冷たい指 ……………………… |
それは夏の終わり。どこまでも青い空と吸い込まれそうな程真っ白な入道雲。太陽に向かって凛と咲いている向日葵。うるさすぎる蝉の声。照りつける夏の日差しに反射してキラキラと光っていた幾つもの水の粒。濡れたシャツと前髪。僕の腕に触れた冷たい指。 そして。 そして、らしくもなく何かに怯えるように遠慮がちに僕にふれた唇。 なぜだか、その時、僕に驚きはなかった。照りつける日差しが強すぎるので無意識に目を細めるのと同じくらい、自然で、違和感のない出来事だった。 目の前に、彼の濡れた前髪と睫が見えた。それは、夏の日差しに反射して光っている。その造形の美しさと、微かに震えた睫に見入ってしまって、僕は目を開いたままだった。 不意に、僕の前髪から一粒の滴がこぼれ落ち、彼の睫の影を落とす頬に当たる。弾かれたように離れた指と唇。僕を見つめる、何かを思い詰めたような瞳。その瞳が目に入った途端、僕は不安に身を竦めた。彼が、何か重大なことを言い出すような気がしたからだ。 例えば。 例えば、それは永遠の別れと言ったようなことを。だから、僕は何もなかったような振りをした。彼が、何か言い出す隙を与えぬように、どうでも良いことをまくし立てた。僕らのシャツがびしょ濡れだとか。蝉の声がうるさいだとか。西瓜が冷えているから食べないか、だとか。そんな僕に、彼は困ったように少しだけ笑って、それから僕に合わせて何もなかったような振りをした。 それは、夏休みの最後の日。 けれども。 僕には夏休みではなく、夏でもなく、もっと大事なものが終わっていくような気がしていた。 「冷たい指」 雪が降っていた。こんな時期に降るなんて、僕が生まれてから初めてのことで、 「なごり雪って本当にあるんだね」 と言いながら、傘も差さずに空を見上げる。空から白いものがはらりはらりと落ちてきて、不意に吸い込まれそうな錯覚に陥って目眩がした。そのせいで、足取りが怪しくなってふらりとよろめいたらすぐ脇から腕が伸びてきて僕を支えた。 「きちんと前を見て歩かないと危ないだろ」 と、苦笑混じりに言われる。 「だって、珍しいんだよ。なごり雪って歌の中だけじゃないんだね」 それでもまだ上を見たまま歩き続ける僕に、とうとう諦めてしまったのか、那理(なり)は仕方なく僕の手を取る。僕が、足を取られて転んでしまわないように。触れた指は、とても冷たかった。その指は雪のように白くて、冷たいのが何だか当たり前のようで、僕はやっぱりそうなんだ、と、非科学的な納得の仕方をする。 那理の指はいつも冷たい。外気が冷たいから冷たいわけでは無くて、夏だろうが冬だろうが冷たい。 「別に、冷え性って訳でもないんだけどな。自分の手だから良くわからないけど」 と、僕が指摘したときに不思議そうに言っていた。 あの日も。あの、夏休み最後の日も冷たかった。僕の手首を掴んだその白い指は。 「明日まで降り続いたら、本当になごり雪だな」 と、那理が少し寂しそうに言う。僕たちは、明日卒業式を迎え、それぞれの道に進む。僕は、私立高校の音楽科に進学し、那理は。那理は、遠くの町に行ってしまう。那理のお父さんは、職業柄転勤が多い。だから、今年で那理が遠くに行ってしまうのはずっと前からわかっていた。そう。去年の夏からずっと。去年の夏休みは、一緒にいられる最後の夏休みだからと言って、毎日何かをして遊んでいた。けれども、幾ら遊んでも、幾ら一緒にいても別れに対する準備など到底できなかった。むしろ、僕は事実を直視できずにそこから目を逸らすようなことばかりしている。那理の引っ越し先の住所も、電話番号も未だに聞けずにいた。それを聞いてしまったら、もう、本当に離ればなれになってしまうことを受け入れてしまうようで聞けなかった。明日は卒業式で、僕が何と思っていようと別れは必ず訪れるというのに。 僕にはわかっていた。たとえ、今、別れを惜しんで泣いたとしても次の日からはまた普通の生活が始まるのだ。日々に埋没して、別れの悲しみも次第に薄れて、僕は僕の、那理は那理の新しい友達を見つけて生きていくのだろう。その予測を振り切れるほど、僕は幼くはなく、だからといって割り切って受け入れるほど大人ではなかった。そして、結局、色々なことから目を逸らして逃げてきた。 いつの間にか、僕は上を見上げて歩くことを止め、逆に、考え込むように俯いて地面ばかりを見つめる。もう、足下が危なくなることもないのに、那理は僕の腕を放さない。触れている指は確かに冷たいのに、なぜだか、触れられている部分だけ熱を持っているようだった。いつの間にか、雪もやんでいた。 そのまま、言葉もなく二人で黙って歩き続ける。僕の家の横まできて、何とは無しに二人で立ち止まった。垣根の向こう側に、僕の家の庭と花壇が見える。あの日、二人でふざけ合っていた庭。けれども、あの日咲いていた向日葵などもう跡形も残っていない。ただ、じっと春を待っている球根が土の中に埋まっているだけだ。 すっかり寂しくなってしまったその庭を二人で黙って暫く見つめる。僕は、何を言って良いのか正直わからなかった。もう、明日で那理とは別れるというのに。犯しがたい静寂が、そこには存在した。言葉を発したならば、何か大事なものが壊れてしまいそうなそんな空気がそこにはあった。 不意に那理は振り向いて僕の瞳を見つめる。何か、言いたげな表情と思い詰めたような瞳。こんな表情と、目はいつか見たことがあった。あの、夏休み最後の日のあの時の目と同じ。何か、思い詰めているかのような眼差し。あの時と同じように、僕は彼が何か重大なことを言い出すのではないかという不安に駆られる。彼は、何か言おうと口を開きかけ、けれども結局何も言わずに口を噤んで困ったように笑った。それから、何かを振り切るように軽く首を横に振ると、 「明日、卒業式だな」 と、何気なく言った。僕は、幾らか拍子抜けして 「あ、うん」 と気の抜けたような返事をする。 「もう、明日で最後だ」 ひどく穏やかに呟かれて、もう一度見つめられる。けれども、今度は思い詰めたような表情ではなく、何かを待ってるような表情だった。まるで、僕が何か言うのを待っているようだった。けれど、僕の頭の中には何の言葉も浮かんでこない。ただ、ぐるぐると無意味に那理の言った『最後』という単語だけが回っている。何か言わなくては、と思うのにちっとも言葉が出てこない。それでも、じっと見つめられて、だんだんとのどが渇いてくる。僕は、無意識に乾燥した唇を舐めた。例えば、引っ越し先の新しい住所と電話番号を聞くだとか、引っ越しの日時を訪ねるだとか幾らでも話すことはあるはずなのに。 『最後』という言葉がそれらのことを拒絶しているようで、聞くことはできなかった。代わりに出てきた言葉は、 「卒業式なんて、一生、来なければいいのに」 という、ひどく子供じみた言葉。彼は、しばらくじっと僕の顔を見つめ、それから、静かな声で、 「榎耶(かや)は、変化を恐れて逃げてばかりだ」 と言った。まるで、僕が欲しい言葉を言わなかったのを怒っているようだった。表面上は、穏やかに見える。けれども、その内面は苛立ちやもどかしさと言ったものを包含しているのだと言うことがなぜだか僕にはわかった。責めるような、それでいて何かを諦めているような表情にますます僕は何も言えなくなる。図星を指されて、言葉に詰まってしまったせいもあった。僕が何も言えず、顔を見つめ続けることもできずに俯くとは小さなため息を吐く。 「明日も一緒に帰ってこよう。最後だから」 幾らか和らいだ口調でそう言うと、静かに背を向けて去っていく。その背中を見つめているとなぜだか泣きたいような気持ちになってしまって僕は、ぎゅっと拳を握りしめる。それから、何かを振り払うように首を横に軽く振ってその場を後にした。 部屋の中からぼんやりと外を見つめる。庭の花壇にはまだ、ほんの小さな芽すら出ていなくて少し寂しそうに見えた。夏になると、鬱陶しいほど植物が育って賑やかになると言うのに。 「なあに? 憂えちゃって。卒業式だから感傷的になってるの?」 後ろから、あっけらかんとした口調で母さんが話しかけてくる。 「別にそんなんじゃないよ」 苦笑いしながら答えると 「そう?」 とからかうような口調で僕のすぐ近くにお茶を置く。 「那理君とも、もうお別れだものね」 今度は幾らかしんみりと言われて、僕は黙り込んでしまう。母さんは、それをどう取ったのか、急に慌てたように、 「でも、離れたって友達は友達だものね」 と、付け加えるように言った。 「そんなの…新しいところに行ったら、新しい友達ができるよ」 僕が、投げやりに言うと母さんは肩をすくめてそれから、僕の額を人差し指でトンと突いた。 「何、冷めたこと言ってるの。さっき、そこで泣きそうな顔して那理君のこと見てたくせに」 「そんな顔してないよ」 「してたわよ。那理君、困ってたじゃないの。いつまで経っても子供みたいなんだから」 「余計な事言うなら、向こう行けよ」 僕が怒ったように言うと「はいはい」と少しだけ呆れたように言って、台所の方に行ってしまった。 僕はもう一度庭の方に向き直る。青い空と入道雲と。向日葵と真夏の太陽が見える気がした。 来年の夏はもう、ここにはいないと初めて那理が言ったのは一学期の終業式の日だった。僕は、もうすっかり夏休み気分で、もちろん受験勉強もしなくてはならなかったんだけど、それよりも開放感に浸っていたから、頭の中では夏休みに何をしようか考えているのに一生懸命だった。そして、そのどの計画にも当たり前のように那理が組み込まれていた。僕にとって那理が隣にいることは何の疑いもないごく自然なことで、僕の隣から那理がいなくなるなんて想像したことも無かった。僕は最初何を言われているのかわからなくて、言われていることが理解できなくて三度聞き返した。四度目に聞き返そうとする前に、 「最後の夏休みだから、なるべくたくさん遊ぼう」 と、那理が言ったからそれ以上聞き返すことはできなかった。ただ、呆然としたままきちんと理解できない頭で頷いた。 那理がが言ったとおり、夏休みの間はたくさん遊んだ。プールにも行ったし、海にも行った。山にも行ったし、キャンプもしたし、サイクリングにも行った。見たい映画も一緒に見たし、宿題も受験勉強も一緒にしたけれど、僕には未だに那理の言ったことがきちんと理解できてはいなかった。ある日、実はあれは冗談だったのだと那理がいつか言い出すような気がしていた。夏休みの間が楽しければ楽しいほど、春からは離ればなれになると言うことが現実味を失う。 けれども。 夏休みの最後の日、僕の家に遊びに来ていた那理が 「今日で最後だな」 と、ぽつりと漏らした途端に僕は、得も言われぬ焦燥感に駆られた。だからかもしれない。それを振り切るように、無理に明るくはしゃいで酷く子供じみた事ばかりしていた気がする。庭の花壇に水を撒きながら、ふざけてホースを那理に向ける。勢い良く、弧を描いて宙に散らばった水飛沫が太陽の光に反射してキラキラ光って虹を作っていた。那理の髪と水色のシャツがあっという間にびしょ濡れになる。途中から那理まで面白がって僕からホースを取り上げようとして、今度は僕までびしょ濡れになって二人でバカになったみたいに笑い続けていた。僕だけでなく、那理もらしくもなく子供みたいにはしゃいでいて、なぜだか不意に僕はせつなくなってしまった。どうしてそんな風に感じたのかはわからない。ただ、不意に笑うのをやめて黙り込んでしまった僕を那理は不思議そうに見ていた。ホースを持ったままだらりと落ちた僕の腕。さっきとは打って変わって静かになってしまった庭で、うるさい蝉の鳴き声と、バチャバチャとホースから流れ落ちていく水の音だけが響いていた。僕は、ぼんやりと那理の顔を眺める。那理はすっかりびしょ濡れで、前髪から滴る雫がキラキラと光りながら地面に落ちていく。水色だったシャツも、濡れて肩から胸のあたりが青くなってしまっていた。那理が静かに僕に近寄ってきて僕の、ホースを持ってない方の腕を掴んだときも、僕は動くことも、何か言うこともできずに、ただぼんやりと那理を見つめていた。 那理の手はひんやりとしていて、冷たくて気持ちが良かったのを妙にはっきりと覚えている。その白い指は僕の腕を掴むというわけでもなく、強引に引くと言うわけでもなく、ただ、添えられているだけと言った遠慮がちな仕草で触れてくる。僕は、何も言うことができないままどこか遠くのところでセミの声と水が地面に落ちる音を聞いていた。 何の、驚きも、とまどいも、疑問も無かった。 だんだんと、那理の顔が近づいてきて、すぐ目の前に那理の焦げ茶の瞳が見えたけれど、きれいだと思う間もなく、その目は閉じる。睫が微かに震えていて、まるで別の生き物の様に思えた。長い、きれいな睫。唇が触れているのだという事実より、その時の僕はその震える睫と、濡れてきらきら光っている前髪と、冷たい指にばかり意識を取られていた。 いつもは、飄々としていてどこか人をくったような所があって、動揺するとか、何かを恐れるとか、そう言ったこととは無縁の様に思える那理が、なぜだか、酷く怯えているように思えた。それから、なぜ、そんな風に那理が怯えているのか不思議に思う。けれども、僕の濡れた前髪から一滴の水滴が落ちて那理の頬を濡らした瞬間に、彼は弾かれたように僕から顔を離した。 僕が何を言って良いか分からずに呆けた顔で見上げていると、那理は、不意に神妙な顔つきになり、じっと僕を見つめた。何か思い詰めたような表情で見つめられて、その時になって僕はようやく、たった今自分と那理がキスをしてしまったのだということを意識した。 僕は、那理とキスしてしまったのだ。 その事実を僕はどう捉えて良いのか分からず、どう感じたらいいのかも分からず、ただ、ただ那理の顔を見つめ続けていた。那理も、じっと僕を見つめたまま何か思い詰めていたような表情をしていたけれど、微かに唇を動かし、何かを言おうとした。その時那理が言おうとしたことが、僕には何か重大なことのように思えた。とても重大で、それでいて、僕にとってはあまり良いことではない類のことを言い出すような気がしたのだ。例えば、『永遠の別れ』といったような、僕たちの関係を大きく変化させてしまうようなこと。そうして、それを聞いてしまったならば僕たちは二度と元の形に戻れないだろうと言ったこと。 僕は、今の状態に何の不満もなかった。無かったと言えば嘘になるかもしれない。正直、春になったら僕たちが離ればなれになることを僕は敢えて考えないようにしていたから。 ただ、僕は、今の状況を壊したくなかった。それは、楽しくて、明るくて、太陽の光を反射しながら散らばる水飛沫のようにキラキラとした宝物のようなもの。それを壊すような言葉を聞くことが怖かった。だから。僕は那理が何かを言い出す前に何かを慌てて言った。何を言ったのかは良く覚えていない。シャツがびしょ濡れだとか、セミの声がうるさいだとか、西瓜が冷えているから食べようだとか。とにかく、そう言ったどうでも良いことをまくし立てていた気がする。 那理はそんな僕の言葉の切れ間を縫って、何度か何か言おうとしたけれど、結局、何も言わず最後に困ったように笑っただけだった。それから、何かが変わったと言うことはない。あの日の出来事は、まるで夢だったのかと思うくらい僕たちはいつも通りだった。そうして、そのままあっという間に時間は過ぎて明日でもう僕たちは離ればなれになるのだ。 海を見に行かないかと那理に電話で誘われたのは、その日の夜の9時を回った頃だった。これから、見に行くのかと驚いて聞き返した僕に、那理はさも楽しそうに 「家の人には内緒で出て来いよ」 とだけ答えた。 「でも、明日は卒業式だよ?」 僕が、本気で言っているのかと疑うような口調で言うと、那理はなんだ、そんなこと、と笑いを含ませた悪戯っぽい声で言い返して来る。 「とにかく、今日の終電で海まで行って明日の始発で帰ってくれば問題無いさ。ああ、夜の海は寒いから厚着をしろよ」 と、僕の言い分などまるで聞く気が無いようにけろりとそう締めくくると電話を切った。那理の申し出に、面食らってしまったけれど那理がこんな風に突拍子もないことを言い出すのは今に始まったことではないから、僕は受話器を持ったまま小さくため息を一つ吐いた。このまま、卒業式を迎えてしまうには僕等には何かが足りないと思っていた。僕は、那理に伝えるべきことも尋ねるべきこともあったはずなのに何一つ解決していなかったのだから。けれども、どうしていいかわからず、ただオロオロと立ち往生していただけの僕の背中を、那理がトンと押したような気がした。 いつもそうだった。 僕が、一歩を踏み出せないでいると、タイミング良く那理が背中を押してくれる。まるで、僕の中の何もかもをわかっているみたいだ。僕には、ちっとも那理が何を考えているのかわからないのに。あの日のキスの訳さえも。 少し小さ目のスポーツバックに携帯用のブランケットと上着を一枚詰め込んで、父さんと母さんにわからないように、こっそりと家を出る。昼間雪が降ったせいか空は酷く澄み切っていて、春の始めの星座が空を埋め尽くしている。吐き出した息は僅かに白く、まだ夜遊びをするには早い季節だということを知らせていた。 僕は、夜の冷気に僅かに身を竦ませブルリと震える。寒さを振り切るように小走りで那理が待つ駅まで急いだ。駅に着くと那理がもう待っていて、暖かい缶コーヒーと切符を一枚手渡してくれた。駅は、もう殆ど人影もまばらで、酔っ払っている会社員が何人かフラフラしていた。 駅員が、僕等を訝しげな目で見ていたけれど那理はお構い無しで改札を抜ける。シンと静まり返ったホームで暫く二人で待っていると電車が滑り込んで来る。僕たちは、殆ど人が乗っていない貸し切りに近い車両に乗り込んだ。 「家の人には見付からなかったか?」 「うん。平気」 僕が、寒さでグスグスと鼻を鳴らしながら答えると那理が自分の手袋を外して僕に差し出して来る。 「大丈夫だよ?」 「でも、榎耶、手袋してきてないだろう?」 「那理の方が、手、冷たいじゃないか」 「そうか?」 「そうだよ。冷たいよ? あの時だって」 と、そこまで言いかけて慌てて口を噤む。そんな風に慌てたら、かえっておかしな態度だと思われるのに、思わず反射的にそういう態度を取ってしまって後悔したけど、もちろん那理はそれを見逃すほど鈍感ではない。 「あの時って?」 分かっているのか、分かっていないのか判断の付かない様子で尋ねて来る。それで、僕は慌てて記憶を辿り那理が僕に触れたことがある場面を思いだそうと試みた。それを引き合いに出して適当に誤魔化そうと思ったのだ。けれども、僕はそこでハタと気がつく。 「あの時」以来、那理に触れた記憶が無いことに。那理が僕に触れたことが無いことに。今迄、全く気が付かなかったけれど、その時になって僕はようやく那理が意図的に僕に触れるのを避けていたことに気がついた。愕然とした面持ちで那理を見あげると、那理は意味深な笑みを浮かべて僕を見つめている。何だか、その笑顔を直視できなくて、何となく後ろめたい気持ちで僕は俯いた。 「何でもないよ」 蚊の泣くような小さな声で僕は答えると、じっと自分のスニーカーの爪先を見つめた。那理がじっと見つめているような気がしてそのまま顔を上げることが出来ず、ずっと俯いていたら、視界の端に白いものが過ぎって、何かと思うまもなく髪の毛に触れられる。 「なっ…何?」 僕が、過敏に反応して那理から弾かれたように離れると那理は複雑そうな表情で 「髪の毛に糸屑が付いてた」 と答えて、そのまま手を下ろす。ますます、気まずい空気が流れて僕はまた俯く羽目に陥った。 黙り込んだままの僕等を乗せて、夜の列車は闇の中をひた走っていく。途中までは、比較的民家の多い場所を走っていたから街灯やネオンがたくさん見えたけれど、しばらくすると、殆ど建物も無く、本当に、電車は闇の中に入りこんでいくようだった。 遠くの方に、高速道路のオレンジの光が続いているのが見えた。真っ暗な空間に、そのオレンジの光だけが遠くまで延びていて、それはそのまま空の中に消えていくみたいに見えた。あのオレンジの光を追いかけて、ずっと向こうまで逃げたなら、僕は那理と離れ離れにならずに済むのだろうか。 「次の駅で降りよう」 那理が静かな口調で告げる。僕は、ゆっくりと頷くと那理を振り返った。那理は、何だかとても淋しそうな表情をして、さっき僕が見ていた高速道路の辺りを見つめていた。もしかしたら、僕と同じ事を考えているのかもしれない。でも、それを聞く事は、僕にはできなかった。 二人で黙り込んだまま、次の停車駅で降りる。電車から降りた途端に潮の匂いがして来る。ザザァっと、波が寄せて返す音も聞こえた。 「すぐそこが海岸なんだ」 そう言うと那理は僕の手を取り、歩き始める。何時の間にか、那理は手袋をはずしていて、直に触れたその指はやっぱり冷たかった。その冷たさが切なくて、僕は思わず目を閉じる。それから、もう一度目を開くと夜の暗闇の中に那理の後ろ姿が見えた。それは、ひどく儚くて、そのまま闇に溶けてしまいそうな錯覚を僕にもたらす。 「那理!」 思わず、僕が大きな声で呼びかけると、那理は急に立ち止まり、びっくりしたような表情で僕を振り返った。 「どうかしたのか? そんなに大きな声を出して?」 「…」 僕は何も言えずに那理の顔をじっと見詰める。少しだけ目を見開いて、心配そうに僕を見詰める那理は、いつもの那理だった。闇に溶けて消えたりしない。 僕が何も言えずにじっと那理の顔を見詰めていると、那理は静かに笑ってまた僕の手を引いて歩き始める。駅から繋がる階段を下り、コンクリートの堤防を少し歩き、堤防から続いている階段を下ると、もうそこは海岸で、僕等の靴が砂を踏む音がサクサクと聞こえる。時々、砂に足を取られそうになりながら、僕は一生懸命那理の後についていった。 少し離れた所に、白い波が暗闇に浮かび上がっているのが見える。波の音がだんだんと近くに聞こえて、潮の香りが一層強くなったのがわかった。那理は、波打ち際から数メートル離れた所で立ち止まりじっと海を見詰めている。僕の手を握ったまま。 僕は何も言わず、那理の横顔を見つめていた。何かを思いつめたような那理の横顔を。僕が隣にいるのに、那理は、もうすっかり僕の存在など忘れてしまったようにひたすら海を見詰めている。僕のことなんて忘れたまま。 そう思ったら、鼻の奥がツンとしてきて涙が零れてしまいそうだった。絶える事無く吹き付けて来る、まだ、春先にしては寒い潮風が僕に刺さるようだと思った。 思わず、クシュンとくしゃみをすると、ようやく那理は僕の存在を思い出したのか、僕の顔を心配そうに覗き込んできた。 「寒いのか?」 「ううん。平気」 何でも無いように言ったつもりだけど、出た声は涙声みたいに震えた声になってしまった。それで、那理はますます心配そうに僕の顔をじっと見詰める。 「厚着をしてこいって言っただろ?」 「だから、寒くないってば」 僕が、少し強い口調で言い返すと、那理は少し困ったような顔をしてため息を一つ吐いた。それから、ぐい、と僕の腕を引くと自分の胸まで抱き寄せてそのまま腕を回して僕を閉じ込めて、自分の着ていたコートを手繰り寄せ僕の前で合せてしまった。つまり、僕は那理のコートの中に引っ張り込まれて閉じ込められた形になった。 「こうすれば寒くない?」 僕を後ろから抱っこするみたいにして、那理が優しく尋ねて来る。那理の体温を背中に感じて、僕は酷く暖かくて、切ない気持ちになってしまった。 「…あったかい…」 泣きそうになるのを必死で堪えて答える。でも、やっぱり声は震えていた。多分、身体も。 僕を抱く那理の腕が急に強くなって、僕は息が詰まるような気がした。酷く、切なくて苦しくて、でも、何故だか安心できた。まるで、世界には僕と那理しかいなくなってしまったような気がする。 もう、この世界にあるのは白い砂浜と、打ち寄せる波と、どこまでも広がる海と、それに繋がる満天の星空と、僕と、那理だけ。 電車も、卒業式も、学校も、家も、家族も、明日も無い。 僕の体を抱きしめる手のひらに自分の手のひらを重ねると、やっぱり冷たかった。 僕は無言でその手を自分の口元に引き寄せると、はぁ、と、息を吹きかける。僕の行動に、那理が身じろぎするのを背中で感じた。 「どうしたんだ?」 「那理の手、冷たい」 「ああ、ごめん。寒かったのか?」 「寒くない。あったかい。ただ、那理が冷たくないかと思っただけだ」 そうだ。那理が冷たくないのかと思っただけだ。その冷たい手を温めてあげたいと思っただけだ。僕はそのまま、未だ冷たい指を僕の首筋に引き寄せる。それから、僕の首にヒタリとその白い手を押し付けた。その指の冷たさに、ひやっと身を竦めたけれど僕はその手を離さずに、ただ、じっとその冷たさを感じていた。きっと、このまま、力を入れられてこの首を絞められたとしても、僕は、きっと何の恐怖も、感じないだろう。僕は、最後の息を吐き出すその瞬間まで那理の眼を見つめて笑っていられる自信があった。それなのに、僕は、無力で言葉を知らぬ愚かな子供だから何も伝えることは出来ない。ただ、黙って波の音を聞いているしか。 「…榎耶、何か俺に言いたいことがあるんじゃないのか?」 少し遠慮がちの声が、僕の頭の後ろの当たりで聞こえる。那理に抱っこされて、二枚のコートに包れて、十分に暖かいはずだったのに、なせだか背中がひやりとしたような気がした。 「…別に無い。那理の方こそあるんじゃないの。こんな所まで連れてきて」 ああ、どうしてこんな言い方しか出来ないのか。那理が、僕の背中を押してくれているのに、僕には一歩を踏み出す勇気が無い。那理の言う通り、いつもいつも逃げてばかりだ。 那理は、僕の言葉に少しだけ肩を竦めたようだった。 「榎耶は、ずるいな」 那理は苦笑いしながらそう漏らす。少しだけ僕を抱く腕の力が弱くなったような気がして僕は途端に不安になってしまって、しがみつくように、僕の喉元にある那理の手をぎゅっと握り締めた。何時の間にか、那理の指は僕の体温で暖まっていて、もう冷たくはなかった。暫く沈黙が訪れて、那理は何かを言おうか言うまいか逡巡しているような気配を見せる。けれども、最後には、迷いの色など少しもみえないはっきりとした口調で、 「変るのは、そんなに恐いか?」 と、言った。 「恐い。僕が僕で無くなる」 間髪置かずに僕は答えた。変るのは恐い。このままでいたい。変えたくはない。けれども、変わらなければこのまま、僕たちは離れ離れになって『昔の友達』と言う、面白くも何とも無い言葉で一括りにされてしまう関係に落ちていくのだ。それはそれで、耐えられないことのような気がした。 「でも、いつまでも子供ではいられない」 少し突き放したような冷たい口調で言われて、僕はひやりとした。いつまでも、この背中に感じる体温を独占していたい。けれども、僕がこのままでいる限りそれは出来ない相談だった。できない相談だったから、何も言えずただひたすら黙り込む。まるで、拗ねていじけた子供みたいに。 「俺は待っていた。榎耶があの日のことを尋ねてくれるのを」 何も答えない僕に業を煮やしたのか、少し焦れたような口調で那理が言った。僕は目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。 ああ、僕は知っていたのだ。那理がそれを待っていたのを。知っていて、知らない振りをした。気が付かない振りをして、答えをひたすら先送りにしてきた。そして、今でさえ、その答えを那理に出させようとしている。自分が卑怯だと、ずるいと、わかっていながら僕には一歩を踏み出す勇気が足りない。たった、今も。 「いやだ。変りたくない」 僕が悲痛な声で言うと那理は不意に僕の体から腕をほどいた。そして、そのまま僕の体を寒空に放り出す。とたんに冷気が押し寄せて、僕が慌てて那理の体を手繰り寄せようと腕を伸ばしたら、那理はその腕を捉えて今度は向かい合うようにして少し強引に引き寄せた。 すぐ目の前に、那理の目が。あの日と同じ。すぐ目の前に、那理の前髪。それから、伏せられた瞳と震えた睫。 そして、遠慮がちに何かに怯えたように僕に触れる唇。 その時になって、ようやく、僕はそれを気が狂うくらいに待ちわびている自分を自覚した。僕は、ずっと待っていた。このまま、待っているだけで終わってしまったかもしれないのに、那理はきっと知っていたのだろう。僕が、それを待っていたことを。そして、僕がそれを決して自分からは言い出さない狡さと臆病さを抱え込んでいることを知っていながら、変らぬ優しいそれを与えてくれるのだ。 あの夏休みの最後の日とは違って、那理は何度も何度も僕に触れた。それだけで、僕はだんだんと足がガクガクしてきて立っていられなくなる。もう、そのまま壊れてしまうかと思った。 「も…やめ…て…」 唇が僅かに離れるその隙をついて告げたけれど、那理はやめなかった。大して強く抱きしめられている訳ではない。何時の間にか、またすっかり冷たくなってしまった指は、あの日と同じく優しく添えられているだけなのだから、嫌ならば、那理を突き飛ばして逃げればいい。 「どうして? 嫌なのか?」 震える声が耳のすぐ近くでして、僕は思わず身を竦ませる。どうしていいのかわからなくて、涙が不意に浮かんできた。頭がガンガンして、足はガクガクして、手はもうどうしようもないほど震えている。那理の唇は、僕の顔のあちこちに触れて僕を陥落しようとしているようだった。いい加減、我慢の限界に来て僕は訴えるように、涙目で那理を見あげる。けれども、那理は目を伏せたまま僕の顔を見ようとはしない。端正なその顔は、酷く優しくも見えたし、冷たくもみえた。 「…溶けてしまう…」 僕が、もう、自分の体を支えていられなくなって、きちんと思考の回っていない頭で訳の分からないことを口走ると那理は口元だけでクスリと笑った。 「榎耶なんか、俺に溶けてしまえばいい」 そう言うと、那理はようやく目を開き、僕の瞳を覗き込んで、今迄見たことが無いほど鮮やかな艶を帯びた笑顔を浮かべた。それから、仕上げとばかりに今度は僕の唇を自分の親指で割って僕の口をそのまま食べてしまうかのように深く唇を重ねる。 那理の舌がヌルリと僕の口の中に忍び込んで来る。歯列の裏をなぞり逃げ惑う僕の舌を捉えた彼の舌は、僕の体の中まで暴こうとしているかのように容赦無く僕を陥落する。頭の芯の部分が、じん、として僕はもう、何も考えることが出来なかった。そうして、もう、僕がドロドロに溶けた頃に那理は僕を解放した。それから、僕の瞳をじっと見つめる。 こんな時でさえ、那理の瞳は奇麗で、優しくて僕は何だか悔しくてしょうがなかった。 「さあ。もう、俺たちは変わってしまった。榎耶が選べる答えは二つに一つだ」 そのくせ、そんな優しい瞳で僕に酷い要求を突き付ける。 「…いやだ。僕は変りたくない」 僕が半べそをかきながら答えると、那理は奇麗で冷たくて優しくて恐い笑顔になって僕の体を抱きこんでしまう。 「今、ここで、榎耶をメチャクチャにしたって良いけど?」 「…嫌だ、僕は変わらない」 「どんなに変っても、榎耶は榎耶でしかないのに?」 耳のすぐ側で、からかうように言うと那理は僕の耳朶を自分の唇で挟み込んだ。 「あっ…」 思わず声を漏らして、身を竦めた僕を楽しそうに眺める。非の打ち所の無い、完璧な笑顔で那理は笑っている。僕の逃げる場所なんて1ミリも残っていなくて、僕はますます悔しい気持ちになっているというのに。 「俺たちが遠く離れても特別でいられる言葉を言えよ」 那理は、そんな酷いことを言う。まるで、わかっていて僕を苛めているみたいだった。 「…嫌だ…」 僕が力無く拒絶の言葉を吐くと、那理はますます楽しそうに笑って、僕の体を人形でも抱き寄せるように軽々と腕の中に閉じ込める。 「強情だな。無理矢理、ここで榎耶のことを変えてやろうか? それとも、榎耶は永遠の別れでも望んでいるのか?」 『永遠の別れ』という言葉に僕は思わず身を竦める。そんなことは嫌だと思ったし、想像しただけで底の無い穴の中にでも落ちていくような恐怖に駆られた。 「那理と別れるのは嫌だ」 僕が本気で身を震わせて、喉から絞り出すようにそう答えると、那理は満足そうに笑って僕を抱く腕に力を込めた。それで、もう、僕はどこにも逃げれなくなる。 「だったら言えよ。俺が好きだって。それから好きでいてくださいと哀願するんだ。簡単だろ?」 酷く奇麗な笑顔を浮かべたまま、那理は悪魔みたいなことを言う。そうして、そのまま僕を叩き落として変えてしまうつもりなんだろう。 普段はこれ以上は無いというくらい僕に優しい那理が、本当は一番僕に残酷なことが出来るというのだと、僕はその時悟った。けれども、僕は最後の最後で踏みとどまる。結局は無駄になってしまうはずの意地を張って、那理の顔が見えなくなるようにぎゅっと目を閉じた。 「いやだ」 今にも消えそうな声で僕が拒絶すると、那理はくすりと笑ったみたいだった。 「そう。それじゃあ、仕方が無いな」 那理が含み笑いを滲ませて漏らした言葉に僕は、不安になって思わず目を開いてしまう。目を開いてしまったなら、もう、僕に勝ち目など無いはずなのに。 僕は、何をされるかわからない不安に怯えて、那理の瞳を見つめた。那理は、僕の体に回していた手を僕の頬の辺りまで持ってきてそっと添えると、もう一度僕に唇を寄せた。那理の瞳にじっと見つめられたまま、僕は目を逸らすことが出来ずに抵抗する事も忘れてそのまま攫われる。目を閉じるか、逸らすかしなければ気が狂ってしまうと思いながらそのどちらも出来なかった。 那理の冷たい指が、僕の頬と耳の後ろの辺りに触れている。 那理の冷たい指が。 その指は、触れるか触れないかのギリギリの所で僕の頬と耳の後ろの辺りを動き回っている。僕は、もう、全ての神経が那理の触れている所に集中しているみたいに敏感になってしまって、そのまま気を失ってしまうのでは無いかと思った。 那理の指と瞳が。 触れては離れる唇が。 すぐ目の前で揺れている銀色の髪と睫が。 いとも簡単に僕を陥落してしまう。 那理は、僅かに唇を離し、ゆったりと笑った。 「俺のことが好き?」 尋ねられて、僕はとうとう降参の旗を揚げる。これ以上抵抗したならば、もう、このまま那理に殺されてしまう気がした。 「…す…き。…な…り…が…好きだ…」 僕が、泣きそうな気持ちで答えると、那理は満足そうに僕をぎゅっと抱きしめる。それから、穏やかな口調で、 「そう。俺も榎耶が好きだよ」 と言った。 その瞬間にパリン、と、音がして何かが動き始める。那理の肩越しには夜の海とそれに繋がる星空が広がっているはずだったけれど、僕には、真っ青な夏の空と入道雲が見えた気がした。それから、うるさいセミの声と、向日葵。照り付ける太陽と、光を反射している水の粒。 それは、あの夏の日に、僕が止めてしまった僕と那理の時計が動き出した瞬間だった。 那理はしばらく僕を抱きしめたままじっとしていたけれど、抱き合うのに飽きたのかゆっくりと体を離して僕の顔を覗き込む。その顔には、僕をからかうような色が浮かんでいて、僕は悔しさが込み上げて来るのを堪える事ができなかった。 「変わってしまったな」 さらりと、楽しそうに言われて僕は悔し涙が零れそうになる。 「だから、僕は嫌だって言ったんだ。どうするんだよ。もう、友達にも戻れなくなったじゃないか」 僕が恨みがましく言うと、那理は、あははと声を上げて楽しそうに笑った。 「戻るつもりも無いんだから良いじゃないか」 「僕は、こんな風になるつもりは無かったんだからな」 「それなら榎耶は『昔の友達』なんてつまらないものになりたかったのか?」 意地悪な口調で尋ねられて、僕は、ぐ、と言葉に詰まる。悔しそうに、上目遣いで那理を睨み付けた僕を見て、那理は、また楽しそうに笑った。それから、もう一度唇を寄せる。 「…もう…溶けるって…言って…」 るのに、という語尾は那理の唇に掠め取られた。 遠くには、真夏の青い空が。どこまでも青い空と吸い込まれそうな程真っ白な入道雲。 太陽に向かって凛と咲いている向日葵。うるさすぎる蝉の声。照りつける夏の日差しに反射してキラキラと光っていた幾つもの水の粒。濡れたシャツと前髪。僕に触れた冷たい指が。 そして、すぐそこには、新しい季節が近づいてきていた。 |