雪生で、僕は、ただ単純に雪生が好きなのだと暫くしてから自覚した。それも、単純な「好き」ではない。恋愛感情の「好き」だ。だから、あんな夢を見てしまうんだ。



 それからもう一度寝直したけれど、目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。なぜだろう。冬の朝はこういうことが多い。寒くて布団の中からはなかなか出ることが出来ないのに、目が覚めるのだけはいつもより早い。
 しん、と静まり返った空気の中でトントンと包丁の音だけが微かに聞こえていた。
 ああ、雪が降ったんだな、と不意に思う。その静寂のせいなのか、空気の微妙な張りつめ方のせいなのか、雪が降った朝はそれが肌で分かるのだ。そうすると、まるで世界から隔離されているような、穏やかで、幸福で、それでいて何故だか切ない気持ちになってしまう。
 僕らの暮らすこの空間だけが世界から離れている。僕らは二人きりだ。乖離してしまった世界で僕らはささやかに、身を寄せ合っている。それは密やかな幸福。


 でも。


「雅臣、起きて! 遅刻するよ!」
 ドア越しに聞こえるいつもと同じ明るい声に、その隔離された世界は終わりを告げる。そして、僕は「ここ」に戻ってくる。僕がいるべき暖かな場所だ。
「ん」と、短く返事をして布団からモソモソと這い出す。ひんやりとした冷気の中に体をさらすと、途端にはっきりと目が覚めたような気がした。
 台所のテーブルにはいつものように暖かい朝ご飯が用意してある。その隣にはお弁当。雪生だって、仕事とサックスの練習で忙しいのに風邪を引いたとき以外、サボったことは一度もなかった。
 雪生の横を通り過ぎて、テーブルにつこうとしたら不意に「あれ?」と驚いたような声を上げられる。何だろうと思って、雪生の顔を見ると楽しそうな表情で目をクルクルさせていた。
「何?」
 僕が尋ねると、雪生は子供みたいな表情で悪戯っぽく笑った。
「柱の傷は一昨年の、って歌知ってる?」
 首を傾げて聞いてくるその表情は、どうみても年上だなんて思えない。
「知らない。何それ」
 無愛想に聞くと、雪生は、それには答えずに楽しそうにクスクス笑った。
「雅臣、背、伸びただろ? もしかして、僕より高くなった?」
「うん。もう三ヶ月前に追い越した」
 さらりと答えると、なんだ、知っていたのか、と拍子抜けしたように肩を竦めた。

 そんなこと、とっくに気が付いてたよ。雪生と僕に関わることなら何でも気が付いている。ほんの些細なくだらないことでも。そんなこと、雪生には分からないだろうけど。
 知ってる? 今じゃ、すっかり僕の方が力だって強いこと。何なら試してあげようか?

 僕は、さっさと朝ご飯をお腹に流し込んで「ごちそうさま」と立ち上がる。
 雪生は子供の成長を喜ぶ親のように悦に入っているのか、嬉しそうに僕を優しく見ていた。そんな視線が純粋に嬉しくてくすぐったく感じる反面、グズグズとした苛立ちも感じる。そんな風に保護者面されると、何もかもをぶちまけたくなるなんて知らないだろう?

 その歌は知っている。
 本当は知っている。

 確かに、小さな頃は雪生は僕の「家族」だった。けれども今は素直にそう思えない。
 遅刻しそうなわけでもないのに、何だか息苦しいような気がして、僕は急かされるように着替えて家を後にする。玄関を出たら、やっぱり雪が降っていた。

 雪は嫌いではない。一夜にして世界を白銀の別世界に変えてしまう。何もかもを白く埋めてしまうから、僕の気持ちのぐずつきも、溢れそうな感情も、何もかも白く隠してくれそうな錯覚を起こす。
 サクリと、誰もまだ踏み入れていない雪の上に足跡を残す。こんな風に雪生に足跡を残してしまえたら、いっそ、この気持ちは晴れるのだろうか。

 僕は歩く。まっさらな雪の上を。
 ただひたすら無心に。




* * *




 雪が降った日は必ず道路が渋滞する。駅前のロータリーは迎えの車でごったがえしていて、会社帰りの中年の男の人や、こんな寒い中で平気で膝小僧をさらしている女子高生達がまちまちの表情で車に駆け寄っていくのを僕はぼんやりと眺めていた。
 車に駆け寄っていく人達の表情はまちまちだけれど、でも、誰も彼もどこかしら安堵の色がその顔に浮かんでいる。「帰る」という事に対する安堵感。「家」というものがある安定感。誰にとっても当たり前の事が僕には当たり前の事ではなかった。僕には「家族」がいない。雪生がたった1人の「家族」だったけれど、今はそれすらも危うい不安定なバランスの上にかろうじて成り立っている。雪生を失ってしまったなら僕はどうなってしまうのだろう。「家族」を失い「家」を失う。想像しただけで、背筋が凍り付くような気がした。
 早く「家」に帰りたい。
 暖かい部屋の中で雪生の穏やかな笑顔が見たい。
 そう思って、早足に駅の前を通り過ぎようとした時だった。
 僕は、その空気の違う部分を敏感に感じ取った。
 忙しない表情で家路を急ぐ人達の中、その場所だけが空気が違う。景色の中に埋没できない、不思議な空間。道を挟んだ向かいの歩道。
 僕からは少し離れた場所に雪生がたった一人で立っていた。
 所在無さそうに、ただじっと駅の中から現れては消えていく人達を見つめている。傘を差すのも忘れて、ただひたすら立ち尽くしている。
 ちらほらと僅かに落ちて来る雪の綿の中で、余りに希薄で儚いその姿は、そのまま誰にも知られずに消えてしまうのではないかと僕に錯覚させた。
 雪生の表情には苦悩など微塵も無かった。哀しさも、苦しさも、淋しささえ存在しない。そこに存在しているのはあくまでも「孤独」だ。
 何も知らない人が見たならば、雪生の表情は「無表情」に見えたのかもしれない。僕がそれを「孤独」だと理解できるのは、僕がどうしようもなくその「孤独」に同調できるからだった。どこまでも、悲しいほど同調してしまうからだった。
 それは、匂いも、色も、体温も、音も何もかもを持たない。どこまでも、透き通って、透明で、汚れがない。その代わりに、どこまでも「無」なのだ。それが、僕の胸に痛烈な痛みを与えた。
 雪生はただひたすら駅から出て来る人の波を見つめている。誰かを探しているようにも見えたし、ただ、ぼんやりとしているだけにも見えた。けれども、僕は、そのまま放っておくと雪生が雪に溶けて消えてしまうような不安を感じてしまったのだ。理由の分からぬ焦燥感に駆られ、僕は無意識のうちに駆け出していた。左右も確認せずに、そのまま道を横断すると雪生に駆け寄る。トン、と後ろからその華奢な肩を叩くと、雪生は不意にビクリと体を竦ませ、僕に振り向き、次の瞬間、酷く驚いた顔をした。
「こんな所で何をしてるんだい? 今日は、もう、サックスの練習は終わったのかい?」
 けれども、僕はそんな雪生の驚いた表情には気が付かない振りをする。何気なく会話を振ると、雪生はバツが悪そうな表情でフイと僕から顔を背けた。
「あ・・・うん」
 そう言って、そのまま家の方向に向って歩き始める。僕は、いつのまにか自分より小さくなってしまったその背中を見つめながら、後ろを付いていった。
 そして、不意に僕の中に確信めいたものがひらめく。
 僕が学校から帰って来る時に、偶然、駅前で雪生と会う事があった。そういう時は、二人で肩を並べて一緒に帰る。ただ二人で並んで帰るだけだ。特に言葉を交わす事も無く、そのまま家に辿り着くことすらある。

 けれども。

 そんな風に一緒に「家に帰る」という行為をなぞることによって、確かに僕は安堵していたのだ。擬似的な家族のような振る舞いに、「僕等は家族なのだ」と何度反芻した事だろう。
 僕等は「偶然」駅前で出会う事があった。

 偶然?
 本当に?
 もしかしたら、たった今、僕の事を探していた?
 今だけでなく、この前も? その前も?

 それは、単なる僕の思い込みかもしれなかったが、僕の中には「確信」として根づいた。
 僕は、足を速めて雪生に追いつき、その横に並んで歩く。ちらりと見やった雪生の顔には、もうすでに「孤独」など少しも見当たらなかった。
 少しも。
 それは恐らく僕も同じ事だったのだろう。
 僕たちは、いつものように、何も無かったように二人で肩を並べてただ黙々と歩く。
 何時の間にか、肩の位置は僕の方が高くなった。
 次第に雪が激しく降り始めて、視界は一面、白で埋め尽くされる。何もかも真っ白で、僕は錯覚する。僕と雪生が並んでいるこの空間だけが世界から隔離されている。


 それはただひたすらに白い静寂の世界。







* * *







 朝から降っていた雪は一日中続き、夜になってもやむ事はなかった。
 いつのまにか、屋根の上にも積もってしまった。雪が積もると音を吸収してしまうのか、ただでさえ静かな夜が、更に静まり返る。ピンと張り詰めた空気に、耳が痛くなる程。
 雪生は夕食の後片付けが終わった後、こたつでうたた寝を始めてしまったらしく、僕がお風呂から上がってきた頃には穏やかな寝息を立てて寝転がっていた。
 こんな所で眠ると風邪をひいてしまうから、と、雪生を起こそうと手を伸ばした瞬間に僕は手を止める。

 予想外に長い睫と、薄く開かれた唇が僕を誘っている。

 こんな子供みたいなあどけない穏やかな寝顔なのに、不思議な空気が漂っていて、それはまるで意図的に誘いをかけているかのようにさえ見える。それは、僕が「そういう目」で雪生を見ているからなんだろうか。
 僕は、後先考えずにただぼんやりとした頭のまま顔を近づける。
 形の良い薄い唇に触れると雪生の体温が伝わって、僕は何とはなしに安堵した。おかしな話だ。「雪生が生きているのだ」ということが、酷く幸せな事のように思えるなんて。いや、「生きている」という言い方は少し語弊がある。「雪生が存在している」という事実が幸せな事なのだと感じたと表現した方が、まだ、ぴったりはまるかもしれない。
 静かに触れた唇は、静かに離れた。唇を離した時には、雪生の真っ黒で口よりもものを言うような瞳が薄く開かれていた。ああ、眠っていなかったのか、と、僕は極めて冷静に考えた。驚きもしなければ焦りもしなかった。あまりに周りが静かすぎて、心の中も同じように静まり返っていたせいかもしれない。雪生も同じなのか、ただ静かに僕の顔をじっと見詰めていた。寝ぼけていて、状況が把握できていないから、良く分かっていなくて驚いたり焦ったりしていないのかと思ったけれど、雪生の眼差しは決して寝ぼけたりなんてしていなかった。はっきりと、真っ直ぐ僕を見つめてくる。雪生はしばらくの間真剣な眼差しで僕を見つめていたけれど、不意に、ふっとその口元を緩めた。
「彼女が出来たときの練習?」
 からかうとも、自嘲的とも取れる口調と表情だったけれど僕には分かった。
 突然に理解できた。
 雪生は、そんな風にして、いつも僕に気が付かれないように「逃げ道」を用意してくれていたんだと。雪生の分かりにくい、不器用な優しさが流れ込んできて、僕は切なくて仕方が無かった。
「うん。そうだよ」
 と、静かに答えてもう一度、唇を寄せる。驚かせたり、怖がらせたりしないように細心の注意を払った、酷く丁寧なキスだった。
「何度、練習するの?」
 唇が離れても、体を離すことはせずに、上から覆い被さるような姿勢でじっと雪生を見つめると、困ったように笑って言った。
「今度のは練習じゃないよ。本当の」
 静かに答えると、雪生は少しだけ目を見開いて、それから、やっぱり困ったように笑って「そう」と言った。何度も繰り返して、首筋から鎖骨の辺りに移動しても、やはり抵抗はなく、ただ、緩やかに僕の頭を抱えている。その感覚が覚えのある感覚で僕は動きを止めた。
 なぜ、覚えがあるんだろう。
 いつだろう。同じように優しく頭を抱えられた。それも、同じ相手だ。
 不意に、初めて雪生と出会った時のことを思い出す。
 僕に差し伸べられた綺麗で柔らかくて温かい手。僕が救いを求めるようにその手を取ると、雪生は優しく僕の頭を抱きしめてくれた。

「おいで。今日から、僕が君の『家族』だよ」
 そう言ったのは、僕を安心させる為なのだろうと思っていたけれど。
 突然に家族を失ったのは僕だったけれど。
 雪生は、そのずっと前から一人ぼっちだった。

 僕は雪生の胸から顔を上げる。
 上から、じっと雪生の顔を見つめると雪生は不思議そうな表情で僕を見上げた。

「『一人』は怖い?」

 僕が静かに尋ねると雪生は探るように僕の目をじっと見詰め、それからゆっくりとその黒い瞳を閉じた。
 辺りは静寂に包まれている。
 何の音も聞こえはしない。
 音という音が雪に吸い込まれ、そこにあるのは、ただ、ひたすらな静寂。
 まるで、世界に二人きりしかいないようだ。


 二人きりしかいないようだった。


「怖いよ」
「僕がいなくなると怖い?」
「怖い」
「雪生が抵抗しないのは、一人になるのが怖いから?」
 僕が酷く冷めた声で尋ねると、雪生は弾かれたようにはっと目を開いた。
 黒くて奇麗な眼が驚いたように僕を見つめている。
 雪生は、そうして暫くの間目をくるくるさせていたけれど、不意に破顔して、静かに手を上げると、そのまま僕の頬を撫でた。
 出会った頃と少しも変わっていない、奇麗で柔らかくて暖かい手。
「雅臣は、自分の目がどんな風に見えるのか知らないんだね」
 そう言い乍ら、僕の目のすぐしたの辺りを指でなぞる。
「澄んでいて淀みが無くて、奇麗で、そんな風に見られるとどうしていいか分からなくなる」
 それから、今度は僕の前髪をさらりと掻き揚げる。
「この真っ黒な髪も奇麗で、どんなに見ていても見飽きない」
 そのまま、その手は僕の髪を優しく梳いた。
「声も。目を閉じて聞いていると不思議な気持ちになる」
 今度は唇をなぞられて。
「雅臣の指も好きだよ。奇麗で、まるで作り物みたいなのに、酷く優しい」
 最後は、僕の手を取ってその指に口付けた。
「僕は、雪生の淋しさに付け込んではいない?」
 そうするつもりはないのに、吐出した声は酷く不安そうな声だった。雪生は、それを聞くと呆れたような表情になる。
「雅臣、何か勘違いしてるだろ? 僕、そんなに弱くないよ? まあ、ここまで言っても分からないんだったら、今すぐ雅臣を蹴り上げて逃げてあげてもいいけど?」
 少しだけ焦れたような声音で言われて僕は苦笑する。そんなこと言ったって分かる訳無いじゃないか。雪生は、ちっともそんな素振りを見せなかったし。
「未成年をたぶらかして犯罪者になるなんて嫌だよ」
って、少し拗ねたみたいに言い返してきたけど。

 雪生の身体は夢の中と同じで、僕を色々困った事にしてしまったけれど、ただ夢と違ったのは、ちっとも慣れていないことだった。お陰で、大変な事もあったり。何が大変だったって、まあ、それは色々だけど。
 ただ、やっぱり、抱き合った時は酷く感動して、切なくて泣きたくなってしまった。確かに雪生の身体は慣れてはいなかったけれど、僕のために色んな努力をしてくれているのが分かって、僕はどうしようもなく雪生が大事だと思った。
 好きだとか、大事だとか、恋だとか、触れたいとか、家族だとか、そんな言葉の定義に当てはめるのが馬鹿馬鹿しくなってしまうくらい。



 あんなに心配していたのに、抱き合った後も僕等はやっぱり「家族」のままだったしね。







* * *







「雅臣、起きて! 遅刻するよ!」
 ドア越しに聞こえるいつもと同じ明るい声に、目を覚ます。僕は、「ん」と、短く返事をして布団からモソモソと這い出した。
 台所のテーブルにはいつものように暖かい朝ご飯が用意してある。その隣には相変わらずお弁当。
 雪生の横を通り過ぎて、テーブルに着こうとしたら「あ」と声を上げられる。
「雅臣、また、背、伸びた?」
「うん」
 さらりと答えると、雪生は何だか面白く無さそうにブスっとふくれた。
「育ち過ぎだよ」
 仕方ないじゃないか、成長期なんだから。
「雪生は身長止まっちゃったしね」
「一言余計!」
 はははと笑うと、僕は、さっさと朝ご飯をお腹に流し込んで「ごちそうさま」と立ち上がる。
 玄関を出ると朝の光が雪に反射して眩しくて、目が眩んだ。今日は天気が良さそうだ。
 僕は、サクリと、誰もまだ踏み入れていない雪の上に足跡を残す。



 僕は歩く。まっさらな雪の上を。
 ただひたすら無心に。



 どこまでも真っ白な雪の道が目の前には続いていた。



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