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『081:ハイヒール』 ………………………………

*『泣きボクロ』シリーズ番外A



 露出の高い挑発的な服装、真っ赤な口紅とマニキュア。
 踏まれたら足に穴が開きそうなハイヒールの靴。
 それは全部、わざとなのだろうと指摘したのは蓮川要が二人目だった。


 先にイチコの視線が行ったのは蓮川のほうだった。その蓮川が時々、余程気をつけていなければ気が付かないほどの慎重さで見ていたのが一宮裕太だった。両方ともに恋愛感情など微塵も持っていない。そもそも、イチコは男に恋愛感情を抱く事は不可能だと自覚している。なのに、気が付けば首を突っ込んでついついチョッカイをかけてしまうのは何故なのか。最近では自分でも行き過ぎたお節介だと分かっているのに、ついつい手を出してしまう。
「イチコさんは、自分で思っている程ドライな性格じゃ無いと思いますよ。ただ、賢いから普段はなるべく関わらないようにしてるだけ」
 からかうように笑いながらそう言ったのは長束ユウカだ。その手の店では一応イチコの相手だと認識されている彼女は、同い年なのにイチコに敬語で話す。この間、偶然、別の店で裕太と蓮川に会ったときも二人には敬語で話していたので、そういう育ちなのだろう。ユウカは見た目もお嬢様で、それでいて利発そうに見える。見えるだけでなく、実際利発なのだろう。イチコの通う大学もそうレベルが低いわけでは無いが、そこよりも更に数ランク上の大学に通っており、学部生にしては学会で発表した論文の評価が非常に高い。同じ分野の学生には一目置かれてもいる。だが、そんなユウカとイチコが知り合った場所は大学でも、学会でもなかった。
 二人の出会いの場所が、ウリの待ち合わせ場所によく指定されるようなハッテンバだったと言って、一体誰が信じるだろうか。
 ユウカはとにかく無節操に手当たり次第にウリをしているのでその店では既に有名だった。相手も選ばなければ金額の提示もしない。酷い時は一晩100円でロクでもない男と寝たなどという噂もあった。しかも、二晩とあけずに男を漁りにその店に来る。見た目に反してだらしの無い女なのだろうとしか、イチコは最初思わなかった。取り立てて興味も湧かなかった。
 イチコが噂による偏見ではなく、きちんと自分の目でユウカを認識するようになったのは鉢合わせした店のトイレでユウカがゲエゲエと吐いている場面に遭遇した時からだった。飲みすぎて吐いているのかと思い、放置しようとしたのだが、その横顔を見たときになぜかイチコは苛立ちがこみ上げてきてしまい、思わず、らしくもなく、
「飲みすぎ? それとも子供でも出来たんじゃないの?」
 と軽蔑するように言い放ってしまった。今にしてみれば、それが「同属嫌悪」からくるイラつきだったのだと理解できる。しかし、その時はなぜ自分がそんな言葉を言ってしまったのか理解できなかった。基本的に他人と関わる煩わしい事は嫌いなはずなのに、とイチコはすぐさま後悔した。けれども、ユウカはふと顔を上げ、イチコの顔を見るとあどけない不思議そうな表情を見せた。それから、品の良い笑いを浮かべる。直前までゲエゲエと吐いていたなど想像も出来ない完璧な笑顔だった。
「子供なんて出来るはず無いですよ? だって、私、子宮がないんです」
 言葉の衝撃とは裏腹な屈託の無い笑顔に、イチコは思わず怯んでしまう。
 イチコは年齢が倍の男達ですら小馬鹿にして、手玉にとってしまう。ましてや同世代相手になど決して怯んだ事など無い。だが、イチコはその時ユウカのその笑顔だけで動揺してしまったのだ。思わず、
「そう、それは悪かったわね」
 と謝ってしまうと、ユウカはふ、と鼻を鳴らしてやはりイチコの目を戸惑うことなく真っ直ぐ見詰めた。
「どうして謝るんですか? あんなもの無い方が良いですよ。それと。吐いてたのは癖なんです」
「癖?」
「そう。男の人とセックスした後、気持ち悪くて絶対に吐いちゃうんですよね」
 行動と矛盾した言葉にイチコは思わず眉を顰めた。
「じゃ、なんでウリなんてしてんのよ?」
 イチコが歯に衣着せずズケズケ言えば、ユウカは困ったような笑顔で曖昧に笑った。
「病気なんです。セックスが我慢できないっていう。淫乱症って言うのかな? 男の人は大嫌いなんですけど」
 初対面の人間に何も隠し立てせずに、こんな風に無防備に自分の性癖を語ってしまうユウカにイチコは危うさを感じたが、それよりも強いシンパシィを感じてしまい、肩の力がストンと落ちた。
 男は大嫌い。
 世の中の男なんて全部死ねば良いと思っていた時期がイチコにもあった。だが、それは男に対してではなく、自分に対する嫌悪の裏返しだとイチコは知っている。呆れたような口調で、
「バッカね。それなら女とセックスすりゃいいのよ」
 と言ってやれば、ユウカは一瞬ポカンとした顔をして、それから、急に腑に落ちたように何度も頷いて見せた。
「本当にその通りですね。目から鱗が落ちました」
 それがきっかけで、イチコとユウカはいまでもずっと一緒にいる。





「また、蓮川さんと喧嘩したんですか?」
 穏やかな笑顔を浮かべてユウカが尋ねると、バツが悪そうに裕太はソファの上で膝を抱える。その様子が拗ねたネコのようで、ユウカはおかしそうにクスクスと笑った。
「構う事無いわよ。ユウカ、放っておきな」
「うるせえよ、イチコ。俺が長束さんと飲んでんだから邪魔すんな」
 上目遣いでイチコを睨みつけ、膝を抱えたまま裕太はビールジョッキに手を伸ばす。それでも、ビールを飲み続けている辺り、蓮川が迎えに来るのをどこかで期待しているのだろう。そんないじらしさが可愛くもあり、馬鹿馬鹿しくもあり、イチコはピンと真っ赤なマニキュアに彩られた指で裕太の額を弾いた。
「お邪魔ムシはアンタよ、アンタ。アタシ達が飲んでるところに乱入してきたのはそっち」
「イチコさん、裕太さん苛めたら可哀想ですよ。それに、私は裕太さんと飲むの楽しいですけど」
 そう言って笑うユウカの顔はやはり上品で、どこからどう見ても育ちの良いお嬢様と言った風だ。薄暗い、どこかいかがわしい雰囲気の漂うバーの中では浮いている。だが、本人は全く気にしていない。
「長束さんって優しいよね。なんで、こんな良い子がイチコみたいな鬼クソサド女と付き合ってるんだろう」
 ビールしか飲んでいなくとも、やはり酔いが多少回っているのか裕太は命知らずな事を思わず零す。だが、イチコから鉄拳が飛んでくるよりも早く、ユウカがニッコリ笑って、
「それは私がマゾだからじゃないですか?」
 と答えた。その言葉に裕太は一瞬だけポカンとし、それから何を想像したのか耳まで真っ赤にして黙り込んでしまった。その様子にイチコは呆れ果てる。散々蓮川とエゲツない事をしているだろうに、どうして、いつまで経ってもこんな初々しさを見せるのだろうかと。いつまでもスれない裕太がイチコは不思議でならない。
「で? 何が原因だって?」
「別に」
 イチコが仕方無しに尋ねると、裕太は不貞腐れた可愛げの無い態度で返事を返す。
「ああん? どの口がそんなクソ生意気なこと言うって?」
 裕太の頬っぺたを容赦なく抓り上げて脅すと、裕太は大袈裟にイタイイタイと悲鳴を上げた。
「あんまり、生意気な口利いてるとアンタの恥ずかしい写真研究室でばら撒くわよ」
「何だよ、俺の恥ずかしい写真って」
「蓮川とアンタがハメ撮りした写真」
 ニッコリ綺麗な笑顔を浮かべてイチコがとんでもないことを言うと、裕太は一瞬その意味を考え込み、それから真っ青になった。
「なっ何だよソレ! そんなもん撮った覚えねーぞ!」
「あんたには無くても蓮川にはあるんじゃないの?」
 しれっとして答えるイチコに、裕太はますます顔を青くした。
「…嘘、そ、そんな、い、いつ」
「知らないわよ。ま、アンタが淫乱なのは結構だけど、あんまり蓮川の前で気を失わないほうが無難なんじゃない?」
 ニヤニヤ笑ってイチコが言えば、裕太は信号機のように顔を赤くしたり青くしたり忙しい。そんな裕太の態度を楽しんでいると、カウンターから知り合いに呼ばれ、イチコは仕方なしに席を外した。
 後に残された裕太はイチコに言われた言葉にグルグルとしている様子で、何かを一生懸命思い出そうとしているらしかった。ユウカはその姿を見て、思わず微笑んでしまう。
「多分、イチコさんの嘘ですよ」
「え?」
「イチコさん、嘘つくときちょっとだけ右側の眉が上がるんです。さっき、上がってたからたぶん嘘」
 ユウカが優しい口調で言ってやると、裕太は心底ホッとしたように深々と息を吐き出した。そのタイミングを見計らったようにポンと裕太は後ろから肩を叩かれる。誰かと思って振り返れば、そこには憮然とした表情の蓮川が立っていた。
「浮気してんなよ」
 ムスッとしたまま蓮川が言えば、裕太は拗ねたように頬を膨らませた。
「してねーよ。浮気してたのはそっちだろ」
 裕太は蓮川に背を向けて目の前の水割りを勢い良くあおる。
「してないって。お前も大概しつこいな。あんまり強情だとお仕置きしてやろーか? それともして欲しくてわざと拗ねてンのか?」
「ちげーよ! 馬鹿!」
 途端に顔を真っ赤にした裕太に思わず、ユウカは噴出してしまった。
「仲良いですね。相変わらず」
 笑われてバツが悪いのか、蓮川も裕太も取りあえず言い合いは一時中断することにしたらしい。蓮川が裕太の隣に腰を下ろすと、ユウカは手際よく水割りを作って蓮川の前に差し出した。
「あ、ありがとう。ユウタが迷惑かけてごめん。ってか長束さん、一人?」
「いいえ。イチコさん、マスターに捕まっちゃったみたい」
 言われて蓮川はカウンターに視線を移す。マスターが鼻の下を伸ばしながらイチコと何やら談笑しているのを見て、蓮川は苦笑いを零した。
「犠牲者?」
 苦笑いしたまま蓮川が尋ねるとユウカも困ったような笑いを浮かべた。
「ですね。イチコさん、あの病気は治らないみたいだから」
「まあ、引っ掛かる男が馬鹿なんだけどな」
「でも、マスターマゾッ気あるから丁度良いんじゃないですか?」
「寛大だね」
「私達のは蓮川さんと裕太さんの関係とはちょっと違うから」
「ふうん」
 目の前で展開されている会話についていけず、裕太は不思議そうに首を傾げる。
「何の話?」
 蓮川とユウカは一瞬顔を見合わせ、それから同時に苦笑を零した。
「ユウタには分かんない話」
「分からない方が良い話って言った方が正確ですね。それが裕太さんの良いところだし」
「何だよ、それ。俺だけ仲間はずれなワケ?」
 面白く無さそうに裕太が口を尖らせると、ユウカは肩を竦めた。
「裕太さんは、精神が健全だから。汚れて欲しく無いだけです」
 やはり裕太には理解し難い言葉でユウカは答えたが、裕太はなぜかそれ以上追及する気にならず口を噤んでしまう。
「…イチコもやっぱりそう思ってるのかね」
「と、思いますよ。だから裕太さんのこと気に入ってるんだと思います」
「なるほど」
「蓮川さん、安心しました?」
 悪戯っぽくユウカが笑うと、蓮川はめずらしく困ったような複雑な表情を浮かべた。
「別に、心配はしてないけど。ただ、長束さんがいるんだから、もうイチコもあんな格好止めれば良いのにとは思う」
「まあ、半分はイチコさんの趣味ですからねえ」
「悪趣味だよなあ」
 親密な友人同士のような会話を続ける二人に我慢が出来ずに、裕太は再び、
「だから、何の話なんだよ!」
 と口を挟んでしまう。
「イチコのあの派手な格好が悪趣味って話」
「イチコさん、お化粧もマニキュアも、ハイヒールも大嫌いなんですよ」
 返ってきた答えはやっぱり裕太には理解し難い。首をひねりながら、
「なんで? 歩きづらいから?」
 と明後日の方向に思考を展開すると、蓮川とユウカは同時に笑い出した。
「裕太さんって、やっぱり思考が健康的ですよね」
「ま、それが裕太の良いトコだからなー」
「だからなんなんだよ!」
 なぜ自分が笑われているのか分からずに、裕太は逆切れするかのようにプンプンと怒り出す。
 だが。



「ハイヒールが嫌いなのは、女が履く靴だからだよ」
 蓮川がその日ベッドの中で教えてくれた答えは、やはり裕太には理解できない答えだった。



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