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『060:轍』 ……………………

 『すみませんが、お暇な時にお時間をいただけませんか』
 と二宮響から都築基に電話が掛かってきたのは、二年ぶりに再会してから三日経った日の午後のことだった。
 都築は、新しく企画されているピアノCDのための練習をしながら、つらつらと、今付き合っている三つ年下の恋人と、どう別れようかと不謹慎極まりないことを考えている最中だった。最近、どうも束縛がきつくなってきて、辟易していたところだったのだ。そこに響の電話だ。都築がらしくもなく、浮かれてしまったとしても仕方が無かっただろう。
「珍しいこともあるね。響の方から誘ってきてくれるなんて」
 と、都築は上機嫌のまま、からかうように言った。
 『奏のことで、相談したいことがあるので』
 と、響は努めて冷静な声で答えたようだったが、都築には苦虫を噛み潰している響の顔が思い浮かんで、どうにも笑いを堪えることが出来なかった。
「相変わらずのブラコン振りだな。まあ、良いだろう。いつが良い?」
 あまり苛めすぎて、折角あちらから接触して来てくれたのをふいにするのも馬鹿馬鹿しい。からかうのは程ほどで止めて都築がそう尋ねれば、響は、暫く考えた風に沈黙し、それから、
 『今週末はお暇でしょうか? 』
 と、遠慮がちに尋ねてきた。今週末は恋人と約束している。だが、都築はその予定をあっさりと頭の中でデリートすると、
「ああ、暇だ」
 と事もなげに答えた。
 『それでは、行く前に電話をしますので、お邪魔させて頂いてよろしいでしょうか? 』
 と、事務的な口調で問われ、都築は一瞬言葉を失った。それから、思わず、と言った風に苦笑を漏らす。
「君は、今、例の親友とやらと恋人なのではないのかい?」
 『……ええ? そうですが、それが何か? 』
 都築の言わんとしている真意を全く汲み取らず、響は、それがどうしたのだと、純粋な疑問をその声音に乗せていた。
 響は酷く敏い青年だと都築は思う。他者の痛みに酷く敏感で、酷い時はそれを自分で背負い込もうとさえする。自虐癖があるのかと思うほどだ。だが、殊、自分の向けられる好意というものになると酷く鈍くなる。否、或いは好意そのものを無視しようとするのだ。それが意識的なのか、無意識のことなのか未だに都築には計りきれないが、いずれにしてもこの鈍さはいかんともしがたい。
「私の家に来るのが、どういう意味か分かっているかい? それとも、2年前まで来るたびにしていたことを忘れてしまったのか?」
 わざとトーンを落とし、密度の濃い声で都築が尋ねると、さすがに響は黙り込み、それから、バツの悪そうな声で、
 『すみませんが、外で待ち合わせをして頂けますか? 』
 と、言い直した。
 都築は思わず噴出して笑ってしまう。それが気に入らなかったのだろう。酷く不機嫌な声で、
 『後程、場所と時間を連絡します』
 と響は言い捨てると、電話を一方的に切ってしまった。まるで、拗ねた子供だ。恐らく、響が自分を苦手だと思っている最大の理由はこういうところなのだろうと、都築は想像する。だが、仕方が無い。都築は、響が七歳の時から十七年間、見続けてきたのだ。幾ら、響が大人になって、一人前のつもりでいても都築には色々なものが見えてしまう。そして、都築が見えていることを響は知っているから、尚更居心地が悪いのだろう。

 都築が響に向ける感情は実に複雑だ。
 父性愛のような無償の愛情、師弟愛のようなピアノを挟んだ感情、そして、いっそ飼い殺しにして独占してしまいたいという醜い部分を含んだ恋愛感情。それらがないまぜになって、絡み合い、どうにもならない泥沼関係に陥ったのが7年前。そして、響がプロのピアニストになることを諦めたことがきっかけで、その泥沼関係を清算したのが2年前だった。それ以来、都築は響とは接触せずに来た。何かが、響の中で決着するまでは、こちらから連絡はとるまいと、心に決めていた。だが、不思議と、響との繋がりが切れるとは思っていなかった。切れるはずが無い。二年間会わなかっただけで無くなってしまうような、簡単な繋がりではなかった。きっと、それは響も分かっているのだろう。
 都築は今年で34歳を迎えたが、さすがに、若い時のような激しさはなりを潜めてしまった、と自分でも思う。上手に消化できたのかはともかく、それでも、今は、響の幸福を願う、穏やかな感情が一番大きい。
 だから週末、響の顔をすぐ近くで見て、都築が一番最初に感じたのは安堵だった。

 不安定さと、繊細さと、精神的な脆さは、そもそも響の生まれつきの性質で、大きな欠点でもあり、同時に最大の魅力でもある。だから、やはり、二年ぶりでも、響はそこかしこに、未だに揺らぐ何かを残してはいたが、自分を傷つけることでしか自分の存在を許せなかった時のようなあの痛々しさは殆ど感じられなかった。むしろ、大分落ち着いて、安定しているようにさえ見える。それが、年を経て成長したからなのか、それとも、すぐ隣に支える人間の存在があるからなのか考えて、都築は少しだけ腐ったような気持ちになった。
 しかも、響の口から零れるのは以前と変わらず、弟の名前ばかりなのだ。
「…ですから、身内贔屓ではなく、奏がプロとしての資質があるのかどうか、先生にお聞きしたかったんです」
 真剣な顔で訴える響の綺麗な顔を、久しぶりにじっくりと鑑賞しながら都築は、
「なるほど」
 と煙草をふかしながら、おざなりな返事をした。
 二年前までは、会えば条件反射のように、それはそれは激しいセックスばかりしていた(もちろん取って付けた様にピアノのレッスンもしていたが)相手のはずだ。それなのに、この色気の無さは何だと都築は思う。そして、そんな事を考えている自分が、まるで、恋愛初期の中学生か、高校生のようだと気がついて、自分自身に呆れ果てた。自嘲気味な溜息を一つ零すと、都築は、真剣に考えているような表情を作ってみせる。答えなど、最初から出ていた。だから、音大を受験したいと言った奏のレッスンを引き受けたのだ。見込みの無い生徒など、ドライな性格の都築がどうして取るというのか。だが、もちろん、それを響に教えたりはしない。
「レッスンで聞いているだけでは何とも言えないね。実際に人前で演奏しているところを聞いてみないと。そういえば、奏は、今でもレストランバーでピアノを弾くバイトを続けているそうだね?」
「はい」
「それを聞いてみないことには判断しかねる」
「それなら、聞きにきてください」
「響が付き合うというのなら、考えてもいいが?」
 少しばかり意地悪な笑みを浮かべて都築が言えば、響は暫しの間、ウロウロとらしくもなく動揺したように視線を泳がせ、それから、
「…では、次の奏のバイトの時にでも夕食をご一緒します」
 と、観念したように答えた。一緒に食事など、響にとっては居心地の悪いことこの上ないだろうに、と都築は思わず笑ってしまう。だが、響は都築を嫌ってはいる訳ではない。むしろ、慕っている。それは響の表情や、声音や、空気から簡単に察することができた。そうではなく、居心地が悪い。
 恐らく、響の弱さも、醜さも、愚かさも、大よそ、響の負の部分を一番見てきたのは都築だ。それだけは自信を持っていえる。響が意識的にしろ、無意識的にしろ、何もかもを一番曝け出した相手は今の恋人ではない。だから、尚更、居心地が悪いのだろう。
「夕食だけか?」
 と、からかうように都築が尋ねれば、響は暫し沈黙し、それから、困ったような表情で、
「先生がそれ以上を望まれるのであれば」
 とバカ正直に受け入れた。こう言う所は全く変わっていない。自分自身の価値を響は全く認めていない。いくらでも投げ出せる価値の無いものだと頑なに信じているのだ。そして、弟のためならば、実際、自分自身を平気で投げ出すのだから、手に負えない。
「奏がそれを聞いたら、さぞかし悲しむだろうな」
 だから、都築はチクリと釘を刺す。響は叱られた子供のように唇をキュッと噛み、俯いて自分の膝の辺りを睨みつけた。少しばかり、苛めすぎたかと、都築は苦笑を漏らして席を立つ。
「ただの冗談だがね」
 何が、冗談だったのかはぼかしてそっと響の肩を叩き、店を出るよう促した。

 店を出ても、そのまま別れてしまうのが惜しくて、都築は決して自分から言葉を切り出さない。響もタイミングを計りかねているのか、結局、二人並んでブラブラと街中を歩く羽目になった。まるで、デートのようだな、と都築は自分でも馬鹿馬鹿しくて笑ってしまうような純情な事を考える。そう言えば、二人でこんな風に出歩くのは何年ぶりだろうか。複雑な泥沼関係に陥る前は、時折、響に付き合って一緒に出かけ、レッスンに向いている楽譜を探したりもしていたのだ。あの頃は随分と平和で、穏やかだった。
 だが、都築は、その頃に帰りたいとは思わなかった。互いにひたすらもがき続けただけの5年間が、無駄だとも思わない。あの5年間があったからこそ、今の穏やかさがあるのだ。
 何となく言葉が見つからず、沈黙したまま並んで歩いていると、ふとどこからか、ピアノの音がもれ聞こえてくる。すぐそばにある楽器店でピアノの展示会が開かれていて、そして、デモ演奏が行われていたのだ。
 自由にお試し下さい、と、何台かのピアノの前に張り紙が表示されている。それを見て、ふ、と都築は思い立った。
「響。あそこに行って演奏してきなさい」
 以前の、響の師だった時の口調で都築は唐突に命令した。響は、何を言われたのか一瞬分からなかったのか、立ち止まって、え? と、首を微かに傾げた。だが、すぐに、都築の言わんとしていることを理解し、その綺麗な眉を顰めた。
「ピアノを続けているんだろう?」
 それは確信だった。最後の日。別れた時に、響はピアノを止めると言った。だが、都築には分かっていた。響がピアノを止められるわけが無いと。ピアノというものは、二宮響という人間を形作る必要不可欠な要素の一つなのだから。
 響はじっと都築の目を真正面から見つめ、それから逡巡するように一旦視線を地面に落とし、最後には何かを思い切るかのように軽く首を横に振って、もう一度都築の顔を真直ぐに見つめた。
「はい。続けています」
 と響は答え、
「君との師弟関係は終わっている。だから、これは命令ではない。ただの『お願いだ』。響。君の今のピアノが聞いてみたい」
 と、都築は、断っても、失礼には当たらないし、先程の響のお願いとも別の話だと暗に知らせる。響は、だがしかし、視線を逸らすことなく、
「わかりました」
 と、承諾すると一台のピアノの前に腰を下ろした。そして、ラ・カンパネラを演奏し始める。それは、響がまだ幼いとき、初めてのレッスンで、初めて都築に弾いて聞かせた曲と同じ曲だった。

 町中に響き渡る、教会の澄んだ鐘の音。
 何某かの祈りや願いを髣髴とさせるような、それは、訴える力に満ち満ちた演奏だ。

 響のピアノは美しかった。恐ろしいほどの透明感と、二年前までの演奏では決して感じ取れなかった、解放された伸びやかな艶がそこにはあった。
 それは、都築に純粋な感動を呼び覚ます。
 才能のある子供だと思っていた。だが、繊細すぎて子供らしさに欠ける難しい生徒だとも。押し寄せる重圧と、自責の念が響のピアノを押しつぶし、ダメにしてしまったのだと都築は思い込んでいたけれど。
 歩いていた通行人が、一人、二人と足を止める。展示会の中にいた人たちも、気がつけば、一様に、ただただ響の姿を食い入るように見つめ、そのピアノの音に耳を傾けていた。
 今まで聞いてきた響の演奏の中で、一番素晴らしい演奏だと都築は素直に思った。
 ピアノを止めたと言い、実際、人前で一切演奏しなくなったことが、逆に響を解放することになったのだとしたら、それは余りに皮肉だ。過去の自分が、過去の響が憐れに思えて、だが、それ以上に、こみ上げる切なさに近い幸福感に都築は浸った。

 それ、を何と呼ぶのか都築はしらない。
 ある人は父性愛と、ある人は師弟愛と、またある人は恋だ、と名前をつけるのかもしれない。
 だが、名前など、どうでも良いのだ。
 例え、ここで生き別れ、死ぬまで二度と会うことが無かったとしても。
 自分と響の繋がりは、絆は、決して切れることなど無いのだ。
 切ることなど出来るはずがない。


 ピアノ、という無機質な、命を持たないただの楽器。


 だがしかし、それを介して、自分と響は一生繋がり続けるだろう。
 都築は、そんな確信を胸に抱き、響のピアノを聴きながら、そっと静かに目を閉じた。



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