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『068:蝉の死骸』 ………………

 じりじりと容赦なく照り付ける太陽を浴びながら、一巳は車庫のシャッターをガシャンと下ろした。大分長いこと使われていなかったのだろう、車庫の中は随分と埃っぽく、しかも夏の熱気のせいでムッとしていた。
 ずっと車の冷房の中にいたので、さすがにこの暑さはこたえる。しかし、空気が澄んでいる分だけ、今まで自分が生活していた都会よりも多少マシのような気もした。
 それにしても、この辺りはさすがに蝉の声がすごい。すぐ近くにはブナの原生林があるし、自宅の庭にも何本かの雑木が残っている。蝉が生息する場所には事欠かないのだろう。
 未成年がたった一人で管理しているせいか、庭は大分荒れた印象になっていた。
 花壇の雑草は伸び放題になっているし、沈丁花や雪柳の枝も伸び放題だ。その中で、向日葵が存在を主張するかのように無秩序に咲き乱れている。そして、家へと続く石畳の上にはいくつもの蝉の死骸が転がっていた。それを見て、一巳は眉を顰める。蝉の死骸くらい掃除をすれば良いのに、と思いながら、いや、そんなことに頓着するようなヤツではなかったと、小さな溜息を一つ落とした。
 『ただの死骸だろ』
 いつだったかの夏に、一巳がうっかりとそれを踏み潰してしまい、何となく気持ち悪がっていると一巳の四つ年下の弟、修二はあっさりとそう言った。
 『別に生きているのを踏み殺したわけじゃない、死骸なんてゴミと一緒だ』
 と。
 自分が神経質なのか、それとも修二が無神経すぎるのか一巳には分からない。いずれにしても、修二には昔から、そんな無頓着な所が多々見受けられた。そんな事を思い出しながら、ついついぼんやりしていたのだろう。
「一巳」
 後ろから低い声で呼びかけられて、一巳ははっと我にかえる。慌てて後ろを振り返れば、一人の男が立っていた。その影が、一巳に襲い掛かるかのように被さっている。一瞬、逆光で目がくらんだが、男の姿を認めた途端、一巳は無意識に息を飲み込んでしまった。そこに立っていたのは見知らぬ大人の男だったからだ。いや、見知らぬはずはない。この家で14年間一緒に暮らしてきた弟なのだから。
 けれども、その時の一巳には、そこに立っている修二が、まるで赤の他人のように思えた。
 一巳が最後に修二を見たのが4年前。その時16だった弟も、今年で20歳になる。一番、成長して変化を遂げる時期なのだから、一巳が修二を見間違えるのも仕方が無いのかもしれなかった。けれども、一巳には、目の前の男に弟の面影を一片の欠片さえ見出すことが出来なかった。一巳の中の修二は、屈託の無い笑顔を浮かべて「兄ちゃん、兄ちゃん」と子犬のように自分の後を追いかけてくる子供の姿のままだ。だが、今、目の前に立っている男は、どこか翳りを宿した、ともすれば奇妙に成熟した男の色気を纏ったようにも見える立派な大人だった。その目には、あどけなさなど全く残っていない。何かを見透かして切り付けるような剣呑な光を感じ取り、一巳は本能的に、じり、と一歩後ろに体を引いた。その瞬間、グシャリと嫌な感触が足の裏でして、一巳は思わず顔を顰める。自分の足元を見下ろせば、案の定、蝉の死骸をその足で踏み潰していて、何ともいえない嫌な気持ちになった。
「何だよ?」
 不意に顔を歪めた一巳に、修二は訝しげに眉を顰める。
「蝉。踏んだ」
 一巳が短く答えれば、修二は小馬鹿にするようにフンと鼻を鳴らして、
「ただの死骸だろ」
 と、やはり昔と同じ言葉を投げて寄越した。
「良いから、さっさと家に入れよ。暑かっただろ」
 4年のブランクなど感じさせないような、自然な口調で修二は告げる。まるで、同年代の友人に話しかけられたかのような違和感を感じて一巳は一瞬躊躇したが、仕方無しに、修二の後に続いた。
 蝉の死骸を避けて道を選ぶ一巳とは対照的に、修二は、何も頓着しない様子でグシャグシャと蝉の死骸を踏みつけながら石畳の上を歩いて行く。その無神経さが一巳はどうにも気になった。無神経、と言うよりも何かが麻痺して壊れている。まるで、この家と夏の暑さの狂気に侵食されているかのように。そんな馬鹿げた考えを振り払うかのように、一巳は軽く首を振った。
 この家を狂気に追いやった人間は、もはや存在しないのだ。一巳を追い詰める脅威も。
 下らない感傷だと自分に言い聞かせて、一巳は四年ぶりに実家の敷居を跨いだ。



「一巳の部屋、寝れねーぞ」
 居間で麦茶を飲みながら、一休みしていると、修二が唐突に告げる。訝しげに眉間に皺をよせ、
「どうして」
 と一巳が問えば、修二はぶっきらぼうに、
「お前の部屋、今、物置になってる。帰ってくると思ってなかったし」
 と答えた。一巳は小さな溜息を一つ吐く。自分の部屋が勝手に物置にされていたとしても、一巳に文句を言う権利などありはしない。何もかもを放棄して、まだ高校生だった修二ただ一人をこの家に残して逃げるように都会に進学してしまったのは一巳だ。
「じゃ、居間で寝る。余ってる布団くらいあるだろ?」
 修二は面白く無さそうに頷いただけで、声は出さなかった。まるっきり無口で無愛想になってしまった弟を扱いかねて、一巳は所在なさげに汗をかいたグラスを弄り回す。西日が傾き始めた庭では、これでもかと言わんばかりに蝉が姦しく鳴き喚いていた。

 居心地の悪さと、奇妙な浮遊感。

 本当に、自分は今この場所にいるのだろうか。これは夢なのではないか。そして、目の前の男は本当に自分の弟なのか。4年前までは日常だったこの場所が、今では完全な非日常で、一巳の現実感を薄れさせる。夢の中にいるかのような不思議な感覚が、一気に一巳を4年前に連れ戻そうとする。まるで何かを飲み込もうとするかのように。そうはさせまいと、一巳は無意識にギュッと拳を握り締めた。
 ただの錯覚だ。
 この場所はとうに危険な場所では無くなったはずだ。必死で自分に言い聞かせている一巳を、仄暗い目で見詰めている修二に、一巳はついぞ気がつくことは無かった。






 荒い息遣いの合間に、名前を呼ばれる。それは「一巳」であったり「由香里」であったりした。「由香里」は死んだ母の名前だ。一巳が10歳の時に癌で急逝した母。病弱な体質で、真っ白い顔にほっそりとした体の華奢な女性だったと一巳は記憶している。一巳や修二に惜しみなく愛情を注いでくれた母だったが、どこかしら儚くて不安定な印象が拭いきれない女性だった。いつか、もしかしたら、今日にでも消えてなくなってしまうのではないか、そんな不安を周囲に抱かせてしまうような。その不安定さが、父の精神を知らずのうちに侵食していたのだろうか。
「由香里、由香里」
 と呼び続けながら、父は腰を激しく振る。グチャグチャと言う粘膜が立てる嫌な音を聞きながら、一巳は必死に声を押し殺していた。声を上げてはいけない。修二が気がついてしまうかもしれないから。
「由香里・・・一巳、一巳」
 時折、思い出したように名前を言いなおす父。必死にシーツにしがみ付きながら、気がつけば一巳の前は完全に勃起していた。扱かれたわけでも無いのに、すっかり尻で快感得ることが出来るようになってしまっていた。それが、言い知れぬ絶望感を一巳に与える。
 自分を犯しているのは血の繋がったれっきとした実の父なのに。
 自分は、女のように感じている。どうしようもなく、自分が汚れて、堕落してしまったような気がした。父も狂っているが、自分も狂っている。
 声が漏れないように、目の前の枕に噛み付きながら、一巳は二階で寝ているはずの弟を思った。修二だけがこの家の中で正常だった。それを壊してはいけない。知られてはいけない。父に犯されている時、一巳を狂気の世界から繋ぎとめているのは唯一修二の存在だけだった。
 だが、唐突に、襖が開かれてその茶番は終演を告げる。
「何をしてる!」
 尋常ではない修二の怒声が居間に響き渡る。父親を受け入れたまま、一巳は硬直し、一ミリも動く事が出来なかった。軽蔑したように自分を睨みつける修二の目。悲しげに、絶望を湛えた歪んだ表情。



 ハッとして、一巳は目を覚ます。周囲は未だ薄暗く、夜だというのに庭からは蝉が狂い鳴きしている声が聞こえた。体を起こして枕もとの時計に目をやれば、まだ深夜の2時を示している。夢か、と安堵の溜息を漏らして一巳は額の汗を腕で拭った。
 居間で寝ていたのが悪かったのかもしれない。この部屋は、生前の父が寝室に使っていた部屋だった。そもそも、父が死ぬまで修二に二人の関係が露見した事などないはずなのに、なぜ、今になってあんな夢を見たのだろうか。あの夢のように、修二が部屋に踏み込んでくるのをずっと恐れていたからだろうか。
 あれほど一巳を苦しませ、悩ませた父との狂った関係は4年前にあっさりと終わりを告げた。酒に深酔いした父が、そのまま車を運転して事故を起こして死んでしまったのだ。父親の死に涙を零さなかった一巳を、修二はどう思ったのだろう。けれども、やはり修二も父の死に涙を見せることは無かった。病院に安置されている父の死体を見るときに、酷く恐れていた一巳に向って、感慨の無い声で、
「ただの死骸だろ」
 と言い放った修二の言葉が、今でも変に印象に残っていた。

 もう一度、寝なおそうかと体を横たえようとした時に、不意に一巳は人の気配を感じた。襖一枚隔てた、そのすぐ隣に誰かがいる。微かな息遣いと衣擦れの音。そこに修二が立っていると、一巳は感覚的に察知した。水を飲みに来たのかもしれない。あるいは、居間に何か必要なものでも取りに来たのかもしれなかった。
 だが、一巳はにわかに緊張した。じっとりと手の平が嫌な汗をかく。
「…修二?」
 小さな声で呼びかければ、静かに襖が開き、修二がその姿を現した。何の感情も窺わせない無表情で、一巳に近づいてくる。一巳は本能的な恐怖と戦いながら、何気ない口調で、
「何か用事か?」
 と尋ねた。
「何で戻ってきたの?」
「え?」
「何で戻ってきたんだよ。馬鹿なヤツだな。戻ってこなければ、こんな目にあわなくてすんだのに」
 それだけ言って修二は、一巳の体を布団の上に静かに押し倒した。乱暴さなど、欠片も見せない静かな所作のせいで一巳は修二の真意を図りかねる。だが、パジャマのボタンを外されて、明らかな意図を持って胸元を探られた段になって、さすがに修二のしようとしている事を理解した。
「しゅ…修二?」
 戸惑いがちに、その体を押し返そうとしたが、いつのまにか自分よりも体格の良くなってしまった弟を力で抑えるのは無理のようだった。
「一体、何を…?」
 一巳が身じろぎ、混乱する頭で尋ねれば、修二は翳りの宿った仄暗い顔で笑った。
「一巳が親父とヤってるのを見ながら、どうして、そうしているのが俺じゃないのかってずっと思ってた」
 笑いながら紡がれる言葉に、一巳は頭がついていかない。自分の弟は一体、何を言い出したのかと呆然としているうちに、手際よく全ての衣類は一巳の体から剥がされていた。
「俺が気がついていないと思ってたんだろう? 知ってたよ、もう、昔からずっと」
 耳元で囁かれる声は、狂気のような暗さを孕んでいるのに、酷く穏やかで優しかった。重なってくる裸の胸は、一巳よりも少し体温が高いのか、暖かく感じる。みっしりと筋肉質な感触は、明らかに父親とは違う若い男のそれだった。
「…修…二?」
 何もかもを理解しているはずなのに、感情がそれを拒絶する。これは、夢ではないのかと一巳は、やはり戸惑いがちに修二の体を押し返そうとその肩に触れた。
 庭では、蝉が相変わらず姦しく狂い鳴きしている。その下には、無数の死骸が無造作に転がっているのだろう。
「親父が死んだのは事故じゃない」
 一巳の胸元に顔を寄せたまま、修二はやはり穏やかな声で告げた。
「え?」
「事故じゃないんだよ。一巳は知ってたか? 酒と一緒に服用しちゃ行けない薬がある。それを飲ませて、一巳が事故にあったって言ったら、馬鹿みたいに慌てて、ヨロヨロしながら出て行った。傑作だったけどな」
 酷く丁寧な愛撫を一巳の体中に施しながら、修二はあっさりと告げた。それを聞いた途端に一巳の頭の中で何かがパチンと弾ける。目を背けていた様々なピースが綺麗に嵌っていくのが自分でも分かった。

 どこかで、自分はそれに気が付いていたのではないか。そして、それから逃げようとして家を出たのではなかったか。

 自分の中で自分を責める声がする。あどけない弟だと思っていた修二。だが、その表情が次第に影を帯び、暗い情欲のこもった目で自分を見詰めるようになったのは、決してつい最近のことではなかったはずだ。4年よりも前から、一巳はそれに気がついていたが、気がつかない振りをして必死に自分を保っていたのではなかったか。狂ってしまわないように、ただひたすらに修二に自分の都合を押し付けて。
 守ろうとしていた修二は、とっくのむかしに壊れてしまっていた。
 修二を踏みつけにして、壊したのは父親だったのか、それとも一巳だったのか。
 あるいは、修二が一巳を踏み荒らして蹂躙したがっていたのか。

 修二が踏み散らかした蝉の死骸が目に浮かぶ。それが自分の姿に重なり、修二の姿に重なった。

 修二に踏み荒らされたのが自分なのか、自分が踏み散らかしたのが修二なのか。
 もう、一巳には分からない。




 ただ、修二に抱かれながら聞こえた、狂ったような蝉の声だけが耳にこびり付いて、いつまでも離れなかった。




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