『075:ひとでなしの恋』 ……………………………… |
[1] 都築基が始めて二宮響に出会ったのは都築が17歳、響が7歳の時だった。 尊敬し、半ば無理矢理に弟子入りさせてもらっていたピアニスト、二宮克征の息子として紹介されたのだ。 初めて響を見たときの感想は、随分とキレイな子供だな、と言うことだった。顔立ちはどちらかと言うと母親似で、鼻の形や耳の形のパーツパーツは父親似。両親の良い部分を取って集めたような子供だと都築は感心したものだ。 少し会話をして、次に大人びた利発な子だという印象を持った。行儀がよく、頭の回転も早い。落ち着いた態度を取っているのに、少し照れたようにはにかんだ笑いを浮かべるその姿はあどけなく、どちからといえば子供は嫌いな都築だったが、響に対しては好感を抱いた。 「人に教えるのも勉強だよ。都築君、うちの子にピアノを教える気はないかな?」 面白がるような表情で克征に言われた時に、戸惑いながらもそれを了承したのは、そのせいもあったのかもしれない。 一介の学生でしかない都築が教えるよりも、すでにピアニストとして認められている克征が教えた方が響の為には良いのではないかとも思ったが、そう言えば、克征は悪戯っぽい笑みを浮かべて、 「俺じゃダメなんだよね。親バカでさ。褒める事しか出来ないからって、響のほうから三行半つきつけられたんだよ」 と答えた。ピアノを演奏している時の凛とした姿からは想像できない様な目尻を下げたその笑顔を都築は、年上ながら微笑ましいと思った。響はペコリとお辞儀をして、 「都築先生、よろしくお願いします」 と挨拶する。もちろん、都築はそれまで生徒など持った事が無かったから、『先生』と言う響きに照れ臭いような、どこかくすぐったいような気持ちを感じながら、その初めての小さな生徒と握手をしたのだった。 幾ら大人びていても、所詮は子供。可愛らしいものだ。 そんな風に響を捉えていた都築だったが、すぐにその考えを改めなくてはならないのだと悟った。 初めてのレッスンの日。とりあえず好きな曲を弾いてみなさい、と言った都築の前で響はリストのラ・カンパネラを弾いてのけた。それは到底7歳の子供の演奏だとは思えないものだった。研ぎ澄まされたガラス細工のような鋭さと繊細さ。二宮克征の演奏をそのまま髣髴とさせるような完成度だった。だが、どこか線の細い儚さの様なものを感じさせる。それが奇妙な艶となって聞き手を惹きつけていた。だが、伸び伸びとした子供らしさに欠ける。 これは、酷く難しい生徒を引き受けてしまったと都築は少しだけ克征を恨めしく思った。上手に伸ばせば、個性的な魅力的なピアニストに成長するだろう。しかし、その分、方向性を見誤ればそのまま潰れてしまう可能性も高いタイプの生徒だと思った。上手く才能を伸ばして上げられれば問題ない。だが、導く方向を間違えてしまったら? そう考えて、何度かレッスンした後にその責務から降りようかと迷った。けれども、響の方はどうやら都築を教師としていたく気に入ったらしく、全幅の信頼を湛えた澄んだ瞳で頼ってくる。 響は確かに大人びてはいたが、決して擦れた所など無く、素直な真っ直ぐな子供だった。注意をすれば、何も疑うことなく『はい』と素直に聞き入れて、熱心に練習してくる。逆に褒めてやれば、白い頬を微かに赤くして、はにかむように嬉しそうに笑うのだ。その表情を見ていると、克征が親馬鹿になってしまう気持ちがとても良く分かってしまう都築だった。自分に子供ができたとしたら、こんな風に可愛く感じるものなのだろうか、と思った。 結局、そんな風に迷っているうちに数ヶ月が経過して、長く教えれば教えるほど情も移り、都築は腹を括る事にした。もしも、自分が上手に響の才能を伸ばして上げられなかったならば。その時は、自分が責任を取ろうと。何をどうするか、と具体的に考えていたわけではない。ただ、漠然とそんな覚悟を決めた。 だが、そんな都築の決心など子供の響に分かるはずなど無く、ただ純粋に響は都築に懐いてくるのだった。 都築が響の教師になってから半年ほどした頃だろうか。いつもはレッスン中に集中している響が、注意力散漫でミスタッチを繰り返した事があった。5度目のミスタッチをした所で都築がストップをかけ、 「響? 何か心配事でもあるのか? 集中していないなんてらしくないね?」 と尋ねると、響はどこか興奮したような表情で都築を見上げた。それから、暫く逡巡した後、 「先生。僕、お兄ちゃんになるんです」 と答えた。都築はその言葉の内容よりも、珍しく語尾を荒くしている響の興奮具合の方に驚いてしまった。もしかして、弟が出来る事により両親の愛情が薄れるのではないかと心配しているのか、そうでなければ怒っているのかと、都築は最初考えた。だが、そうではなかった。 「僕、僕お兄ちゃんになるんです」 もう一度、同じ言葉を繰り返してから響はニッコリと笑った。鮮やかに花が開くような笑顔だったと、都築は今でもその笑顔を鮮明に記憶している。子供ながら、その笑顔に思わず見惚れてしまい、それから、はっとして都築は頷いて見せた。 「それは良かったね」 「はい。僕、ずっと弟が欲しかったからできれば弟がいいなあ」 「それで今日は注意力散漫だったんだな」 「…ごめんなさい。あんまり嬉しかったから」 そう言いながら少しだけしゅんとした顔を見せた響の頭を都築は優しく撫でた。 「良かったね。おめでとう」 そうお祝いを言ってやれば、響はやはり嬉しそうに綺麗な笑顔を見せたのだった。 ピアノの面においてだけではなく、響は都築を教師として、時には父親のような兄のような存在として随分と慕っていた。プライベートな事もレッスンの合間に良く話した。悩み事を相談される事も時々あって、その度に、都築は可愛らしい悩みにアドバイスをしてやった。総じて響は優等生で、決して蓮っ葉な、あるいは小生意気な事など言わない。弟が出来てからは、さらに拍車が掛かったのか、 「お兄ちゃんになるんだから、もっとしっかりしなくちゃいけない。もっと大人にならなくちゃいけない」 と自分に言い聞かせていたようだった。その背伸びをしている姿さえ都築には可愛らしく見えて、半ば都築は響の父親にでもなったかのような気持ちになっていた。 響にレッスンをつけるようになって二年。間に都築の音大受験が入り、数ヶ月ほどレッスンを休んでいた期間もあったが、その数年間が、一番、響が伸び伸びとした子供でいられた期間だったと都築は覚えている。そして、それは都築にとっても最も純粋で美しく蜜月のような時間だった。 悲劇は、二年後に起きた。響の父親で、自分のピアノの師である克征が不慮の事故で亡くなってしまったのだ。響が9歳、弟の奏が2歳の時の事だった。 取るものもとりあえず、通夜に駆けつけた都築は今でもその時の響の顔が忘れられない。響は決して泣いてはいなかった。9歳の子供らしからぬ礼儀正しい態度で、通夜に訪れた弔問客に挨拶をしていた姿が逆に痛々しくて都築の脳裏に焼き付いてしまったのだ。母親の深雪の方がむしろ、堪えきれずに感情のまま泣き崩れていた。もちろん、2歳の奏には訳が分からないようで、沢山の人に怯えたように母と一緒に泣き喚いていた。 葬式、納骨までが一段落した頃に響は一人で香典返しの品を持って都築の家を訪ねてきた。その時も響は決して涙を浮かべてはいなかった。何かを堪えるような痛々しい笑顔を浮かべて響は都築に儀礼的な礼を述べ、それから、 「残念ですが、先生のレッスンをこれ以上受けることが出来なくなりました」 と伝えてきた。都築はそれに酷く動揺してしまい、なぜかと響を問い詰めた。何のことは無い。大黒柱である父親が亡くなってしまったのだ。母親の深雪は克征と結婚する前は歌手としてバーで働いていたらしいが、その時は専業主婦で、経済的に二宮家が逼迫しているのは想像に難くなかった。恥じ入るように、 「レッスンのお金が払えませんから」 と俯いた響を都築は衝動的に抱きしめていた。 小さな、頼りない子供の体。 その時、都築はまだ学生で成人すらしていなかったが、ただ、無心にこの小さな子供を支えてやりたいと、父親の代わりになってやりたいと掛け値なしの気持ちで思った。 「お金なんて要らないんだよ。響がピアノを弾きたいと思ったり、何か悩み事ができたらいつでも来て良い」都築が響を抱きしめたままそう言えば、響は声を押し殺すようにしゃくり上げて泣き始めた。 それは、2年間響を見守ってきた都築が、初めて見た涙だった。 [2] 響のピアノが翳りを帯び始めたのは、丁度その直後だった。父親の演奏をコピーしようとしているかのように、背伸びをするようになったのだ。その癖、どこか窮屈そうで、子供らしい伸びやかさが全く無くなってしまった。何度、都築がそれを軌道修正しようとしても心理的な面から影響しているものを技術で直せるはずもなく、響の演奏は、都築に言わせれば『技術は随分と高いが、何の面白みも魅力もない演奏』になりつつあった。 今になって考えてみれば、響は父親になろうとしていたのだろうと都築にも想像できる。 家族を支える一家の主としての父親、奏にとって拠り所であるべき父親、そして、どこか不安定になってしまった母親の縋る相手としての父親。その全てを十歳にも満たない子供が無意識のうちに担おうとしていたのだ。 当然、そんな事は不可能な事で、無理がたたって歪みが出始める。それは響の精神のあちこちを破綻させ始めていたが、人生経験も浅く、未熟な都築にはそれを悟ることは出来なかった。 まるで、時計の針を強引に逆回転させようとしているかのように、響には子供らしい伸び伸びとした演奏をする事を強要し続けたのだ。 響が本当に求めていたのは『子供らしさを押し付けられること』ではなく、ただ、響が背負うには重過ぎる荷物を少しだけでいい、代わりに持ってくれることだったのにも気が付かずに。 それでも、響は都築に対する信頼を失うことなく、必死で都築の言うことを実現しようと努力はしていたのだ。しかし、精神的にバランスを崩している子供が健全に伸びていくはずもない。 次第に、響はあどけなさや屈託の無さを失い、作り笑いと嘘の上手な『優等生』へと変わって行ったが、都築との関係はかろうじて保たれていた。響が思春期に差し掛かり、都築に対して素っ気無い態度を取るようになっても、レッスンだけは欠かさずに通っていた。 都築は順調に音大を院まで修了し、不定期ながらプロのピアニストとしても活動するようになり始め、忙しさにかまけてレッスンが等閑になることもあったが、響は不満一つこぼさなかった。 都築の中では響は出会った時の子供のイメージのままだったが、それが大きく変化するようになったのは、丁度、響が高校に入学した直後のことだった。 それまで、技術だけは確実に伸びていたが、どこか方向性を見失っていた響のピアノが変化し始めたのだ。鮮やかな色を見せ、それとともに子供らしからぬ強烈な艶の様なものをその音色に乗せ始めた響に、都築は正直驚いた。一体、何事が起こったのかとそれとなく探りを入れてみたが、別に特別なことは無いと響は素っ気無く答えただけだった。もしかして恋人でも出来たのだろうかと問い詰めてみれば、 「彼女はいますけど、でも、付き合い始めたのは半年以上も前ですよ?」 と苦笑しながら答えた。いつのまにか、響に付き合う相手がいたということに都築はなぜか、酷いショックを受けた。もう16歳なのだから、彼女がいてもおかしくない年齢だ。だが、都築の胸中にはぐずぐずとした澱の様な感情が生まれてしまった。 響に恋人がいる事が気に入らないのか、それとも、それを自分に話してくれなかったのが気に入らないのか。自分の事ながら都築には判断できなかった。 だが、直感的に、響のピアノを変え始めたのはその付き合っている相手ではないだろうと思った。そして、その直感を響の言葉が裏付けた。ピアノの調子が良くなるのと比例して、響はどこか解放されたかのように都築に対しても比較的、何でも話すようになったが、そこに良く、とある友人の名前が出てくるようになったのだ。その友人が響のピアノを変化させたのだろうと都築は推測した。 その少年の名前は『佐原透』と言った。 響と透が知り合ったのはなんと、高校の屋上で隠れて喫煙していたのを見られてしまったのがきっかけだったらしい。響にその話を聞くまで都築は響が喫煙することを全く知らなかった。そう言えば響は、決まりが悪そうに、 「言えば咎められると思ってましたから。でも、家じゃ吸わないから母も奏も俺が煙草を吸うことは知らないと思いますよ」 と苦笑いを浮かべる。 「学校でも、俺が煙草を吸うことを知ってる奴はいなかったんです。普段は誰かに見つかるようなヘマはしてなかったんですが」 たまたまその時は、鬱屈がたまっていたらしく、授業をサボって屋上で喫煙していたらしい。響の通っている高校はそもそも進学校で、授業をさぼるような輩はそういない。しかも、響はその中でも成績優秀、品行方正な優等生で通っているので誰も響が授業をサボったり、喫煙しているなどとは思っていないようだった。 だが、そんな響の喫煙現場に出くわした透は驚きもしなかったという。ただ、俺も吸って良いか、と事も無げに尋ね、そのままぼんやりと一緒に屋上にいただけだった。 透は不思議な男なのだと響は語った。穏やかな雰囲気で成績も優秀。教師の信頼も厚く、どちらかと言えば優等生の枠に入るのだろうが、決して堅苦しくない男だと。響が目の前で喫煙しようが、飲酒をしようが、決して咎めることなど無く、さらりとそれを受け入れる。 「…アイツの前だと『良い息子』や『良い生徒』や『良いお兄ちゃん』を演じなくていいからとても楽なんです」 安堵した表情で響がポツリと漏らした言葉を聞いた瞬間、都築はこの目の前の生徒をメチャクチャにしてしまいたいと言う激しい衝動に駆られた。そして、そんな自分に酷く動揺する。その衝動の根幹が、子供じみた醜い『独占欲』だと言う事に気が付いた瞬間、都築は同時に自分が『頼りない子供』だと侮っていた少年が決して『子供』などではなくなっていることにもようやく気が付いた。 決して子供などではない。 いつの間にか高くなった身長にすらりと伸びた細い手足。整った顔はどこか翳りを帯びて誰彼と無く誘うような色香を匂わせている。 あどけなさなど欠片も残していない、大人びた、けれどもどこか不安定な部分を抱えているその生徒は、いつのまにか男としての都築を奇妙に惹き付けるようになっていたのだ。 小さな頃からピアノを手ほどきし、見守り、支えてきた響。いつの頃からか彼は都築の知らない間に恋人を作り、新しい世界を広げ、安らげる場所を見つけていたのだ。そして、その場所は都築の腕の中では無いと言う。 都築は激しい嫉妬にかられながらも、自分の立場を十分にわきまえていたので、その感情を巧妙に隠して見せた。響の前では『完璧な教師』を演じようとした。しかし、一度自覚したものを無かったものになどできるはずもない。響がアルバイトでピアノを弾き始めた事も相まって、次第に都築と響は衝突が絶えなくなっていた。 せっかく良い方向に向かい始めている響のピアノをそのまま伸ばす為には、『金のために弾く』と言う行為はマイナスにしかならないと思ったから執拗にアルバイトに反対したのだ。だが、いくら都築が言っても響はアルバイトを止めなかった。響の家庭を経済的に支えているのは母親の深雪で、しかもその職業はレストランバーでの歌手と言う不安定な水商売だ。響がその過ぎる責任感から少しでも稼いで家計を助けようとするのは当たり前のことだった。 それを知りながらも、やはり、都築はピアニストとしての響にこだわっていたので、煙たがられようとも、まだ金の為にピアノを弾くには早すぎると言って聞かせた。本物のピアニストになってからいくらでも金を貰って人前で弾けば良いと。 しかし、響はそれには、 「俺は、別にピアニストになるつもりはさらさらありませんから」 と答えた。どこか痛いところを我慢しているような、それでいて何かを諦めきったような複雑な表情を浮かべて。その言葉を聞いた瞬間、都築は頭の中が真っ白になった。次いで激しい感情が胸の中を支配したが、それを無理矢理押し殺して、 「…そうか。それならば何も言うことはないよ」 と冷たく切り返した。響ははっとしたように一瞬だけ都築の顔を見上げ、泣き出す直前のような顔をする。その表情が記憶の中の子供の響と重なった。一度だけ見た事のある泣き顔とオーバーラップするそれ。 けれども、それはあくまで一瞬のことで、次の瞬間に響は見事なポーカーフェイスをその顔に刷いて見せた。 後で一人になって都築は冷静に考えた。そして、自分を襲った激しい感情が憤りであるという事に気が付き、なぜそんなにも激しく怒りを感じたのか自分に問うた。 響が納得しているのなら、たとえ響がピアニストの道を断念したとしても、仮にピアノ自体をやめたとしても都築が口を出すべきではないのだ。ピアノを止めることで響が楽になり、幸せになるのならばそれを認めてやらなければならない。 それなのに、どうしても都築にはそれができなかった。 なぜなのか。 何のことは無い。自分と響はピアノを通して繋がっている。響がピアノをやめたならばその繋がりはあっさりと切れてしまうだろう。都築はそれが我慢ならないと無意識に感じたのだ。 それに気が付いた時、あまりの馬鹿馬鹿しさに都築は一人大笑いした。自嘲的な気分で笑い続けながら、そのどうしようもなく歪んで、自己中心的な恋情を蹴り飛ばした。 自分は一体何を響に求めていたのか。出会った時の子供らしい純真さやあどけなさを求め続けながら、親の無償の愛情とは程遠い独占欲で縛りつけようとしている。いずれ響は都築のこんな感情に気が付き、窮屈になって逃げていくだろう。それとも、強引な方法で無理矢理自分が響を狭い世界に閉じ込めてしまう方が先か。 危うい感情を持て余したまま、それでも表面上は当たり障りのない師弟関係を続けていく。ピアニストになる気は無いと言いながらも、響はピアノを止めるつもりはないらしく、一度たりとも都築のレッスンを休むことは無かった。 細い糸の上を綱渡りするような危うい、不安定な関係。 すぐそこまで破綻の日が近づいていた。 [3] その日は珍しく、響がレッスンを休ませて欲しいと電話で連絡してきた。風邪で体調が悪い時以外に響がレッスンを休んだことは無いので、都築は響の体調を心配したが休みの理由を響は決して言わなかった。 ただ、電話を通したその声は酷く塞いでいて、ともすれば泣いているのではないかと思わせた。どうしたのかと都築が尋ねようとする前に、電話はあっさりと切れてしまう。 結局、折り返し掛けた電話も繋がることはなく、都築は釈然としない気持ちを抱えたままその日一日を過ごした。夜になり、やはり気になってもう一度電話を掛けてみたが、出たのは母親で、その日は朝から出かけたきり今の今まで帰ってきていないという話だった。 一体、どこに言っているのだろうかとぼんやり窓の外を眺める。夕方から降り出した雨は随分と激しくて、屋根を叩きつける雨音が都築の神経に障った。こんな雨の中、どこをうろついているのか。心当たりなど全く無かったが、それでも心配になって探しに出かけようとした矢先だった。 ピンポーンとインターフォンが鳴り、慌てて出た玄関には、これから探しに行こうと思っていた響本人が立ち尽くしていた。雨に濡れたらしくびしょぬれで、それよりも都築を驚かせたのはその表情だった。 まるで、迷子になった子供のような頼りない顔でぼんやりと都築の顔を見上げてくる響。目元が濡れているように見えたが、それが雨なのか、涙なのか都築には判別が付かなかった。 「こんな夜分遅くに申し訳ありません」 寒さのせいか、すこし震えた声で響は謝った。一体どうしたのかと尋ねる事も憚られて、都築は響を家に上がらせ、着替えを用意してバスルームに押し込むと、母親に事情を伝える電話を入れた。 バスルームから上がり、温まって落ち着いたように見える響はそれでも頑なで、それとなく都築が促しても何かを話そうとはしない。貰ったホットミルクのカップを手持ち無沙汰に、何かを誤魔化すように弄り回しながら自分の爪先ばかりをじっと見詰めていた。 とうとう根負けした都築が、 「無理に事情を聞いたりしないから、とにかく今日はゆっくり休みなさい」 と告げて客室を後にしようとした時になって、ようやく響はのろのろと顔を上げる。都築の顔を見ているようでいながらも、どこか遠くに思考が飛んでいるような焦点の定まらない黒目がちの瞳。微かに潤んでいるそれはまるで誘われているかのような錯覚を都築に与えた。 だが、響の口から零れた言葉は決して甘いものなのではなかった。 「…先生。ピアノを…やめようと思うんですが」 ポツリと響の口から零れた言葉の意味を、都築は最初、理解できなかった。訝しげに眉を顰め、じっとベッドに座ったままの響を上から見下ろすと、響は、やはり焦点の定まらないどこか不安げな表情で、 「もう、レッスンにも来ません」 と続けた。内心酷く狼狽しているはずの都築だったが、 「どうして、急に?」 と問い詰める声はなぜかひどく冷めた落ち着いた口調に聞こえた。 「……俺にはピアノを弾く資格は無いと思うので」 「だから、なぜ、そんな風に思うんだ?」 責めるように都築が問えば、響はその時になって初めて視線を都築に合わせた。唇を噛み締め、悲しみとも怒りとも、絶望とも付かない表情を浮かべている。 「…ピアノをやめたくなかった。…ピアニストになりたかった。音大に進学して、ピアノを続けたかっただけなのに!」 響は搾り出す悲鳴のような、悲痛な口調で唐突に吐き出した。寒さからか、それとも興奮からか紅潮している頬を一筋の涙が伝う。それを隠そうとして響はとっさに両手で顔を覆った。 一体、何があったのか都築にはさっぱり分からない。だが、両手で顔を覆い肩を震わせて泣いている響を放っておく事など出来なかった。膝を落とし、響の体を強く抱きしめながら、その細い肩をトントンと叩いてやる。 「…それならば、そうすれば良いじゃないか。音大に進学してピアニストを目指す。どうしてそれじゃ、ダメなんだい?」 優しい口調で都築が尋ねれば、響は両手で顔を隠したまま激しく首を横に振った。 「…俺は醜い。自分の事しか考えてない。『良いお兄ちゃん』なんて嘘っぱちだ。だって、奏が悲しんだりする事より自分の方が大事なんだから!」 らしくもなく冷静さを失い、ここまで感情的に泣いた響を都築はその時まで一度しか見た事が無かった。確かその時も響は同じ事を言い出したのだ。頼りない、小さな子供の顔で、 「レッスンをやめようと思う」 と。不安定で、今にも壊れてしまいそうな響を強く抱きしめ続けながら、都築はやはり、ピアノを続ければ良いと言った。けれども響は決して首を縦には振らない。 「俺は知ってた。梓さんが悩んで苦しんでた事も、郁人がいなくなれば奏が悲しむ事も」 響の口から語られた固有名詞を都築は名前だけならば知っていたが、その人物達と響の間に何があったのか全く把握していなかった。だから、具体的に響が何にそれほど苦しんでいたのかは分からなかった。しかし、響が酷い自己嫌悪に陥っているということだけは分かった。 ただ、頑なに自分にはピアノを続ける資格が無いとそれだけを繰り返す。 「ならば、とりあえず音大に進学しなさい。その後で、ピアノをやめるのか続けるのかを決めても遅くは無いはずだ」 都築が何とか響を引きとめようとしてそう告げると、その時になって響はようやく顔を上げて都築の顔をじっと見詰めた。泣き濡れて、潤んだ黒い瞳と真正面から目が合って都築はギクリとする。決して、響にはそんな意図があるわけではないと分かっていても、まるで誘われているような落ち着かない心境に追いやられた。 追い討ちを掛けるように、響は口元を上げて自嘲的な笑みを浮かべる。泣き濡れた瞳で笑うその表情は、まるで男を誘う性悪な娼婦のそれの様だと都築は思った。 「音大になんて…いけるわけが無い。そんなお金は家にはありませんよ。仮にあったとしても、それは奏を悲しませて手に入れた金だ。俺のためになんて使えるはずが無い」 吐き捨てるように、まるで自分自身に怒りをぶつけるかのように響は言う。都築はそんな響の激しさに躊躇しながらも、 「ならば、私がお金を出しても良い。私が響の為に援助した金ならば問題ないだろう?」 と提案する。響の内側で起こっている葛藤の本質を全く理解しないままなされたそれは、都築と響の関係を決定的に破綻させてしまう言葉だったのだと微塵も気が付かずに。 響は、ふっとその顔から笑みを消し去る。感情を全く読ませない無表情をその顔に刷いて、暫くの間、ぼんやりと都築の顔を見上げていたが、唐突に肩を震わせ、声を押し殺して笑い始めた。 「そうですね。問題ないですね。でも、タダでお金を出してもらう訳にはいかないので……」 そこまで言いかけて再び顔を上げ、都築の顔を真正面から見詰めた響の瞳には、今度こそ間違いなく蠱惑的な色が浮かんでいた。 「先生。俺の体、買ってくれませんか?」 はっきりとした口調で言われたその言葉は、決して震えてなどいなかった。鮮やかな響の笑顔は隠しようもなく暗い翳りを帯びている。それはどこか投げやりな退廃的な美しさを醸し出していた。 頭の中で響の言葉を反芻し、都築は自分がどうしようもない過ちを犯してしまったのだと思った。しかし、それを取り戻す術は無い。 このまま無かったことにすれば、響はあっさりとピアノをやめて都築との関係は次第に遠くなり自然消滅してしまうだろう。反対に、その言葉を受け入れたならば不毛な泥沼に突入してしまうのは火を見るよりも明らかだった。そして、都築は瞬時に後者を選んでしまったのだ。 どんなに不毛で、救いようの無い関係に堕ちてしまったとしても響との関係が繋がっていた方がまだ耐えられると思ったのだ。 「…分かった。良いだろう。全部脱ぎなさい」 冷たい声でそう都築が言い放てば、響ははっと我に帰ったように顔色を青くする。 「……先生?」 「君が自分で言ったんだ。それとも私が脱がせた方が好みなのか?」 そう言って乱暴に響の着ていた衣服を剥ぎ取りベッドに押し倒す。響は、戸惑った様子を見せはしたが決して抵抗しようとはしていなかった。後ろ手に響の腕を拘束して尻を高く上げさせると、他の箇所への愛撫など一切施さずに、後ろだけを解しにかかった。 都築はそれまでも決して聖人君子のような生活を送ってきたわけではない。女も男も、適当に遊んできた。だが、恐らく響は男とは寝たことは無いだろうと直感的に都築は予測した。そして、その予測どおり響の体は男とのセックスには全く不慣れだった。未開の場所を的確に刺激されて、前を触られてもいないのに達した時には、恥も外聞も無くしゃくりあげて泣いた。 けれども、そんな状態になっても決して響はやめてくれとは言わなかった。抵抗もしなかった。都築は長い時間をかけて響を蹂躙し、ようやく挿入を果たした時に唐突に悟った。 響はただ、汚れたかっただけなのだ。自分を罵倒して、お前は最低の人間だと責めて、メチャクチャに扱ってもらいたかっただけ。その相手は別に都築である必要など無い。それこそ、その辺を歩いている行きずりの男でもきっと構わなかったのだろう。都築をその相手に選んだのは、たまたまその場所に居合わせたからに過ぎない。 そんなどうでも良い相手に自分を選んだ響に都築は言い知れぬ怒りと悲しみを覚えた。その救いの無さに絶望する。この綺麗な体を手に入れた代わりに、一体、自分はどれだけ多くのものを今この瞬間に壊してしまったのか。 乱暴に響を揺さぶりながらその顔を盗み見れば、声を押し殺し、何かに必死で耐えている殉教者のような表情を浮かべていた。その顔がいつかの響に重なる。 嗚呼、そうだ、響の父親が死んだ時、泣くのを堪えていた時の顔と同じなのだと思い当たれば、都築の胸は切り裂かれるような痛みを感じた。 一体、どこで何を間違えてしまったのだろう。 利発であどけない、まっさらな笑顔を浮かべていた幼い頃の響。その笑顔を守ってやりたいと、ただ無心に願ったあの純粋な気持ちは嘘ではなかったはずだ。 どうしようもない。 もう、二度と戻れるはずも無い。 これは、ただひたすらに暗闇の中でもがき続けるしかない、ひとでなしの恋なのだと、響の中で果てながら都築は思った。 |