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途方も無く独りなのだと、身に染みるように感じながら奏は夕方の街を歩いていた。理由など実に些細なことだ。仕事に関する方針で、衛とやりあった。それだけなら別に構わない。だが、どうしてもイラついて売り言葉に買い言葉で、暴言を吐き捨てて家を飛び出した。そこまでは勢いだけでやってしまったが、しばらく、あてども無く歩いていて、今更のように気がついた。 一体、自分は、今日、どこに避難すればよいのだろうか。 行く場所が、無い。 きらびやかなネオンの下、昼間の日光の熱を吸ったアスファルトが嫌な熱気を放っている。行きかう人々の表情も、どこか気だるげだ。 自ら何もかもを捨て、衛の家に身を寄せるようになって、既に一年近くが経つ。紆余曲折を経たけれど、ビジネス上の衛との関係は良好だ。プライベートでも良好だったはずだが、それが崩れ始めたのは数ヶ月前からのことだった。 正確には、様々な人間を巻き込み、ビジネスに私情を挟みまくったコンサートが終わった日から、だ。 表面上は、何も変わったようには見えない。生活も取り立てて変化はしていなかった。ただ、大学に復学したため、仕事の量が少し減ったくらいだ。相変わらず、メディアへの露出は少ないし、殆ど、中小規模のコンサートが主体の活動だけれど、それでも、目ざとく奏の存在を見つける人間がいて、歩いていると、見知らぬ人間に何度か声を掛けられた。中には、単純なナンパ目的の人間もいたけれど、それらを片っ端から袖にして、奏は歩き続けた。 行く場所が無い。 今一度、心の中で繰り返すと、まるで、自分が無力で小さな迷子になったような気がした。いつもなら、気を張り詰めていて、見ない振りの寂しさだとか不安が、不意打ちのように押し寄せる。物理的な拠り所が無い、ということが、これほど心もとない事なのだとは今まで知らなかった。それだけ、無意識に、衛を頼っていたということなのだろう。だが、そこに、色めいた感情は一切無い。もしかしたら、そもそも、それがバランスを崩す一番の原因なのかもしれないが、だからといって、どうすることもできない。 ぐずぐずとしたものを抱えながら、それでも、向かう先は一つしかなかった。 兄には頼れない。 例のコンサートでの勝負に奏が勝ったから、兄の響は、今、恋人である透と一緒に暮らしているのだ。 勝った、と言っても結果そのものは怪しいものだが。コンサートと、共演自体はもちろん大成功だったし、あちこちの雑誌でも取り上げられ、概ね好評を博した。そもそも、口では勝負、だなどと奏は言っていたけれど、本当の目的は兄ともう一度、一緒にピアノを弾くことだったから、勝敗そのものは奏の中では意味が無い。音楽に勝ち負けをつけること自体ナンセンスだと思っている奏の価値観は、色々な経験をした今でも変わっていなかった。多分、そんな奏の真意を、審査員として呼んだ都築も気がついていたのだろう。彼が笑いながら下したジャッジは、 「奏が69点、響が68点。二人ともまだまだ精進しなさい」 というものだった。 奏は確かに一点だけ勝った。でも、多分、響が負けたら透と一緒に暮らすのだと都築が知っていたなら点数は逆になっていただろうと密かに奏は確信している。 いずれにしても、今、兄は透のマンションに身を寄せていて、当然、そこに転がり込むわけには行かない。以前、兄と二人で住んでいたアパートは当然の事ながら、とうの昔に解約していた。 透のところに行っても、響はもちろんのこと、透も恐らく、嫌な顔はしないだろう。兄とは別に暮らしているけれども、結局、あのコンサートの後からは、以前となんら変わらない態度で接している。梓の店でもちょくちょく会うし、透とも、前の通りの関係にほぼ戻りつつある。だから、奏が二人の所に行けないと思うのは、二人のせいではないのだ。そうではなく、奏自身が、どうしてもその甘えを許せない。半分は意地なのかもしれないけれど、奏はもう兄には頼らないと決めているからだ。 ふ、と梓のところに行こうかと考えたがすぐに首を横に振った。行けるはずが無い。梓の家には郁人がいる。表面張力いっぱいにまで張り詰めた、今のこんな緊張状態で郁人とプライベートな空間など持ったら、どうなってしまうか分からない。 「ああ! もう!」 と、どうにもならないイライラを持て余して、けれども、結局、奏がたどり着いた場所は梓の店だった。 何も考えずに、カランとドアベルを鳴らして中に入る。店内は、ちょうど夜の演奏が始まった時間らしく、ピアノの前に響が座っているのが見えた。聞こえてきた曲は、奏には少し意外だったが、『My Favarite Things』だ。かなりジャズ寄りのアレンジの演奏だった。奏は最初のほんの一瞬だけ、違和感を感じる。兄は、どちらかというと正統派クラシックを好むと思い込んでいたからだ。だが、すぐに、その思い違いに気がついた。響と奏のピアノの師である都築は、ジャズも得意としていて、時折、そのジャンルで呼ばれることもあったのだ。その都築としばらくの間、響は一緒に暮らしていた。影響を多少なりとも受けていたとして、なんらおかしなことは無い。 曲は佳境を迎えて、最後のアチェレランドに差し掛かる。奏でさえ見とれてしまうような滑らかで見事な指運びで、響は駆け抜けるようにその曲を弾ききった。途端に歓声と拍手が沸きあがる。その中で、一人の男性が響に近寄り何かを話しかけながら、馴れ馴れしい態度で肩を抱くように叩いた。そのままの姿勢で二人は何かを話し続け、不意に、響は弾けるように笑った。その表情に奏は意表を突かれる。こんなに伸び伸びとした表情の兄を、奏は滅多に見た事が無かった。 響は、奏には気がついていないようで、肩を抱かれたまま、何かを話し続ける。それを見ながら、奏はカウンターの席に腰を下ろした。予想していた通りに、そこには、今現在の、兄の恋人兼同居人が座っている。 「カナちゃん、こんばんは」 穏やかな声と表情で挨拶され、奏は意外に思いながらも、 「こんばんは、透さん」 と、挨拶を返した。 「あれ、良いんですか?」 ピアノの前で会話をしている二人を見つめたまま奏が問うと、透は肩を竦めて苦笑いを漏らす。 「大丈夫だと思うよ? 妻子持ちの人だし」 「え? そうなの?」 「うん。しかも、俺の上司」 それで、ようやく、奏はからくりを知る。 「仕事?」 「半分ね。半分は、純粋な娯楽というか。あのコンサートを偶然聴きに行ったらしくてね。君たち兄弟のファンになったらしいよ?」 はあ、そうですか、とどこか気の抜けた返事を返しながら、目の前に来た梓からコーヒーを受け取った。響と透が上手く行っていること自体は結構なことだが、今、こういう精神状態の時にそれを見せ付けられると、少しばかりきつい。 「オーナー、夕飯は?」 梓に話しかけられて、奏は眉を顰めた。ことあるごとに、梓は、奏の事をからかって『オーナー』と呼ぶ。事実、この店の所有者は奏ということになっているが、正直、奏はそんなことはどうでも良いのだ。権利も何も全て梓に譲っても良いのだが、梓は、それに関しては頑として首を縦に振らない。 「まだ食ってない」 「まかない出そうか?」 「うん」 素直に頷いたタイミングで、 「カナ?」 と、声を掛けられた。嫌というほど聞きなれたその声と呼び方。振り返ると、いつもと同じ、ウェイターの格好をした郁人がトレーを片手に立っていた。目が合うと、郁人は酷く嬉しそうな顔で笑う。対照的に、奏が仏頂面で無視をすることを知っていても、だ。 端から見れば、必死な郁人に奏がつれない態度を取っているようにしか映らないだろう。それでも、奏は、郁人の笑顔を見るたびに、理不尽な怒りに駆られる。郁人に腹が立つのか、それとも、自分に腹が立つのか判然とはしないが。いずれにしても、この時も同じで、奏はぷいっとよそを向いて郁人を無視した。そんな子供っぽい態度に、透と梓が苦笑いしているのが見えたけれど。 目の前に差し出されたリゾットを、ノルマをこなすように黙々と食べ、空っぽにしてから席を立つ。 「俺、帰るから」 一体、自分はこの店に何をしに来たのだろうと思いながら奏が告げると、 「待てよ、カナ。送ってく」 慌てて、郁人はエプロンを外した。これだ、と奏はため息を一つ零す。 「女じゃないんだから、大丈夫だって言ってるだろ?」 イライラとした口調で断っても、郁人は聞く耳を持たない。 「カナちゃん。送ってもらったら? 自分が、結構な有名人だって少し自覚したほうが良いよ」 善意なのか面白がっているのか分からない口調で透が言う。 「何だよ、奏、もう帰るのか?」 いつの間にか演奏を終えた響までやって来て、奏は無言のまま踵を返した。居心地が良すぎるのも考えものだと思う。捨ててしまったはずの甘えの虫が顔を出しそうになって、奏は自分が嫌になってしまった。 後ろから声を掛けられても振り向かずに、そのままドアを開ける。途端に、押し寄せてくるムッとした夏の夜気。酷くそれを不快に感じつつも、奏は足を進めた。 すぐ後ろから足音が追ってくる。誰なのかを十分に承知しながら奏は早足で歩き続けた。目的地など無い。そもそも、今日は衛の家には帰れない。衛の事を思い出して、奏の憂鬱は更に増した。 喧嘩のきっかけは仕事の事だったけれど、本当の問題はそこではない。もっと根の深い、複雑な原因があるのだ。だが、もしかしたら衛自身は、まだ、そのことに気がついていないのかもしれない。 単純な好きか嫌いかで聞かれれば、奏は衛が好きだ。信頼もしている。多分、慕ってもいるだろう。だが、そこに恋愛感情は無い。だから、例えば、衛が誰かをそういう意味で好きになったのだとしたら、邪魔になりたくは無い。だが、実際は、邪魔になりつつある。きっと、そう言ったとしても衛自身はそのことを認めないだろうが。 ふと、いつだったか、柴原が衛の恋愛観を分析していたのを思い出す。多分、不器用な人なのだろうと奏にも容易に想像がついた。恋愛以外のことに関してでさえ、分かりにくく、優しさの表し方が不器用なのだから。もしかしたら、今現在でさえ、自分の感情の揺れに気がついていないのかもしれない。それを指摘するべきなのか迷い続けて早一ヶ月。奏は結局のところ、口を閉ざし続けている。相手のほうは、更に輪をかけて鈍いというか、人間的に少々幼いところのある人なので、当然、衛が動かないことには進展のしようも無い。別に奏が悪いわけではない。恋愛など当事者同士の問題なのだから、奏が、それ、に気がついているのに何も口出ししないからといって、誰も、奏を責めたりはしないだろう。けれども、奏自身は、どうしても罪悪感というか、負い目を感じてしまう。全面的に、衛に世話になっているから、それは仕方の無いことだった。 「奏? 駅の方向、反対だけど」 不意に、後ろから肩を掴まれて、奏はハッと立ち止まる。反射的に振り返ったそこには、どこか心配そうな表情を浮かべた郁人が立っていた。考え事をしていたせいで、何の準備もしていなかった奏は、突然目に入ったその顔に、思わず息を呑む。栗色の髪、鳶色の瞳、鼻筋が通っていて色が白いのは梓譲りだ。背も高く、手足も長い。歩いているだけで人目を引くその容姿は、奏にも有効だった。たとえ不意打ちだったとしても、迂闊にも、どきりと胸を跳ね上げた自分に奏は腹を立てる。だいたい、元をただせば、原因は郁人なのだ。そうだ、と、奏は唐突に郁人に怒りを向けた。 「良いんだよ。今日は帰る場所が無いんだから」 「帰る場所が無い?」 訝しげに、郁人は眉間にしわを寄せる。そこで、奏は、ふと気がついた。奏は、別れてから、ほとんど郁人とまともな会話をしていない。一方的に郁人が奏の機嫌を取ろうと話しかけ、奏がつっけんどんな短い返事をする程度が関の山だ。だから、今、奏が誰と同居していて、どういう状態なのか、郁人は一体、どこまで知っているのか奏には分からなかった。そして、もしある程度知っていたなら、それをどう考えているのか。今更のように思い浮かんだ疑問に、奏は、唐突に不安になった。 「……郁人。お前、俺が今、どこに住んでるのか知ってる?」 奏が尋ねると郁人は一瞬だけ黙り込み、けれども、すぐに、 「知ってる」 と答えた。その表情はいつもと変わらない。けれども、奏に既視感を感じさせた。この顔は、作った平静だ。17歳の時、五年ぶりに再会した郁人は、今と同じ顔をしていた。それが、奏を苛立たせる。ただでさえ、ささくれだっていた気持ちがグチャグチャとかき回されて、だから、奏はそんなことを言ってしまったのだ。 「へえ。じゃあ、俺が誰と住んでるかも知ってるんだ?」 「……知ってる」 一拍おいて返ってきた声にも、その表情にも動揺は見えない。だから、奏は抑え切れないほど苛立った。 「俺が、その人とセックスしてるってのも知ってる?」 郁人を鼻で笑うように、意地悪な表情を浮かべて奏は問う。完全なハッタリだった。現に、奏は、ここ半年ほど、誰とも体の関係など持ったことが無い。それでも、それまで完璧なポーカーフェイスを被っていた郁人の表情が微かに変化したのを奏は見逃さなかった。だが、それは、無意識に奏が期待していた変化とは少し違った。 眉間に皺を寄せるでもなく、不快な表情をするでもなく、郁人はただ、完全にその顔から全ての表情を消し去っただけだった。途端に、奏を見つめる瞳の色さえ変わった気がした。今まで、向けられたことの無いような冷たい瞳。奏は、本能的に背中をひやりとさせる。踏んではならぬ地雷を踏んでしまったのではないかと危ぶんだが、けれども、それはほんの一瞬のことだった。 次の瞬間、郁人はフッと口の端を上げ、奏が唖然としてしまうくらい、屈託の無い表情で笑った。 「宇野辺さんと喧嘩でもしたの?」 郁人の口から、その名前が出たのは初めてで、まず、奏はそこに驚く。驚いて、次に訪れたのは言いようの無い脱力感だった。郁人の口調には、何の拘りも無いように見えた。まるで、奏が誰と関係しようと興味が無い、とでも言うように。 奏は、奥歯をグッとかみ締めて、不意に湧き上がった感情を無理やり抑え込む。そうしなければ、泣いてしまいそうだった。自分が感じている感情の名前を奏はちゃんとしっている。『落胆』だ。落胆するということは、何某かを郁人に期待していたということだ。 今更、何を、と自分を馬鹿馬鹿しく思う。嫉妬でもして、怒って欲しかったとでも言うのか。 「……そんなトコ」 なるべく、何でもないように装いながら奏はそっけなく答える。郁人は、やはり、興味が無いように、ふうんと相槌を打っただけだった。 「うちに来る?」 ごくごく自然な口調で、まるで世間話のように提案した郁人に奏は一瞬、動きを止める。え、と口を半開きにしたまま郁人の顔を確認したが、そこには何の変化も見られなかった。何の他意も無い、きっと、相手が奏ではなかったとしても同じ事を言っただろうと想像できる気軽さ。それで、奏は更に落ち込む。郁人のあまりに軽い態度に、自分の存在意義を見失いそうだった。うんとも、いやとも答えられずに奏は言葉に詰まる。 「ホテルに泊まる金は持ってるわけ?」 「……ある、けど」 「そう。まあ、奏がホテルのほうが気楽だって言うなら無理は言わないけど」 強引に来いと言われれば反発するだろうが、来なくても良いと言われると行きたくなるのが人情だ。 「別にそんな事、言わないけど……梓さんにも迷惑だし」 「母さんに? まさか。奏が来たら、逆に喜ぶに決まってる」 そう言われて、行くのが嫌だと言えるほど奏は強くなかった。ただでさえ、不安定な精神状態に陥っていたのだから。 「……じゃあ。悪いけど、一晩だけ泊めて」 あっさりと奏は結論を下し、 「良いよ」 と頷いた郁人の後について歩き始めたけれど。奏はすっかり失念していた。 奏の性格など、奏自身よりも、郁人のほうが、よほど確実に把握していたことを。 郁人に案内されたマンションは、奏にとっては初めて足を踏み入れる場所だった。以前、郁人と梓が二人で住んでいたマンションは、半年ほど前のいざこざの時に既に引き払い、売り渡してしまっていたからだ。 以前よりは古びた、そして、狭い部屋だったけれど、部屋の中の雰囲気は不思議なことに、あまり変わりが無かった。ふわりと漂ってくるのは、覚えのある、懐かしい匂いだ。郁人と梓の生活している匂い。時に、匂いというものは、人の深層に鋭く訴えてくる。この時の、奏にとってもそうだった。 そして、見覚えのあるラグマット、見覚えのあるテーブル、見覚えのあるクッション、見覚えのあるソファ。 梓は一度気に入ると、長い間それを大事に使う性格で、そうそう、家具を変えたりしない。だからこそ、以前と同じものを使っているのだろうと頭の隅では奏にも分かっている。けれども、奏が、一番最初に、それらを見て思い出してしまったのは、短い郁人との蜜月期間の事だった。一年程前には、なんの疑問も抱かず、恋人同士として過ごしていたのだ。男同士だし、二人とも、まだ若かったから、時には即物的に体を求め合ったことだって何度もあった。寝室に行く時間さえ惜しんで、このソファの上で抱き合ったのも一度や二度の事ではない。フラッシュバックのように、その時の事が思い出されて、奏は条件反射のように体を竦ませた。上手くは説明できないけれど、駄目だ、と思った。 初めて来たはずの部屋なのに、ここには、思い出したくない記憶の欠片がそこかしこに落ちている。その欠片を一つでも踏んだなら、奏は、自分が持ちこたえられなくなるような気がした。玄関で立ちすくんだまま、靴を脱ぐことも出来ずに奏は俯く。夏の熱気に汗ばんだ手をギュッと握り締め、奏は小さな声で、 「……やっぱり、帰るよ」 と呟いた。 「え?」 と、不思議そうな顔で郁人は振り返る。屈託の無い、以前となんら変わらないように見える表情だった。 もちろん錯覚だ。何もかもが変わってしまったはずだ。郁人も、二人の関係も、そして何より奏自身も。それを唐突に思い出し、奏はどうにもならない自己嫌悪に陥ってしまった。 今の奏は、以前の奏ではないのだ。郁人と恋人同士だった頃の、何も知らなかった頃の自分とは違う。もしかしたら、郁人が好きだったのはあの頃の自分で、今のすっかり変わってしまった自分ではないのかもしれない。だから、奏が安っぽい挑発をしても、郁人は頓着しなかったのだ。一度、そう考え始めてしまうと、奏はグチャグチャになってしまった。 今、立っているはずのコンクリートの床がグニャリと揺れる。心許ない足元が不安で、奏は思わず、壁に手をついた。もう片方の手を額にやり、混乱した頭で、同じ言葉を繰り返す。 「……やっぱり、帰る。どこか、ホテルにでも泊まる」 知らず、迷子の子供のような口調で奏が零すと、郁人は訝しげな表情で、眉を寄せた。 「何で?」 「何でって……迷惑だし」 「誰の? 母さんの? それとも俺の?」 どこか咎めるような郁人の声に、奏は怯む。 「りょ……両方」 真っ直ぐ射るように見つめてくる、郁人の鳶色の瞳を直視できず、らしくもなく奏は俯く。目に入った靴のつま先が、微かに煤けて汚れているのが酷く気になった。少しでも、その汚れを落とそうと、つま先をコンクリートの床に擦り付ける。靴の汚ればかりを気にしていたから、気がつかなかった。ほんのすぐ近くまで、郁人が近づいてきていることに。 「気になるなら、宿代払えば?」 「え?」 「だから、奏が気になるなら、宿代払えばって言ったんだよ。ただし、体でな」 打って変わってぶっきらぼうな声音で言われるのと、体を強引に引っ張り上げられたのは同時だった。郁人は奏をリビングまで無理やり引きずると、ソファの方に放り投げるように突き放した。そのまま有無を言わせずに両方の靴を脱がせ、それを一旦、玄関に放りに行き、ついでにドアの鍵をガチャンと乱暴に掛ける。何事かと奏が呆気に取られている間に郁人は乱暴な足取りでソファまで戻ってくると、やはり乱暴な態度で奏の腕を後ろ手に捻り上げた。そしてそのまま、奏をソファの上にうつ伏せに押し倒す。 「なっ……! 何するんだよ!」 突然の暴力に、奏は抗おうと体を捩る。けれども、郁人が背中から体重を掛けて圧し掛かってきたせいで、ほとんど、身動きできなかった。 「何するって、セックス」 酷く冷淡な声が耳元で聞こえ、奏は、カッと頭に血を上らせた。言葉の直後に、からかうように耳元に息を吹きかけられたから尚更だ。奏は耳が弱いことを、郁人は知っている。耳だけじゃない。体のどんな場所が弱くて、どこにスイッチがあるかも、郁人は良く知っているのだ。それこそ、奏がげんなりしてしまうくらい。 「しねーよ! 離せ!」 首を回して、肩越しに郁人を睨みつけ怒鳴っても、郁人は鼻で笑っただけだった。ひどく冷たい笑み。あまり、奏にはなじみの無い表情だった。けれども、こんな目を奏は知っている。本当は、ずっと前から知っていた。それこそ、十七で再会した時から。 郁人の根底には、深くて暗い何かが巣食っていて、けれども郁人はそれを奏に知られたくは無いと思っているのだろう。薄っすらと、奏はそれを感じ取っていたから、気がつかない振りを、見て見ない振りをしてきただけだ。それは、奏には到底理解できない類の『何か』だということも分かっていたから、尚更。 郁人は、時々、奏自身が首を傾げたくなってしまう程、奏を神聖視することがある。まるで、汚してはいけないもの、あるいは、決して汚れないものだとでも思っているかのように奏を扱うのだ。意識的にか、無意識にか、自分一人が全てを被って奏を守ろうとする行動の根幹になっているのも、きっとそれなのだろう。だが、奏は、それがずっと許せなかった。郁人に守って欲しいだなどと思ったことは、一度も無い。郁人だってそれを知っているはずなのに、度々、それを無碍にする。無碍にして、二人の関係を壊してしまったのだ。一度ならず二度までも。 「ふうん。そしたら、和姦じゃなくて強姦になるだけだけど?」 さらりと耳元で囁かれた言葉に、奏は体を震わせた。冗談じゃないと思う。こんなことは本意ではない。本意ではないのに、条件反射のように体の奥にチリチリと熱が溜まり始める。まるで、パブロフの犬だと奏は自分自身に呆れながら、それでも無駄な抵抗を諦めなかった。 「だから、させないって言ってるだろ!」 「でも、先に、挑発してきたのは奏だけど?」 「何が!?」 「他の男の名前ちらつかせて、俺が平気だと思った?」 いつもより低い声で、責めるように問われれば、奏は黙り込むしかない。挑発したのは事実だ。けれども、その場ではなく、こんな風にタイミングを外して言い出すのは卑怯なのではないか。 「……平気そうな顔してただろ……」 幾らか勢いの削がれた声で言い返すと、小さなため息の音が背中で聞こえた。 「知ってたけど、奏って、大概、酷い奴だよな。そんな訳、あるかよ」 どっちが酷い人間なんだと言い返そうとしたけれど、それは叶わなかった。クルリと体を器用にひっくり返されて、すぐ目の前に郁人の顔が見えたからだ。その鳶色の瞳を真正面から見てしまった途端、今度は別の意味で奏は黙り込む。 予想に反して、郁人の顔は笑っていなかった。冷たい無表情でもない。困りきって、奏に懇願し、縋りつくような瞳。まるで捨てられた迷子の犬のようなそれ。そして、その奥には抑え切れない熱が見える。目の前の男が、飢えて乾いて、奏だけを渇望しているのを悟り、反射的に奏は唾液を飲み込んだ。まるで、郁人の飢えが伝染したかのように唇が乾く。それを誤魔化すように舌で唇を舐めて濡らすと、郁人がスッと目を細めた。見慣れた、奏を誘う時の郁人の表情だった。 ずるい、卑怯者、反則。 奏の頭の中に瞬時に過ぎったのは、そんな言葉だった。郁人のこの表情が演技だったり、計算されたものだったら、きっと、奏は怒り狂って暴れまわっただろう。けれども、それが演技ではないことを奏が一番知っている。だからこそ、余計に、抵抗できなくなるのだ。 大きな手が、奏の前髪をかき上げるようにして額に当てられる。すこしだけひんやりとした、心地の良い手だった。すぐ近くにある郁人の顔が、更に近づいてきても、奏は押し返すことが出来なかった。ただ、固く目と唇を閉じるのがやっと。 触れ合った唇に、体が震える。自分の意思ではどうにもならない、感情のうねりから来る反応だった。キスをするのは、ほとんど一年ぶりだ。一年ぶりなのに、まるでそうするのが当たり前のようにすんなり馴染む。閉じた瞼の裏が急に熱くなって、堪えきれずに、涙が一粒、眦から零れた。悔しいのか、嬉しいのか、腹立たしいのか自分でも良く分からない。ただ、酷く、胸が痛かった。詮無くて、千切れてしまうかと思うくらい。 唇が離れて、奏はゆっくりと目を開けた。視線を逸らすことなく、滲んだ視界の中に見える郁人を睨みつける。輪郭のぼやけた郁人は、奏と同じように、どこか泣きたいのを堪えているような表情に見えた。 「……ごめん」 郁人の口から零れた一言は、今現在のこの行動に対するものではない。そうではなく、奏の零した涙の、本当の理由に対するもので、あれ以来、初めてなされた謝罪だった。 「……許さない。絶対に、許さない。今だって、許してない」 意地を張る子供のように奏は、何度も繰り返す。何度も繰り返すのに、郁人の体を突き離すことが出来ない。 離れられない、けれども、隙間無く寄り添えない、そんな関係が酷く悲しかった。 「うん、知ってる。でも。また、同じようなことがあったら、俺は、同じことすると思う。同じようにしか出来ないと思う」 そんなこと知っている、という言葉は口に出すことなく、胸の中でだけ呟く。知っているのだ。だからこそ、悲しい。悲しいのは、それでも郁人から離れられない自分の本心を知っているから。 奏は、すっと腕を上げ、郁人の背中に回した。投げやりな気分で、 「もういい」 と独り言を漏らした。それが聞こえたのか、聞こえなかったのか。郁人はもう一度、顔を近づけて、奏の額に一つ、頬に一つキスを落として、最後に、唇を塞いだ。 もう、抗う気力は残っていなかった。キスを一つされるたびに、胸を覆っている何かが一枚ずつ、はらりはらりと剥がされる。それは、意地とか、矜持とか、拘りだとか、あるいは柵と呼ばれるようなものなのかもしれない。普段は大事だと思っているそれが、郁人と触れ合うと全て、どうでも良いようなことのように思えてしまう。 体と同じように、心も裸にされて、結局、最後の最後に残ったのは、郁人が好きだという、至極、単純な、剥き出しの気持ちだけだった。そんな自分が、酷く滑稽で、そして、切ない。 体を繋いで、揺さぶられながら固く目を閉じる。 脳裏に浮かんだのは、なぜだか、小さな子供の頃、他愛の無いことで額を寄せながら笑いあった二人の姿だった。 目を覚ましたのは、寝室のベッドの中だった。カーテン越しの窓から、早朝の日差しが漏れている。背中には自分とは別の体温があって、腹の辺りには、若干、自分のそれよりも太い腕が回されていた。それを、そっと外すと、奏はベッドから降りる。郁人は、起きる気配が無かった。 ベッドの脇に置かれている小さな椅子の上に、几帳面に畳まれている自分の服を見つけ、奏は声を立てずに笑った。変な所に気が回り、マメなところは変わっていないと思いながら、そっと着替える。気配を殺し、音を立てないようにとドアのノブを回して寝室を出た直後に、奏は固まった。 誰もいないと思っていたリビングのソファに梓が座って、新聞を読んでいる。奏に気がついた梓は振り返り、何とも言いがたい、柔らかな優しい笑みを浮かべた。 「おはよ」 「お……は、よ」 「早いね。もう少し寝てたら?」 なんでもないことのように、自然な口調で言われて奏は口ごもる。後ろめたい気分で俯き、絨毯の目を見つめたまま、 「……郁人が起きる前に、帰りたいから」 と小さな声で答えた。 「そ? 仲直りしてないの?」 「……してない」 「だよねえ。まだ数ヶ月しか経ってないもんねえ」 きっと、奏たちの昨夜の行動に気がついているだろうに、梓はカラカラと磊落に笑い、煙草を一本取り出すと口にくわえた。シュッとマッチをする音が聞こえ、すぐに煙が昇り始める。それをぼんやりと眺めながら、奏はつぶやくように、 「……また、店にも顔出すから」 と言った。 「そうだね。そうしてくれると私も安心するわ。ついでに、うちの馬鹿息子に飴でも上げてやって頂戴」 梓の言葉を聞いて、奏は少しだけ呆れてしまう。これは飴なのか、と。 「上手に躾けたかったら、鞭だけじゃなくて飴もたまには出さないとねえ」 けれども、梓はさらに奏が呆れてしまうような台詞を吐いた。自分の息子を、完全に動物扱いだ。それで良いのか、と心の中で突っ込みを入れつつ、奏は肩を竦める。 「参考にさせてもらいます」 おどけた様に答えると、ほんの少しだけ気持ちが楽になって、奏は小さく息を吐き出した。そしてそのまま、玄関を出て歩き出す。まだ早い時間だから、さほど暑くはないけれど、空は既に青く、今日も暑くなりそうな天気だった。 気だるい体に鞭打って、駅に向かって歩いている間に、携帯の電源を落としていたことを思い出し、一瞬、躊躇したあとで覚悟を決めて、電源をオンにした。その途端に携帯が鳴り出す。表示されている名前を見て、奏は苦笑を漏らした。通話ボタンを押して、携帯を耳に当てる。 『奏!? 今、どこにいるの!?』 慌てふためいた声に、更に苦笑を深めつつ、奏は、 「泰人さん、声でかいよ」 と返事をした。 『あ、ごめん。心配で』 「あー、うん。ちょっと、宇野辺さんと喧嘩したんだ。昨日のコンサート、一緒に行けなくてごめんね」 『それは……良いけど。どこに泊まったの?』 「郁人のところ」 何のわだかまりもなく、あっさりと奏が答えると、電話の向こう側で泰人は黙り込んだようだった。しばらくの沈黙の後、戸惑いがちに、 『……そ、そっか。じゃ、その、お邪魔、だった、よね?』 と言葉が返ってくる。何をどう想像しているのか分からないが、敢えて、訂正もせずに奏は、 「うん。だから、明日まで帰らないと思う。悪いんだけど、宇野辺さんに適当に付き合ってあげて?」 と告げた。そう言えば、泰人が嫌だと言えないと知っていたからだ。案の定、泰人は、 『う…うん、分かった。そうする』 と素直に承諾する。それに、いくらかほっとして、それから、全く手間のかかる、と苦笑いを零しながら奏は通話を切った。賽は投げてやった。その後、どうなるかは二人の問題で、これ以上は奏の関与できることではない。 さて、と、奏は一旦立ち止まって、今日の自分の身の振り方を考える。明日までは衛のマンションには帰らない。 立ち止まった奏の横を、何人かの人が通り過ぎる。スーツ姿の、通勤中のサラリーマンやOL、ジョギング中の人、犬の散歩をしている人、学生らしい少女。太陽は、まだ低いけれど、すでに、じりじりと気温が上昇し始めていた。 ふと思い立って、奏は店に向かうことにした。一応、奏がオーナーという事になっているから、鍵は持っている。まだ、営業していない店の中で、冷房を効かせて涼しくして、一日中、ピアノを弾こうと決めた。朝から、晩まで、好きな曲を弾く。店が始まってしまうと、兄の仕事を奪うことになるけれど、そんなことは知ったことではない。アレは、自分の店なのだ。 営業時間が終わるまでピアノを引き続けて、店が終わったら梓と一緒に帰って、もう一晩泊めてもらうことにする。梓が一緒にいれば、滅多なことにはならないだろう。昨日がおかしかっただけなのだと自分に言い聞かせて、奏は店に向かって歩き始めた。 目の前の地面に落ちる影が濃い。真っ黒な自分の影。ふ、と奏は顔を上げて空を仰いだ。そこには笑いたくなるほどの快晴の空が広がっている。 目に痛いほど、高くて青い、綺麗な空だった。 |