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『083:雨垂れ』 ………………………………

 *『不確定Q&A』番外



 パタパタと一定のリズムで雫の落ちる音がする。造りのしっかりしたこの鉄筋コンクリートのマンションの中は、防音を施してあるせいもあって、よほどのどしゃぶりでもなければ、あまり雨音が聞こえない。だが、雨樋を伝い、ベランダに滴り落ちる雨垂れの音だけはくっきりと部屋の中に響き渡っていた。
 突然、なんの連絡も無く訪れてきた二宮響は、来てから今まで何の言葉も発していない。ただ、窓際のソファーに腰を下ろして、ひたすら雨にけぶる外の景色を見つめているだけだ。だから、この部屋は静かで、まるで一人きりの時と何も変わらない。だが、佐原透は別段、その事を気にも留めなかった。
 響の言葉数が少ないことは今に始まったことではない。普段は口を開けば顔に似合わない毒舌を振るう響だが、透と二人のときは必要最低限の事しか伝えない。否。必要なことさえ伝えない。だから、それを言葉ではなく、響の微かな表情の変化や瞳の揺れから読み取ることが透に課せられた一番の命題だったが、出会ってから十年以上が経ってしまった今、それも然程難しいことではない。

 恐らく、こんな響を知っているのは自分だけだろうと透は思う。そういう時に押し寄せてくるのは、どこか仄暗い優越感と満足感、そして、僅かな罪悪感だ。思い浮かぶ顔は、響と面差しが良く似た響の弟。だが、その印象は透から見れば天と地ほども違う。正反対だといっても良い。
 響が複雑な感情を抱えながら溺愛し、執着している弟、二宮奏は恐らく、こんな響を知らないだろうと思う。こういう響を目の前にしたときに感じるその様々な感情を透は時々持て余す。
 基本的に、自分は冷めた人間だと思っていた透に、こんな揺らぎを与えられるのは響だけだ。今だってそうだ。遠くを見つめ、思考の中から透を締め出している響に、ひどく凶暴な気持ちが湧き上がる。だが、それを願って、わざと響はこんな風に自分を無視しているのではないかと透は穿ってしまった。

 この季節の雨はいつも響を駄目にする。以前より大分安定して、見ていてハラハラさせられることは減ったものの、やはりこの時分だけは駄目なのだ。
 ピリピリとした空気を全身にまとって、触れただけで切れそうなそんな危うさを露呈する。響がこんな風になってしまう理由を透はおおよそのところは知っていた。だから、響が何を望んでいるのかも理解している。簡単だ。ただ、響がその脆弱な胸のうちに抱えている傷を抉ってやれば良い。
「泊まるのか?」
 ごく短い言葉で、今日の夜の予定を透が尋ねると、響はふと顔を上げ、今、ようやく透の存在に気がついた、というような不思議そうな表情で首を傾げた。自分から人の家に勝手に来ておいてそれは無いだろうと透は呆れたが、それと同時に響のその表情に見とれた。こういう時の響の顔はどこかあどけない。無防備で、いっそ透の嗜虐心を増長させるほど。
 声は出さず、ただ、コクリと頷いた響に、透は微かな苦笑をもらした。
「カナちゃんは良いのか?」
 答えの予想など容易についていたが、それでも敢えて透が尋ねれば、響はどこか憔悴したような、億劫そうな表情で、
「奏は、今日は帰ってこない」
 と想像したとおりの答えを返した。
「へえ? 郁人君のトコ?」
 分かっていながら尋ねる自分は相当良い性格だと思いながらも、透は聞いてしまう。案の定、響は苦虫を噛み潰したような表情で、
「ああ」
 とぶっきらぼうに答えた。
「それで、俺のトコに逃げてきたって?」
 含み笑いを響に向けながら、透は囲い込むように響の両脇に腕をつく。面白がるように、揶揄するように響を上から見下してやれば、強い瞳で睨み返された。黒目がちで潤んだ瞳は、酷く扇情的だ。響のイメージは猫だと思う。怯えているのを悟られまいと、必死に虚勢を張り、毛を逆立てている気位の高い猫。それを突き崩すのがたまらなく楽しいのだと、うっかりはまり込んでしまったのは、響と出会ってから間もない頃のことだった。そして、それは今でも変わらない。ただ、その突き崩す方法がすっかり変わってしまっただけで。
 男にしてはどこか線の細さを感じさせるその尖った顎に手を掛けて上を向かせる。そしてそのまま啄ばむキスを何度か落とすと、響は鬱陶しそうに透の手を払った。
「よせよ。そんな気分じゃない」
 顔を背けた響の白い首筋に透がわざとらしく殊更ゆっくり舌を這わせると、響の体は敏感にビクリと震えた。そのままソファに乗り上げた膝で響の両腿を割り、ゆるゆると股間を刺激しながら、手はシャツの上から上半身を探る。何度寝たか分からない馴染んだ体の、どこにスイッチがあるのか透は知り尽くしていた。白い二の腕から肘の内側をなぞるだけで響は、ふ、と浅い息を吐き出して溜まりかけた熱を逃そうとした。こう言う時の響の表情と仕草はたまらないと透は思う。伏せた目が尚更密度の濃い睫を際立たせて、それが微かに震えているのを見るのが透は好きだった。
「どこがそんな気分じゃないって?」
 笑い声を耳に吹きかけながら、響の下肢に手を伸ばせば、そこが反応しかけているのが分かる。それを自覚しているだろう響は、悔しそうに下唇を噛み締めていたが、窘めるように透が親指を差し込めば、ン、とくぐもった声が漏れた。これで誘っていないのだといって誰が信じるだろうか。だが、真実、響に誘っているつもりは無いのだ。決して短くは無い年月を掛けて培ってきた翳りが、酷く男の劣情を誘うということを、この気の強い、だがその実、酷く臆病な猫のような青年は未だに自覚していない。そこが響の性質の悪いところだと透は思う。
 響は、それでも透の体を突き放そうと抵抗している。だが、広いソファの上でもみ合いながら、透は手際よく響のズボンと下着だけを蹴落とした。こう言う時に無駄な愛撫だとか、甘ったるいムードだとかは一切必要ない。即物的で、むしろ屈辱的なほうが響は安心するのだ。だから、透は敢えてそういうセックスを響に与えた。
 四つんばいに這わせて、腰だけを高く持ち上げた獣の姿勢で繋がる。ただ挿入する準備のためだけの、等閑な前戯以外は一切与えなかった。それでも響の過敏な体はあっさりと快楽の波に攫われてしまう。殆ど触れていない前が勃ち上がっているのを指摘するように、軽く指先で触れてやれば、物足りなさそうに響の腰は前後にユラユラと揺れた。
「誰がそんな気分じゃないって?」
 それを嘲笑うように耳元で囁いてやれば、煽られた内部が何もかもを搾り取ろうとするかのように引き締まり、瞬間の暴発を透は辛うじて堪えた。響本人は決して望んでいないだろうが、実にこの体は男を唆すに長けていると思う。それが生まれつきの性質なのか、それとも、経験によるものなのかを考えて、透はふつふつとこみ上げて来る憤りのようなものを抑えることができなかった。
「淫乱」
 蔑むように吹き込んだ言葉は、半分はその苛立ちを抑え切れなかったからで、残りの半分は響が望んでいるからだ。特にこんな雨の日は。
 透は唐突にズルリと自身を抜くと、乱暴に響の体をひっくり返し、足を大きく開かせて再び突き入れる。
「ヒッ…アッ! !」
 と、響の悲鳴のような喘ぎが上がったが、構わずその上体を無理やり抱き起こし、響が上に乗る体位を強いた。
「イきたきゃ、自分で動けよ」
 なるべく冷たい口調を装って透が言えば、響は何かを堪えるかのようにぎゅっと瞳を閉じて、首を微かに横に振った。目尻に涙が溜まって光っているのが見える。抱き寄せて、それを舐め取り、ただ、ひたすら慰めて甘やかして慈しみたいという衝動を透は押し殺し、ただ、じっと響の顔を見上げた。
 自分に全くの嗜虐性が無いなどとは言わない。相手の全てを知りたいと言う子供じみた独占欲から、怒った顔や、困った顔や、泣いている顔が見たいと思っていることは自覚しているからだ。だが、透は別段、加虐趣味があるわけでもなければ気持ちを寄せている相手を苦しめたいだなどとは決して思わなかった。セックスに関してだって、至極まっとうで、自分だけの快楽を追いかけるよりは相手を気持ちよくしたい、ただ、身も心も一つになりたいと言う感情のほうがずっと強い。その感情を慈しみ、と言うのだと透は思っているけれど、だが、その気持ちは却って響を傷つけてしまうのだ。
 愛されるに値しない、守られるような価値も無い。響が、そんな風に自分を思い込むようになってしまったのは一体いつからだろう。
 透が思い出せる限りでは、あの雨の日からだ。
 たかだか17歳の高校生に、一体何ができたというのか。響の選択は至極当たり前で、誰にも非難などされるようなものではなかったはずだ。だがしかし、響は、それを途方も無い罪悪のように考えている。他人には不器用な優しさを掛けるくせに、人の弱さには寛容なくせに、響は自分のこととなるとまるで被虐嗜好があるのではないかと疑うほどに厳しく、実現不可能なほど理想像を高く設定する。そして、それと自分とは程遠いと自虐的に自分を責めるのだ。
 透は、その恐ろしいほどに真直ぐで清廉潔癖で、それでいて脆い響の心をもこよなく愛していた。だが、それは口には出さない。出せば、響を傷つけるから。代わりに、
「さっさと動けよ? 男を銜え込むのは得意だろう?」
 と、罵りの言葉を投げつける。切なげに眉を寄せる泣き顔は、酷く艶めいていて透の劣情を煽ったが、それ以上に胸を切りつけるように痛ませた。
 愛しい、という感情はこういうものなのだろうかと思う。暖かく穏やかで優しい感情をそう呼ぶのだと、まだ何も知らない頃は考えていたけれど。

 本当のそれは、泣きたいほどに切なく、胸を痛ませるものなのだと、響を愛して透は知った。











「大学に受かったら、カナちゃん、一人暮らししたいんだって?」
 シャワーをいったん浴びて、どこか無防備な様子でソファにポツンと座りタバコを吸っている華奢な背中に問いかける。
「…何で知ってる?」
 低く問い返すその表情は訝しげで、しかも不機嫌そうだ。そんなことを言えば、尚更嫌な顔をするだろうが、こんな響の不機嫌そうな表情が透は好きだった。感情が比較的素直に顔に出ている証拠だからだ。
「相談されたから。一人暮らしを許してくれるように説得してくれってさ」
 そう言いながら透がくつくつと笑えば、響は予想通り、ますます不機嫌になって眉間に皺を寄せた。それでも、その整った顔は少しも美しさを損なわないと思う。あばたもえくぼ、と言われればそれまでだが。
 不機嫌そうな瞳の奥に、微かな不安の影を読み取り、透は小さくため息をつく。結局、冷酷には徹しきれないのはいつものことだから、早々に種明かしをすることにした。
「この間、うっかりカナちゃんをこの部屋に上げたんだよ」
「奏を?」
 響は、ふ、と顔を上げて部屋の片隅に視線を移す。そして、
「……それでか。お前と一緒に暮らせ、なんて突然言い出したのは」
 呆れたようにこぼした。

 不自然に防音の施された部屋。
 まるでインテリアの一つのように置かれている、不思議な色のアップライトピアノ。
 けれども、ピアノを弾く人間には、それが使い込まれているかどうかなど一目瞭然だっただろう。

 透は確かに音楽評論、特にクラッシックを主とした評論を生業としているし、音楽に対する造詣も深いが、自身は楽器の演奏は全くしない。奏もそれは知っている。
 聡い少年だから、きっとすぐに知ってしまったのだろう。
 決して人前ではピアノを弾かなくなった自分の兄が、この場所でだけそれに触れているのだということを。
 惚れた欲目を抜きにしても、響には飛びぬけた才能があると透は思う。その弟とどちらが上かという優劣は別にしても、プロとしても十分にやっていけるだけの才能があるだろう。だが、この壊れやすい精神ばかりはいかんともしがたい。人前に出すべきではない。
 小さな箱に閉じ込めておいたほうが、より輝く宝石があっても良いと思う。だから、透は響のためだけにこの部屋とピアノを手に入れた。その事を響がどう考えているのかは分からない。
 ただ、時々、ふらりと現れては気まぐれにそれを弾く。その演奏を楽しむことを、透だけが許される。
「一緒に暮らしたら?」
 からかい混じりに透が言えば、響は戸惑ったようにうろうろと視線を泳がせ、
「奏が帰ってくる場所が無くなるからダメだ」
 と、そんなことを言う。
 本当に、この兄弟は、と透は苦笑をもらした。
 実に厄介な兄弟だと、最近は郁人までが透に零す。あんな風にお互いが重度のブラコンな兄弟は見たことが無いと。
 一度は、無理に引き離そうとしたこともある。奏が透に向けてくる、淡い憧れのような感情さえ逆手にとって。奏と接するときに、透が一抹の罪悪感を感じる理由はそれだった。
「まあ、別に良いけどな。気が向いたらいつでもどうぞ? 部屋は余ってるし?」
 ふざけたように透がお茶を濁せば、響はそれには返事をせずに不意に立ち上がる。そしてピアノに近づいて、その蓋を開けた。
「リクエストは?」
 ぶっきらぼうな問いかけは、ただの照れ隠しだ。こういうところが可愛くて堪らないのだと、響自身は全く気がついていないのだろう。
「ショパンの『雨垂れ』」
 と、窓から見える雨の景色を眺めながら透が言えば、
「…お前の、そういうベッタベタな所が嫌いだ」
 と返ってきたので、透は声を立てて笑った。



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