伊達と酔狂 ………………… |
── 浅春のみぎり、客人の来る由 トンネルを抜けるとそこは雪国だった、とは川端康成の小説であるが、それとは全く反対の事を考えながら松代栄(まつしろさかえ)は車窓の景色を眺めた。トンネルを抜けたら雪が、無い。雪の一塊も残っていない、冬の気配などどこにも残らぬ景色に遠くの地に来てしまったことを実感する。 弥生と言えば暦の上では早春にあたるが、雪深い故郷の地においては未だ沢山の雪が残っており冬と呼んだほうが似つかわしい。細雪のちらつく駅を出発してから一日と経っていないというのにこうも違うのか、と栄は不思議な感覚に捕らわれた。 ガタンゴトンと眠気を誘うリズムで電車は東に向かって走っていたが、栄は興奮してしまって一向に眠ることができなかった。昨晩、家族に見送られて信州は野沢の地から帝都東京に向かって出発したまま、結局、一睡もしていない。すでに東の空は白み始めているのだから、ほぼ徹夜をしてしまったことになる。けれども、睡魔が訪れてくる気配は全く無い。 これから、新しい土地で、新しい人と出会い、新しいことを学んでいくのだ。 そう考えると、多くの期待と、少しばかりの不安で胸がいっぱいになる。新しく居候をさせてもらう家の主人とは上手くやれるだろうか。確か、帝大を卒業している優秀な人物だと聞いたから、きっと多くのことを学ばせてもらえるだろう。気難しい人でなければ良いけれど。 そんな事を取り留めなく考えているうちに、空はすっかり明るくなり朝を迎える。そして、電車はとうとう終着駅に到着した。 少し大きめの荷物を抱え、電車から降り立ったとき、栄は、まず、駅の大きさに驚いた。それから、人の多さに戸惑い、見たことも無い建築様式の建物に圧倒された。 空はすっかり明るくなったとはいえ、まだ早朝と呼べる時間帯である。それなのに、この人の多さと活気、熱気は一体何なのか。そして、もっとも栄が驚いたのは道路を行き交う自動車であった。『自動車』という言葉は中学時代に科学雑誌で何度も見聞きしたし、写真で見たこともあったが、悲しいかな、片田舎の野沢の地には未だ一台の自動車も存在していなかった。松本の辺りに行けば数台あるらしいという噂を聞いたが、結局、見物に行く時間もとれず、今、こうして、目の前を走っていく自動車を見るのが実物を見る初めてだった。 口を大きく開けたまま、大きな鉄の塊がブロロロと音を立て白煙を上げて走っていく姿を眺めやる。暫く、そうして間抜けな姿を晒していたが、はっと我に帰り途端に期待と希望とで胸が高鳴るのを感じた。最新の技術と最先端の流行。高度な学術が当たり前のように行きかうのが、この都なのだ。 栄が立ち尽くしている目の前を華やかな洋装に身を包んだ貴婦人達が通り過ぎる。女性がこんな風に活動的に見えるのも、開放的に見えるのも、何もかもが栄には目新しい。本当に、新しい生活が始まり、未知の世界に足を踏み入れたのだと意気揚々、栄はこの地での第一歩を踏み出した。 駅馬車を三つ乗り継ぎ、逗留予定先の最寄の駅で人力車に住所を書いた走り書きを手渡す。俥夫の男は気風の良い口調で栄に話しかけ、道中を楽しませてくれた。栄が逗留する予定の滋野井家は江戸時代から続く旧家で子爵の爵位を持つ家柄だ。その地域一帯では大分有名らしく、何の説明もしなくとも俥夫はすぐに行き先を承知した。 「あそこの家は、ここいら一帯で一番の名士ですからね。大旦那様は今は隠居なすってますが、以前はそりゃあ立派な政治家でいらっしゃったんですよ。旦那様は私塾の塾長をなすってますし、若旦那は帝大を卒業されてますから、勉強をするにはもってこいの環境ですね。坊ちゃんはどちらから? 信州? 寒いところからおいでなさったんですねえ。お国でも賢かったんでしょうねえ、いや、そのお顔を拝見すれば分かります。賢さが顔に表れていらっしゃいます」 歯の浮くような褒め言葉を立て板に水とばかりに並べ立てられ、人馴れしていない栄は思わず頬を赤らめる。都の人は、誰もがこんな風に解放的で積極的なのだろうか。少しばかり面映い思いをしながら、それでも新しく生活を始める家の話を聞けたのは有益だった。 栄が書生として仕えることになったのは滋野井家の跡取り息子、俥夫が若旦那と呼んだ青年である。名前は滋野井尭智(しげのいたかち)と聞いた。栄はまだ、一度も会ったことは無い。 栄の家は百年以上続く野沢温泉の老舗の旅館だ。名前を松代屋(まつしろや)と言う。栄はその家の長男で末っ子であり、三人の姉を持つ。現在は栄の母が女将、一番上の姉が若女将となって旅館を切り盛りしている。滋野井家の大旦那、即ち尭智の祖父は隠居してから時折野沢温泉を訪れ、松代屋を贔屓にして利用していた。栄の母とは懇意で、栄が中学を卒業した後も、板場に入るつもりは無く上京して勉強を続けたがっているという旨をひょんな事から相談したのが事のきっかけだった。 大事な一人息子を見知らぬ大都会へ一人送り出すのは不安だろう、何時も女将には世話になっているのだから、お返しといっては何だが滋野井家で栄を預かろうではないか、と当主が申し出たので、栄はこうして現在、滋野井家の門前に立っているという次第だ。 でかい。とにかくでかい。というのが滋野井の家屋敷に対する栄の第一印象だった。敷地の広さはざっと見積もっても500坪を下らないだろう。青牡丹を用いられて作られている門構えは、大分古いらしく由緒を感じさせる。門に向かって右手は洋風造りの建物が建っており、左手には日本家屋や土蔵、離れ屋敷が立ち並んでいる。言ってみれば和洋折衷の屋敷ではあるが、洋風造りの建物は然程華美ではなく、控えめな様相に造られているので双方の佇まいが自然に溶け合い、落ち着いた印象を与えていた。 日本家屋の手前には広々とした枯山水の庭が広がっている。信州の地では未だ芽をつけてさえいない梅の花が、この庭では僅かにほころび始めていた。 「凄い・・・・」 個性の無いありきたりの感嘆の言葉を漏らし、栄は門内に広がる景色をぐるりと見回す。それから、自分の身の処し方について暫し悩んだ。門は分かる。門を潜る所までは問題は無い。その後、自分はどの建物に向かえばよいのだろうか。そもそも、家人が普段生活しているのは、一体どの建物なのか。門前に立ち尽くしたまま栄が途方に暮れていると、後ろのほうから朗らかな声がした。 「おや? 客人かい?」 栄がはっとして振り返ると、小洒落た洋服に身を包んだ長身の男が立っていた。年の頃合は二十半ばと言った所だろうか。もしや、この男性が滋野井家の跡取りだろうかと、栄は俄かに緊張した。 「あの、ここの家の方でしょうか? 僕は今日からこの家で書生を務めさせて頂く事になっております、松代栄と言うものですが」 頭一つほど背の高い相手を見上げ、緊張の余り目を少し潤ませながら栄は言った。すると、男はいくらか驚いたように目を見開いて暫く栄の顔を見下ろし、それから不意に柔らかく笑った。それが、酷く感じの良い笑い方だったので、栄は少しだけ安心して緊張を解く。落ち着いてよくよく見れば、男はとても整った顔立ちをしており、理知的な雰囲気が漂っている。髪をこざっぱりと切り揃え、違和感無く見事に洋服を着こなせているのは、この長身と、容姿と、雰囲気のお陰なのだろうと栄は思った。 「申し訳ないが、僕はこの家の人間ではないんだよ。けれども、ここの道楽息子の友人ではある。君の事は聞いていたよ。信州の田舎から書生がやってくると言う話だったが、今日だったんだね」 「はい。今朝方ようやく電車で到着しました」 道楽息子、という文言を聞いて疑問が脳裏を掠めたが、取り合えずそれは置いておくこととして、栄はハキハキと答えた。老舗の旅館という環境で育てられた為、栄は殊更他人に対する態度には注意を払う。謙譲、感謝、誠意を信条として厳しく躾けられているので、栄は大抵の場合、第一印象で嫌われることは少なかった。この時も例外では無かったらしく、男は好意的な表情で頷いてみせる。 「それで、その、申し訳ありませんが、家の方は一体どちらの建物においでかご存知でしょうか?」 遠慮がちに栄が尋ねると男は門内の方に視線を移し、それから微かに笑った。 「嗚呼、この屋敷は広くて幾つも建物があるからな。迷ったという訳か。君は、尭智の書生なのだろう?」 「はい。そのように賜っております」 「ふむ。それでは取り合えず右手の洋館のほうに行けば良いだろうね。どれ。僕も尭智に用事があって来たんだ。案内しよう」 「ありがとうございます・・・・あの・・・失礼でなければお名前をお聞かせ願えますか?」 「え? 嗚呼。僕としたことが失敬。君の愛らしい顔に見とれていて、名乗るのを忘れていたね。僕の名前は各務竹久(かがみたけひさ)と言うんだ。これからもちょくちょく顔を会わせる事になるだろうからよろしく頼むよ」 各務と名乗る男は愛想良く笑ってそう答えた。栄は、男である自分に向かって愛らしいとは褒めているのだろうか、それともからかわれたのだろうかと悩んだが、初対面のしかもこれから自分が仕えることになるだろう主の友人らしき人物に難癖をつけるのは得策ではないと判断して、曖昧に笑ってこちらこそよろしくお願いしますと返事した。 洋館は焦げ茶の煉瓦を基調として造られており、恐らくそれ程建築してから年月を経ているわけでもないのだろうが、古めかしい印象を受ける。家の前には東京駅の傍らに並んでいた瓦斯灯と同じようなランプが幾つか据えられていた。 「僕は、今日初めて洋風造りの屋敷を実際に見ました」 見るもの全てが目新しく、栄が好奇心丸出しで屋敷を見渡していると各務は楽しそうに微笑んだ。 「信州にはこういった建物は無いのかい?」 「はい。僕が住んでいたのは田舎でしたから。こういうのをモダンと言うんですね」 物珍しそうに瓦斯灯を見上げながら、子供っぽい早い口調で更に捲くし立てると、各務はとうとう、声を上げて笑い出した。栄は、自分の素直で子供じみた態度が笑われたのだとは気がつけずに、不思議そうな表情で各務を見上げた。その時だった。 バタンと派手な音を立てて、玄関の重厚な扉が開け放たれる。中から着物姿の一人の男が勢い良く飛び出してきた。洋館の中から和服の男が出てくると言うのが、どうにもしっくりこなくて不思議な違和感を栄は覚える。しかし、各務はさして気にした風も無く朗らかに男に話しかけた。 「相良(さがら)先生。性懲りも無く口説きに来たのですか?」 「おお! 各務君か。いや、何。頼まれていた品物を届けに来たついでにな」 「嗚呼、例の変わったモノと言う奴ですね」 「丁度、手に入ったものでね。変わったモノとは言うが案外と出回っているものだよ。どうだい? 君も一枚」 「ははは、僕は結構ですよ。尭智に見せてもらいますから」 「そうかね。おっと、私はこれから用事があるんだ。失礼させてもらうよ」 「ええ、お呼びだてして申し訳ありませんでした」 いやいや、と男は磊落に笑い大股で豪快に歩き去っていった。そのやり取りを栄は呆気に取られて見ていたが、各務が屋敷の中へと促したので素直に従って、洋館の中に足を踏み入れた。 外観の落ち着きを裏切らず、内部は煉瓦と木を基調として造られておりしっとりとした雰囲気を醸し出している。何とはなしに、中学校の図書室を思わせるような空気を感じて、栄はその洋館をすぐに好きになった。仄かに木の香りが漂っているのも好ましい。 「おいで。多分、尭智はこの奥にいるよ」 やんわりと各務に促されて、栄は洋館の中を奥へと進んだ。木の香りに混じって仄かに煙のにおいがする。一体何のにおいだろうと首をかしげていたが、直ぐに答えは明かされた。洋館の一番奥の突き当りの部屋、見るからに高そうな重厚な扉を各務が押す。ギギギと重たい音を立てて開いたその部屋はかなりの広さの応接間だった。ざっと二十畳はあろうか。部屋の右手には背の高い本棚が幾つか並べられており、様々な本で埋め尽くされていた。まるで図書館のようだと栄はその本棚を眺めて感心する。部屋の左手には深い臙脂を基調とした卓と洋式の長椅子がゆったりとした配置で置かれていた。そして、その長椅子には一人の男が深く腰掛けている。物憂げな表情で手に持った紙切れを眺めながら煙草をふかしていた。ああ、この煙のにおいは煙草だったのかと栄は得心する。それから、じっくりと男の姿形を眺めて無意識のうちに見入ってしまっていた。 男は確かに日本人だったが、西洋人染みた仕草で足を組んでいた。それが様になっているのは、各務同様、洋装が板についているせいなのだろう。 鼻で支えるように掛けている洋風の丸眼鏡は、掛ける人によっては間抜けに見えてしまうかもしれないが、男の中性的で柔和な顔には似合っていた。 まるで、いつだったか美術館で見た肖像画のようだ、と栄はぼんやり考える。 「尭智」 各務が男の名前を呼び、そこで初めて栄はその男が滋野井尭智、すなわち自分がこれから仕える男だということを知った。 名前を呼ばれて、尭智はゆっくりと顔を上げる。各務の姿を認めると、ふっと顔を綻ばせた。その表情の柔らかさに栄ははっとする。 「竹久ですか」 ゆったりとした口調に少し低めの声は、その温和な表情と同じく、やはり聞くものに柔らかさを感じさせる。物腰と言い、雰囲気と言い、品の良さと知性が溢れているようだと栄は直感的に感じた。こんな人に仕えることが出来るのだと、俄かに期待と希望で胸が高鳴る。尭智はすぐに各務の後ろに立っている栄に気がつき、微かに首をかしげた。 「彼は?」 「嗚呼、彼は松代栄君。君の書生なんだろう?」 各務が栄を振り返り、目で笑いかけながら告げると尭智は急に表情をぱっと明るくして長椅子から立ち上がった。 「君が松代栄さんですか? お待ちしていました」 ゆったりとした動作で尭智が栄に近づいてきたので、栄は慌ててペコリと頭を下げた。 「初めまして。松代栄と申します。今日から滋野井様の書生を務めさせて頂きます。まだまだ未熟者ではありますが、御鞭撻のほどをよろしくお願いいたします」 栄が礼儀正しく挨拶をすると、尭智は人懐っこい笑顔を浮かべて栄に右手を差し出した。 「嫌ですねえ、滋野井様だなんて。尭智と呼んでください」 これから主になる人と気軽に握手などしても良いものかどうか栄は迷ったが、差し出された右手を無視するわけにもいかず遠慮がちに自分の右手を差し出す。すると、尭智は何の戸惑いも無く栄の右手をやんわりと握り、優しく握手した。そんな尭智の態度に栄は幾らか安堵して、自然にふわりと笑顔を見せた。 「それでは、お言葉に甘えさせて頂いて、尭智様とお呼び致します」 少しだけ首を傾げて栄が答えると、尭智は目を見開いて栄を見つめ、それから、再び、ふっと笑みを見せた。 「ええ。そうしてくれると私も嬉しいですよ。嗚呼、こんな所に突っ立っているのも何ですね。椅子に座って下さい。お茶を入れさせましょう」 やんわりと栄の肩を抱き、尭智は長椅子へと促す。直ぐ隣に尭智に立たれて、栄は、各務ほどではないが尭智も長身だということに気がついた。各務よりはやや細身だが、足も長いので洋装が酷く似合っている。身長差のせいか、尭智が年長の男性だということが急に意識され、栄はくすぐったい様な気分になった。 栄には兄がいない。姉は三人もいるが、所詮は性別の違う生き物だ。繊細な男心など微塵も理解しようとはせず、ただ口煩く躾けの事を注意したり、中学校を卒業したら板場に入れと言い続けていた姉達だった。 共に将来について語り合ったり、科学や文学、政治の事などについて討論しあったことなど勿論無い。だから、殊更、栄は年長の男性には懐いてしまう節があった。 どちらかといえば童顔で、性格も素直で誠実な栄である。それに加えて、末っ子の性質から来るのか甘え上手だ。中学校時代も先輩方について勉強したり、武道に励んだり、遊んだりして大体が可愛がられていた。 もしも、兄がいたのならこんな風だったのだろうかと思いながら、栄は促されるまま長椅子に腰掛け、ふと卓の上に置いてある一枚の和紙に気がついた。大きさは書道の半紙程の大きさで、先程、尭智が神妙な面持ちで見つめていた代物だ。 一体何の書類だろうと思いよくよく見ると、そこにはとんでもない物が描かれており、栄は仰天して一度座った長椅子から勢い良く立ち上がった。 「な、な、な、何ですか! この絵は!」 顔を紅より赤くして慌てふためく栄の様子に、各務が些か驚いた様子で『それ』を覗き込む。何が描いてあるのかを確認して、納得したように苦笑した。 「おや? 信州にはこう言った物は無いんですか? これは春画と言うんですよ」 栄の動揺ぶりとは対照的に尭智は落ち着き払った様子で平然と答えた。今日の天気は晴れですよとでも告げるような口調に栄は言葉を失って、ただ呆然と尭智の顔を凝視する。春画ならば栄も何度か見たことはある。健康な男児ならばそう言った物に興味を示すのは当然で、学友が面白半分に学校に持ち込んだものを、少しの後ろめたい気持ちと、多くの好奇心を抱いて眺めたことは一度や二度ではない。 栄はどちらかと言うと奥手で『純情』と評される部類の少年であったので、中学校を卒業し、数えで二十の歳(満では十八歳である)になった今でも女を知らない。松本の下町の遊郭に何度か誘われたことはあったが、どうにも勇気が出ずに行けずじまいだった。 学友に春画を見せられた時なども、自分で分かっていながら、ついつい顔が赤らんでしまうのを止められず、よくからかわれたものだった。それでもある程度の免疫はあったし、然程の事でない限り春画如きでそうそう動揺などするものではなかったが、たった今、目の前におかれているそれは十分に「然程の事」に値する代物だった。 「し、し、春画って・・・これは、お、お、男同士じゃありませんか!」 栄が顔を赤くしたまま、目を白黒させてその絵を指差すと尭智は栄の顔を見つめ一つ二つ瞬きをした。その刹那、尭智の瞳に不穏な光が過ぎったが、尭智の本質を未だ知らない栄にそれを読み取ることは不可能だった。 「栄さん」 不意に口調を改め、表情も神妙な物に変え、尭智は静かに語りかけた。 「は・・・はい?」 「軽蔑なさいますか?」 「え・・・? な、何がでしょう」 「軽蔑なさるでしょうね。実は、この絡み合っている片方の男は私なのです」 「・・・・・は?」 「ですから、こちらの男は私なのです」 言葉の意味の飲み込めず、ひたすら目を白黒させている栄の前で、尭智は悲しげに溜息を一つ吐いて見せた。物憂げに伏せられた瞳を縁取る睫毛は微かに震えている。余りに痛々しいその悲痛な表情に栄は何も言えなくなってしまった。 「・・・お恥ずかしい話ですが、滋野井家は莫大な借金を抱えているのです」 沈んだ小さな声で尭智が語り始めた内容は、栄にとっては寝耳に水の事実で愕然と立ち竦む。尭智はそんな栄を見るのが辛いのか、なるべく栄の顔を見ないようにして話を続けた。 「それも、この家屋敷、土地、全ての財産を処分しても返しきれるような額ではないのです。しかも滋野井家の人間は皆、贅沢に馴れている者ばかり。家屋敷を処分してどうして暮らしていけるでしょうか」 「そ・・・そんな・・・・」 それでは、到底、自分が居候するような余裕など無いのではないかと栄は青くなる。しかし、次に続けられた言葉を聞いた途端、栄は更に青くなってしまった。 「私は少しでも家の助けになるようにと、こうして、こんな奇特な春画のモデルを請け負っているのです。もちろん借金に比べれば些細な収入でしかありませんが。・・・嗚呼、でも大丈夫。栄さんには何の不自由もさせません。君の分の賄くらい僕が何とか得てみせますから、安心して勉学に勤しんで下さい」 そう言いながら、蒼ざめた顔で尭智は痛々しく笑って見せた。 「・・・そ・・・そんな・・・そんなご迷惑はおかけできません。僕・・・僕は・・・僕は、尭智様にそんな辛いことをさせる位ならば、信州に帰ります」 この優しげで穏やかそうな人物を苦しめている一端を自分が担っているのかと思うと、栄は心苦しくていても立ってもいられなくなった。尭智に負けず劣らず蒼ざめた表情できゅっと拳を握り締めると、不意に尭智は栄の真正面に膝をつき、栄の手を取って縋った。 「栄さん! そんな事を言ってはいけません! 私の祖父は、本当に君のお母様にお世話になったのです。そのお返しを少しでもしたいと君を呼び寄せたのですよ? 祖父の恩人は私の恩人も同然。そのご子息である栄さんに良くして差し上げたいのは当然の事なのです」 「けれど・・・けれど・・・やっぱり、僕は尭智様に辛い思いをさせてまで、こちらにご厄介になる訳にはいきません」 ちらりと例の春画に目をやりながら栄は消沈した声で言った。正視できないようなあられもない絡み合い方をした春画である。お金の為に、こんな絵のモデルをしているのであれば、いかばかりの苦痛であろうか、遊郭に売られた女と大差無い惨めさではなかろうかと栄はますます気分が消沈してきてしまった。昨晩、期待に胸を高鳴らせて故郷を出発した時の気分とは雲泥の差である。 「栄さん、後生ですから、そんな事を言わないで下さい。私は今まで一度も書生を採ったことが無いのです。初めての書生はどんな人だろうと楽しみにして、昨晩は眠れないほどでした。そして、今日、こうして栄さんにお会いしたら、誠実で、利発そうで、愛らしくて・・・本当に嬉しかったのですよ?」 「で・・・でも・・・」 尭智が栄を気に入ってくれたと聞いて、栄は天にも昇るほど嬉しかった。自分も尭智を一目で好きになったのだし、もし、書生を務めさせてもらえるならばこれほど嬉しいことは無い。けれども、そのせいで尭智に惨めな思いをさせるなど決して受け入れられることでは無かった。 どう言ってそれを伝えれば良いのか言いあぐねて、栄は無意識に、助けを求めるように各務に視線を移した。各務は深く俯いていたので、栄えにはその表情は見えなかった。ただ、幅の広い各務の肩が小刻みに揺れていた。それに気が付いて、栄ははっとする。 きっと、友人の苦境を我が事のように思い、各務も苦しんでいるに違いない。友人を思い、声を殺して泣いているのだろう。そう考えたら、栄はますます何も言うことができなくなった。 「・・・それとも・・・こんな絵のモデルをするような男の側にはいたくありませんか?」 追い討ちをかけるように、重く沈んだ声で尭智が告げる。栄から目を逸らしたその表情は今にも泣き出してしまいそうで、栄の方が尚更辛くなってしまった。 「そんなことはありません! 今日、初めて出会った僕が言うのは僭越かもしれませんが、尭智様が立派な人であることは一目で分かります! 僕が言いたいのはそう言う事ではなくて、ただ、尭智様の負担になりたくないと・・・」 「一体、栄さんの何が僕の負担になるというのでしょう。このまま野沢の地に戻るなど、そんな殺生なことは言わないで下さい」 真剣な眼差しで詰め寄られて、栄は途方に暮れる。しかし、尭智の余りに熱心な態度に胸を打たれ、暫し考えた後、覚悟を決めた。 「・・・分かりました」 きゅっと顔を引き締めて、膝元に蹲っている尭智の手を取りじっとその顔を見つめると、尭智の表情がぱっと明るくなる。その表情を見て、更に栄は決心を固くした。 「僕は、尭智様の書生を勤めさせて頂きます。けれども、自分の生活費は自分で働いて稼ぎます」 「いいえ、そんな事を栄さんが気になさる必要は無いんですよ」 「そういう訳にはいきません。尭智様に負担をかける事は出来ません」 尭智の手をきゅっと握り締め、栄が頑固な姿勢でそう告げると、尭智は暫く「しかし・・・」と言い淀んでいたが、ふと、何かを思いついた表情で顔を上げた。 「嗚呼。それならば」 不意に180度転換してしまったような朗らかな笑顔を浮かべ、尭智はすっくと立ち上がり、栄の手を引いた。その勢いで、栄は思わず長椅子から立ち上がってしまう。 「私と一緒に絵のモデルを致しましょう」 ニコニコと笑いながら、尭智は気軽な口調で提案した。 「・・・・・は?」 「ですから、栄さんも、絵のモデルを致しましょうとお誘いしているのです」 「・・・・え? ・・・・え・・・のもでる・・・って・・・・え? ま・・・さか・・・し・・・しゅんがの? ・・・と言う事ではありませんよね?」 栄は呆然とした様子でパチパチとしきりに瞬きを繰り返す。栄の動揺と混乱を他所に、尭智の表情は余りに明るく楽しくて仕方がないといった風情だった。 「ええ、勿論、先程の。大丈夫ですよ。栄さんはとても愛らしい容貌をなさっていますし、さぞかし良いモデルになるでしょうね」 「ち、ち、ち、ちょっと待ってください! ぼ・・・ぼ、僕には無理です!」 「そんなことはありませんよ、何、難しいことはありません。裸になって少し絡んで見せれば良いだけの事です。なんなら、ここで練習してみましょうか」 そう言うと尭智はぐいっと強引に栄の腕を引き、ひょいと長椅子の上に押し倒してしまう。この細腕に、どうしてこんな力が、と思う程の手際の良さだった。栄が余りの展開に泡を食っている間に、尭智の男にしては小奇麗な手が器用に学生服のボタンを外していく。さすがに、内側に着ていたシャツの釦に手を掛けられた段になって、栄は多少、正気を取り戻して必死に尭智の手を止めようとした。 「た、た、尭智様! やめてください! 落ち着いて!」 「私は落ち着いていますよ。なに、大したことではありません。慣れてしまえばどうという事も無いですから」 「わあ! どうと言う事はあります! やめてください! うわっ!」 どちらかと言えばおっとりとした、柔和な外見からは想像も付かない素早さで、尭智は器用に栄のシャツのボタンを外す。ひやりと外気に触れた素肌の感覚で、栄は再び混乱と動揺の真っ只中に突き落とされた。一体、何がどうなってこんな事態に発展してしまったのか。自分はただ、勉学がしたいが為に上京して、これから前途明るい未来が洋々と開けているはずだったのに、今、こうして男に圧し掛かられ服を脱がされているとは。 人は余りに混乱すると涙腺が弱くなってしまうらしい。知らず知らずのうちに、栄の眦には涙が溜まり、その一雫がホロリと零れ落ちた。 「ちょっと待ってーーーーー!!」 全身全霊の力を込めて、栄が大声で叫んだ瞬間だった。 バタン! と大きな音を立てて、部屋の重厚な扉が開け放たれる。 「尭智や。今日、客人が来る予定なのだが、約束の時間を過ぎてもまだ到着・・・・・・・・」 突然に部屋の中に入ってきた人物は、そこまで言いかけて言葉を失った。そして、目の前の光景にゼンマイが切れてしまったカラクリ人形のようにピタリと動きを止める。それは、突然の事態に驚いた栄も、尭智も同じことだった。 シン、と水を打ったように部屋の中に沈黙が落ちる。 一体何事が起こっているのかを最初に把握して、その沈黙を打ち破ったのは他でもない。ずっと傍観者を決め込んでいた各務だった。 「あっはっは! ダメだ、もう我慢できない! くっくっく、あははははは!」 気が触れてしまったかのように突然大声で笑い出した各務を栄は驚いて見つめる。何が何だか分からない状態で、自分の上に陣取っている尭智を見上げると、酷くつまらなそうな表情で、各務と、たった今、部屋の中に踏み込んできた老人を交互に見やっていた。 「たっ、たっ、尭智っっ!! 何をやっておる! まっ・・・まさかっ! まさか、そこにいるのは松代栄君ではあるまいな!!」 老人は目を剥きそうな勢いで尭智に向かって怒鳴りつけた。顔は真っ赤になって、額には青筋が浮き出ている。嗚呼、お年寄りがあんな風に怒ったら脳卒中になってしまうのではないか、と栄は完全に麻痺してしまった頭でぼんやりとそんな的外れのことを考えた。 それにしても、随分と貫禄のある、恰幅の良い老人である。紋付羽織袴をきちんと着込んだ姿は年老いて尚、風格が漂っているようであった。こんな人物に怒鳴りつけられたら、普通の人間はたちどころに竦み上がってしまうだろうが、悲しいかな、怒鳴りつけられている人間は、如何せん「普通の人間」では無かったのである。 老人の怒鳴り声などどこ吹く風と言った顔でつんと澄ましたまま、尭智は、 「ええ。栄さんです。まったく、お爺様は間の悪い方ですね」 と、しごくあっさりと答えた。 「なんだと!? そもそも、お前は栄君に何をしようとしてるのだ!?」 「親睦を深めようとしていただけですよ。邪魔しないで下さい」 「親睦!? 親睦だと!? この状況を見て誰が親睦だなどと思う! 馬鹿者が! 他所様から預かったご子息に不貞を働くとは、もはや言葉も無いわ!」 「言葉が無いなら黙っていて下さい」 しれっとした顔で尭智が告げると老人の顔は更に赤くなった。今すぐにでも噴火してしまいそうな勢いである。怒りの余りぶるぶると全身を振るわせ始めた老人を見て、栄は心配になってしまった。そろそろと尭智の下から抜け出すとはだけていたシャツをかき合わせ、 「あのう・・・」 と、遠慮がちに口を挟んだ。それまで丁々発止のやり取りをしていた二人が不意に栄の存在を思い出したように、ふっと栄えの方を見やる。老人は幾分冷静さを取り戻したのか、赤い顔が戻りつつあった。 「おお、そうであった、そうであった。君は栄君だね?」 「あ、ええと、はい、そうです。あの・・・滋野井・・・尭恒(たかつね)様ですよね?」 「おお、おお。お久しぶりじゃの」 「はい。一年ぶりでしょうか。いつも松代屋をご贔屓にして頂いて、ありがとうございます。母がお世話になっております」 「もう、そんなになるかの。すっかり立派な青年になって・・・良う来た、良う来た」 先程の激怒とは打って変わって、相好を崩して自分を見る尭恒に栄は立ち上がり深々と礼を取った。尭智は面白くなさそうに拗ねたような様子で栄と尭恒のやりとりを見つめている。各務は身を屈め、肩を揺らしてまだ笑い続けている様子だった。栄は対照的な二人の姿に首を傾げつつも、幾らか回り始めた頭で持って、先程の懸案事項を思い出した。そして、戸惑いがちに尭恒に話しかけた。 「・・・・あの! ・・・・先程、尭智様からお聞きしたのですが・・・・」 「おお! そうじゃ! この馬鹿者が君に不貞を働いたのでは無いか? 誠に申し訳ない」 「あ、いいえ。それは別として、あの・・・借金の話を聞きました」 「借金? 何の借金じゃ?」 「え? あの? 滋野井のお家の借金の話なのですが・・・」 「? 何の話じゃ? 我が家には資産こそあれ、借金など一文もないぞ?」 「・・・・え? でも、先程、尭智様から滋野井家には莫大な借金があるとお聞きしたのですが?」 栄が訝しげに顔を顰め、尭智を見ながら告げたが、尭智はそっぽを向いて相変わらずの拗ねた様子だ。 尭恒は、それを聞いて栄に負けず劣らず顔を顰め、眉間に深々と皺を刻む。じわじわと広がっていく疑惑を胸に抱いたまま、栄はさらに続けた。 「借金を返す為に、尭智様は男同士の春画のモデルをなさっているとおっしゃいました。その卓の上にあるような絵だそうです。それで、僕にもそのモデルをしろと・・・・」 栄がそこまで言うと、尭恒は老人とは思えぬ素早い動作で卓の上の春画を手に取り、それを見た瞬間。 「・・・尭智っっ!!!」 窓ガラスが震えんばかりの大声で、尭恒は怒鳴った。 「煩いですね。こんなに近くにいるんですから、そんなに大きな声を出さなくても聞こえます」 「おっ、おっ、お前と言う奴は!! とんでもない大法螺を吹きおって!! この痴れ者がっ!!」 再び顔を真っ赤にし、額には青筋を浮かべて怒り出した尭恒を見て、栄は呆然とする。いつの間にか傍らに近づいてきていた各務をぽかんと見上げ、首を傾げた。 「あの・・・・もしかして・・・全部、嘘なんですか?」 呆けた様子で栄が尋ねると、各務はその穏やかな顔に苦笑を浮かべ肩を竦めて見せた。 「申し訳ないね、途中で教えてあげなくて。笑いを堪えるのに必死でね」 少しも申し訳なさそうでない様子で答えられて、栄は自分の中で何かがぷつりと音を立てて切れたような気がした。未だ呆けた状態から抜け切らぬまま、今度は尭智の顔をじっと睨む。尭恒のお説教に耳を塞いでいた尭智だったが、栄の視線に気が付くと耳から手をはずし、満面の笑みを浮かべた。 「申し訳ありません。全て冗談です」 柔和なその顔に浮かんだ顔は自愛に満ち溢れているように見えて、まるで釈迦か如来か、と言った風情だったが、謝罪の色など微塵も浮かんではいなかった。その表情を見、言葉を聞いた瞬間に、栄の中で何かがさらにぶちぶちと音を立てて切れた。 抑えようも無い怒りがぶわっと押し寄せてきて、栄は思わず拳を固めて尭智の左頬を殴りつけていた。気が付いたら、そうしてしまっていた。殆ど、怒りに任せた衝動的な行動だったが、自分で止めることはできなかった。殴り飛ばされた尭智はどすんと後ろに尻餅をつく。栄の行動には、さすがに各務も尭恒も驚いた様子だった。 「ぼっ、ぼっ、僕はっ! 僕はっ! ・・・ぼ、僕は、本当に、ここで勉強することはできないかもしれないって・・・滋野井の家の方達に迷惑をかけているのに、押しかけてきてしまったかと・・・本当に、本当に・・・」 後から後から込み上げてくる感情を抑えきれずに、栄はボロボロと涙を零しながら床に座り込んだままの尭智を見つめる。高ぶった感情の余り、握った拳を元に戻すこともできない栄を尭智は呆然とした表情で見上げていた。 「本当に、尭智様にもご迷惑は掛けられないと・・・僕なりにっ・・・せっ・・・誠心誠意・・・」 それ以上は、ボロボロと流れてくる涙に遮られて続けることは出来なかった。しゃくりあげて泣きじゃくる栄を前に、誰も何も言うことは出来ない。尭恒も各務も、らしくもなくオロオロとその様子を見ているだけだった。 「・・・ひっく・・・っく・・・ぼ・・・僕は・・・こ、このまま・・・っく・・・信州に帰・・・っ・・・す」 これから主となる尭智を殴りつけてしまったのである。元より破門は覚悟の上だった。入門をする前に破門だなんて、門前払いとは正にこの事だと情けなく思いながら栄はそう告げた。 ところが。 「待ってください! 私が間違っていました。本当に、本当に申し訳ありませんっ!」 尭智が勢い良く立ち上がり、痛んだ頬もそのままに泣きじゃくる栄をぎゅっと胸に抱きしめた。 「栄さんが、こんなに純粋で繊細だとは気が付かず、悪戯の度が過ぎてしまいました。本当に反省いたしました。ですから、ですから、信州に帰るなどと言わないで下さい。後生です。お願いします」 必死の形相で尭智に言い募られ、驚いた栄は涙が止まってしまった。抱きしめられたまま、尭智の顔を見上げれば、眉間に皺を寄せ、辛そうな表情で栄をじっと見下ろしている。その瞳に、嘘は見えなかった。 「・・・・栄君。尭智の愚行はわしからも深くお詫びする。だから、信州に帰るなどとは言わんでくれ。そんなことになったら、わしは女将に顔向けできん。野沢にも行けなくなってしまう」 重ねて高恒にも謝罪されて栄は戸惑ってしまう。そもそも、とんでもない嘘を吐かれたとはいえ暴力を振るってしまったのは栄なのだ。 「・・・ですが、僕は、尭智様を殴ってしまいました」 「いいえ。殴られて当然の事を私がしてしまったのです。栄さんには何の落ち度もありません」 「そうじゃそうじゃ。こんな戯け者は何度殴ってもらっても構わんのじゃ。だから帰るなどとは言わんでくれ」 いや、構うだろうと栄は心中では思ったが、二人の必死な様子に少々迷いながらも、結局頷いて見せた。 「・・・良かった」 途端に尭智はほっとした様子で栄を抱きしめていた腕を解く。その嬉しそうな表情を見て、栄の怒りは殆ど消え失せてしまった。尭恒も安堵した様子で、栄の頭をポンポンと一つ二つ撫で、 「おうおう、そうじゃ。一段落付いたところで本家の方に案内しよう。尭智の両親を紹介せねばな」 と、栄を促した。栄は、ちらりと尭智と各務に目をやり、軽く一礼すると促されるまま尭恒の後を追う。 後ろから付いて歩きながら、目まぐるしい一日だったが何とかこの帝都で勉学を続けることは出来そうだと幾らか安堵した。しかし、それと同じくらい、あんな変わり者の主に仕えて大丈夫なのだろうかという不安もあった。 そんな栄の不安を知ってか知らずか。 栄が洋館を後にするのを見届けると、尭智はさも楽しそうな表情でうふふと笑った。 「竹久」 「何だ?」 「当分の間、退屈しないで済みそうですね」 子供が新しい玩具を見つけた時のような嬉々とした表情である。きらきらと目を輝かせている尭智を横目に、各務は呆れたように溜息を吐いた。 「程々にしておけよ。中々育ちのよさそうな、良い子じゃないか」 「ええ、私も大変気に入りました。ですから、可愛がろうと思っているだけです」 (それが相手にとっては迷惑なんだろうが。) そう思いながらも各務はそれ以上は忠言しなかった。言っても無駄だと言う事は長い付き合いで嫌と言うほど分かっている。ただ、栄のあどけなさの残る愛らしい顔を思い出し、その行く末を案じてこめかみを押さえた。 何も知らない栄は、尭恒の後ろを忠実な子犬のようにひょこひょこと付いて行く。これから起こる様々な事など予想だにせずに。 これが栄の受難の日々の始まりだった。 |