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『062:オレンジ色の猫』 ……………

 ベランダで歯磨きをしていたら、遠くの空に流れ星が見えた。どうやら、僕達の家の方に落ちたみたいで、僕は歯磨きをやめにして急いでパジャマを着替える。
「ハル? どうしたんだ?」
 鷲尾さんが少しだけ眉を顰めて、またかと言うような顔をする。僕は、そんな彼を放っておいてガタガタとクローゼットの奥からケージを取り出すと、
「オレンジ? オレンジ!」
 と、猫を呼ぶ。なぜオレンジと言う名前なのかと言うと、色がオレンジだからだ。僕が初めてオレンジを拾ってきた時にそう言い張ったらアキも鷲尾さんも、どこがオレンジだ、コレは茶トラだろうと言ったけれど、茶色よりも少し明るいこの猫は、遠くから見るとオレンジに見える。誰がなんと言うとオレンジに見えるのだ。
 何を言われても僕が頑として言う事を聞かなかったので、結局、アキも鷲尾さんも諦めたみたいで、この猫の名前は『オレンジ』に定着した。
「オレンジ、入れ。家に帰るよ」
 そう言いながら少し嫌がるオレンジを半ば無理やりにケージに詰め込む。鷲尾さんはそんな僕の様子を諦めたように見ていた。鷲尾さんは仕事から帰ってきて、まだお風呂に入っていなかったからすぐに出かけられるような格好だ。
「今日は、生活費払うんじゃなかったのかい?」
 少しだけ呆れたような顔で言う。お金を、世話になっている鷲尾さんの家に入れられない代わりに、時々、僕は体で生活費を払っているのだ。でも、僕はすぐに家に帰らなくちゃ。きっとアキが待っている。流れ星を拾って砕いて、お風呂に浮かべて僕を待っているはず。
 わずか4歳にしてサンタクロースなんて本当はいないんだと生意気な口調で笑い、僕の夢を打ち砕いてくれたリアリストの癖に、アキは、時々、思春期の少女も真っ青なメルヘンチックな事を言う。流れ星(正確には隕石だ)を拾って、砕いてお風呂に浮かべたらどんな感じだろうと。もしかしたら、お風呂の中でキラキラと光るかもしれないと。
 地上に落ちた時点で、それはただの石ころと同じになっているんじゃないかと僕は思うけれど、反論するとアキは逆切れするので敢えて僕は何も言わない。
「明日! 明日、倍にして払うから!」
 そう言って下駄箱からスニーカーを取り出す。ボロボロのスニーカーは2年前にアキが誕生日プレゼントとして僕にくれたものだ。だから捨てられない。
「倍って? 朝までベッドの中でも構わないって事?」
 鷲尾さんは眼鏡を掛けなおしながら、悪戯な表情でそんな事を言う。でも、その言葉は冗談でもなんでもなくて、半分は本当のことだ。鷲尾さんのセックスは、かなり意地悪でしつこい。見た目は淡白そうに見えるくせに、一回りも年下の僕よりもずっと絶倫だと思う。でも、最後のほうは僕もあんまり気持ちが良くて、訳が分からなくなってオンナノコみたいな声を上げながら腰を振ってるらしいけど。
「それでも良いよ。さっき流れ星がウチの方に落ちたんだ。アキが帰ってきてるかもしれない」
 靴の紐を結び終えて、僕がオレンジの入っているケージを手に立ち上がると鷲尾さんは少しだけ寂しそうな、悲しそうな笑い顔を浮かべて
「そうだね」
 と相槌を打つ。そして、自分も革靴に足を入れて僕の背を優しく押してくれた。


 夜の暗闇の中、ホームに滑り込んできたオレンジ色の電車に乗る。昼間は平日だろうが休日だろうが人でいっぱいの電車も、こんな時間は割とすいていた。鷲尾さんのマンションから、僕達の家まではこのオレンジの電車で一本だ。
 残業を終えて帰る人たちは、どこか、みんな疲れたように見える。静かな社内に、電車のブレーキの音だけが響き渡るのを僕はぼんやりと聞いていた。鷲尾さんは僕のすぐ隣に立ったまま、口を開かない。コレは、いわば儀式のようなものだと鷲尾さんは知っているからだ。
 一見、愚かで無駄なことに見えるこの行為も、僕には意味がある。


 14の冬だった。二人で施設を飛び出した。何の当ても無かった。ここにしようと、根拠も無く降り立った初めての駅を僕は『コクリツ? 』と読んでアキに笑われた。コクリツじゃない、クニタチだ。国分寺と立川の間にあるから、一字ずつ取って国立になったんだと教えてくれた。アキは何でも知っていた。賢くて、大人びていて、僕はそんなアキが大好きだった。愛も恋も僕の全てはアキのものだったと思う。けれども、そう言えば、アキはいつだって、どこか寂しそうな顔で笑って僕を抱きしめた。
 ハルは幼い。感情がまだ未分化なんだとアキは難しい事を言った。植物で例えれば、それはいわば土の中からようやく頭だけを出した芽のようなものだと。それはそのうち、茎を伸ばし、枝になり、葉を茂らせて様々に派生していくだろうと。『好き』には色々な好きがある。愛情の種類も、恋も一つじゃないんだよと。
 けれども、その時の僕は一種類の『好き』しか知らなかった。なぜなら僕の世界にはアキしかいなかったし、僕の『好き』は、アキにしか向けられていなかったからだ。
 アキは僕の大好きな笑顔を浮かべて、ハルの愛は確かに未分化だけれどそれは穢れの無い、キラキラと光る流れ星の欠片のようなものだと言った。それを全て自分が貰うのはひどく誇らしくて、そして恐ろしいことだ。けれども、忘れないでくれと。その芽が育ち、枝になり、葉を茂らせてもそれは素晴らしいことなのだ。その枝の一房を別の誰かに向けることは、間違いではない。
 でも、それは本当に間違いじゃないのだろうか? その誰かが、ただ一人、アキが恋をした人だったとしても?
 僕には未だにその答えが分からない。
 そもそも、アキも鷲尾さんも、なぜ形の無い感情に境界線を引きたがるのだろうか。

 アキは、僕を愛していると言った。けれども、鷲尾さんに恋をしているのだと。
 鷲尾さんは、アキを愛していると言った。けれども、恋は僕に向かっていると。

 アキは僕達の生活を支えるために14歳の時から様々な男と寝てきたけれど、結局、鷲尾さんと寝たことは一度としてなかった。僕は、アキに絶対に許してもらえなかったから体を売ったことなど一度も無かったけれど、アキがいなくなってからは、ずっと鷲尾さんと寝ている。そこに潜む矛盾を考えるたびに、僕は途方にくれて袋小路にはまり込む。

 オレンジの電車は夜の中をひた走りに進み、たいした時間も置かずに目的地に僕らを運んでくれた。ケージの中で、オレンジがミャーと暢気に鳴く。古巣に戻ってきたことが分かるのかも。僕らは無言で電車を降りる。家に向かって歩いている時も、何も言わなかった。
 たどり着いた家は、ひょんなことから身寄りの無いおじいさんが僕達にくれた家だ。木造で、大分古くて、小さな家だけれど、僕とアキにはここが一番のお城だった。二人でいた時は、鷲尾さんが三人で一緒に暮らそうと何遍言おうとも絶対に離れることは無かった。
 街灯の下から見た家は、やはり真っ暗で持ち主の不在を示している。アキは帰ってきていないらしい。帰ってくるはずが無い。僕だってそれは十分知っている。理解しているのだ。アキの死を受け入れていないわけでもない。けれども、僕にアキの亡骸を決して見せなかったのは鷲尾さんだから、僕がこんな風にアキを探しに行くことを鷲尾さんは決して止めないし、咎めない。
 これは儀式のようなものなのだ。アキへの僕の愛を目に見える形に表すための。そうでなければ、僕は何かを見失ってしまいそうだから。





 オレンジが飛び出したのが原因だった。心配して探しに行こうとした僕をアキは止め、代わりに自分が行くからと夜遅く出て行った。僕がプレゼントした決して高価ではないジャケットを羽織って。先に寝ていろよと笑ったのが、最後に見たアキの姿だった。
 アキは帰ってこなかった。アキを僕に見せられないほど酷い姿にしてしまったのは、まだ未成年の複数の少年だったらしい。身よりも無い、半ば浮浪者のような僕とアキだった。事件は酷く等閑に、少年達の罪は笑ってしまうほど軽く終わってしまった。僕は最初途方にくれ、それから深く嘆き悲しみ、その後、沸々とこらえ切れない怒りと憎悪が湧き上がって来た。アキをそんな風にしてしまった奴らが許せなかった。殺してやろうと思って、その少年達を探したのに、誰一人としてまともな姿では見つからなかった。
 変死したり、精神的におかしくなって病院に入ってしまったり、行方不明になったりしていたからだ。その不自然さに僕は呆然としていたけれど、ふいに、その時に鷲尾さんの顔が思い浮かんだ。だから、鷲尾さんに何かしたのかと聞いたのだ。
 けれども、鷲尾さんは答えてはくれなかった。ただ、笑って、とても冷たく笑って、
「俺が怒っていないと思っていたのかい? 大事な愛する人を奪われて?」
 と言っただけだ。だから、僕は本当の事は分からない。
 その頃から僕は鷲尾さんと一緒に暮らしている。鷲尾さんと寝るようになったのもその直後のことだ。

 僕達は三つ並んだパズルのピースのようなものだったのだと思う。真ん中がアキ。ピッタリと隙間も無く綺麗にはまっていたピースは、けれども真ん中を失って酷く収まりの悪い形に転落してしまった。それでも、鷲尾さんは僕に恋をしているのだと言う。愛しているとも言う。僕の愛も恋も、全てはアキのものだと、僕の答えはいつでもそれだけだ。それでも鷲尾さんは僕の隣にいる。なんて愚かな人なんだろうと思う。けれども、もっと愚かなのは僕なのだろう。



「やっぱり帰っていないね」
 鷲尾さんが穏やかな静かな声で言う。
「そうだね。今日は、帰って来る気分じゃなかったのかも」
「そのうち、帰ってくるかもしれないよ」
「うん」
「風邪を引くといけないから帰ろうか」
「うん」
 僕は素直に頷いて、鷲尾さんと手を繋いで駅へと引き返す。



 一度だけ、オレンジがキョトンと家のほうに目を向けて、ミャーと暢気に鳴いた。



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