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『057:熱海』 ………………………………

 *『泣きボクロ』シリーズ番外B



「なあ。風呂行かないの?」
 露天風呂から戻り部屋のドアを開けた途端、目に入ってきた光景は裕太が部屋を出る前と全く同じだった。窓際に置いてある一人がけのソファに座ったまま、蓮川は何かの本を真剣に読んでいる。
「ん。もう少ししたらな」
 返ってくる言葉は酷く素っ気無い。宿についてから、ずっとそうだったので、裕太は少しばかり面白くない気分になっていた。
 二人きりの旅行ではなく単なるゼミ旅行、という色気の無いものだけれど、それでもいつもと違う状況なのだから少しくらいは楽しめば良いのに、と根が単純な裕太などは思う。だが、蓮川は相変わらず飄々とした態度を崩さない。
 部屋割りは公平なくじ引きで決めた。それでも、偶然にもせっかく蓮川と裕太は同室になったのに。そんな些細な事で浮かれているのは自分だけなのだろうか、と裕太は、少々惨めな気持ちで、既に仲居が敷いてくれた布団にゴロリと転がった。大の字に寝たせいで、浴衣の裾が大きく捲れたが、当然、裕太はそんなことを気にするはずも無い。男なのだから当たり前だ。当たり前だが、些か警戒心に欠ける。
 蓮川はチラリと、そんな裕太を視界に入れ、微かな苦笑いを浮かべた。
「お前、もう、部屋出るなよ」
 そして、そんな横暴な事を言う。
「何でだよ? これから卓球しようって谷畑達が言ってたのに」
「ダメ。行くな」
 一方的な言い分に、裕太はムッとした顔で上半身を起こす。少し離れた位置から蓮川を睨みつけたが、蓮川は再び本に眼を落として、裕太の睨みをさらりと流してしまった。
 こういう時の蓮川には何を言っても蛙の面になんとやら。短くは無い付き合いで熟知してしまっているので、裕太は、なんだかなあと思いながらも、再びドサリと布団の上に転がった。
「……それにしても、なんで熱海なんだかなぁ」
 返事など期待していない。ただ、何となく呟いてみただけだったが、蓮川は律儀に返事を返して寄越した。
「イチコの嫌がらせだろ」
 あっさりと蓮川は正しい答えを口にする。何の巡りあわせなのか、今年、ゼミ旅行係りに当たったのは、研究室の女帝と名高いイチコだったのだ。行き先は熱海、観光スポットは秘宝館とバナナワニ園、と嬉々として発表されたとき、研究室の誰も彼もが眉間に皺を寄せた。だが、嫌だとは誰も言わない。言えなかった。言ったなら、どんな仕打ちが待ち受けているか、馬鹿でなければ容易に想像がつくからだ。
「去年なんて、優雅に軽井沢だったのにさー。大体、いくらハタチ過ぎてるつっても、ゼミ旅行に秘宝館行くってどうよ?」
「そうか? 面白かったけどな。色々勉強になったし」
 と、蓮川は悪戯な笑みを浮かべて、裕太のほうに視線を寄越す。何となく、ヤバい、嫌な方向に話が向かいそうだと本能で察知して、裕太は慌ててあさっての方向に視線を泳がせた。当然、ここで、『何の勉強だよ? 』などと突っ込んではいけない。突っ込んだが最後、その『勉強』とやらを実践されてしまうに違いないからだ。
「そ、それに、バナナワニ園なんて、小学生かっつーの!」
「の割には、ワニ見て喜んでたのは誰だよ?」
 クツクツと笑いながら指摘され、裕太は思わず顔を赤くして頬を膨らませる。
「…良いだろ? 普段、ワニ見る機会なんて滅多にないんだから…」
 ブツブツと言い訳をすれば、
「まあ、良いけどな。可愛かったし」
 と、サラリととんでもないことを言われて、裕太は絶句した。
 可愛いとは何がだ、とグルグル考える。
 ワニか? ワニが可愛かったのか? よもや、裕太が可愛かったと言ったのではあるまいと、思わず真剣に悩んでしまったが、蓮川はやはり、気にしていない風で、とにかく、真剣に本に見入っているのだった。

 最近、こういうことが多い。蓮川らしからぬ言動が目に付いて、裕太は実は不安だったのだ。
 どこか上の空で何かを考えているかと思うと、サラリと思ったままを迂闊に口にしたりする。それが妙に優しい言葉だったりするから、尚更裕太は面食らってしまうのだ。
 蓮川が何に思い悩んでいるのか、裕太には薄々分かっていた。恐らく進路のことなのだろう。
 二人そろって院に進んだまでは良い。だが、来年は就職か、それとも博士課程(ドクター)に進むかの選択をしなくてはならないのだ。裕太の進路は決まっている。いずれは研究職に就きたいので、ドクターに進学するつもりだ。だが、蓮川がどうするつもりなのか、裕太はずっと聞けずにいた。
 蓮川の家の事情は結構前から知っていた。とは言え、蓮川の口から直接聞いたのではない。蓮川の母親代わりだという涼子と、その息子の一志から聞いたのだ。だから、裕太はその事を知らない振りで通している。
 進学するのか、父親の仕事に入るのか、それとも、全く関係ない場所に就職するのか。そして、今の場所から離れるのか、離れないのか。二人の関係を維持していく意思があるのか、無いのか。
 気になって仕方が無いのに、口に出して聞けない。
 これが惚れた弱味なんだろうと思ったら、無意識に小さな溜息が零れた。
「何?」
 それを聞き咎めたように、蓮川が小さく尋ねてくる。だが、本からは目を離さない。微かな緊張感。俄かに張り詰めたような空気を感じ取って、裕太はコクンと唾を飲み込んだ。
 いつのまにか唇が乾燥している。不意に喉の渇きを感じて、裕太は、そっと上体を起こした。
 意を決して顔を上げ、蓮川の顔を真正面から見つめる。ようやく蓮川は本から目を離し、裕太の目を見つめ返した。
 目尻の泣きボクロに、嫌でも視線が泳ぐ。相変わらずの姿勢の良さに、思わず見蕩れて、そんな自分に裕太は呆れ果てた。付き合って、すでに二年以上経つというのに、この物慣れなさは何だと思う。どうして、こんなに好きなままでいるのだろうかと不思議にも思う。
 それでも、恋は惚れたほうの負けなのだ。
「…蓮川、進路どうすンの?」
 小さいけれど、はっきりとした口調で裕太が尋ねると、蓮川は何の惑いも無い表情で、
「就職。親父の仕事とは全く関係ない外の会社」
 と即答した。やはり、そうか、このままドクターに進学するワケ無かったかと思いつつも、やはり一抹の寂しさと不安を拭いきれない。明らかに分岐していく将来が、不意に、現実味を帯びてくる。それが表情に出てしまっていたのだろう。蓮川は、不意に困ったような、らしくない笑みを浮かべた。
「…お前はどうしたい?」
「え?」
 不意に尋ねられた質問の意味が捉え切れずに裕太は首を傾げる。
「この先、どうするかって聞いてる。院を出た後も、俺と続ける気があるのか、無いのか」
 判断を裕太に委ねようとする、その余裕が気に入らない。裕太が別れると言ったら、蓮川は別れるつもりなのかと思った。その程度にしか考えていないのかと。
 だが、言葉とは裏腹に、蓮川の表情には余裕など見当たらない。実にらしくない、どこか不安そうな表情。こんな、『素』のままの顔を見せるのは、相手が裕太といえど、蓮川にしてはかなり珍しいことだった。

 育った環境が悪かったとは言わないけど、でも、要があんな性格になったのは私にも責任があると思うの。でも、裕太君と出会ってから、凄く要は変わったと思う。だから、お願いね、要を捨てないでやってね。

 そう言った涼子の、どこか切羽詰った、それでいて母性に溢れた優しい笑顔を裕太は不意に思い出してしまった。だから小さくため息をついて、心の中で白旗をあげる。
 どうしようもない。仕方が無い。どうせ惚れたほうの負けなのだと。
「俺は、できれば、ずっと蓮川と一緒にいたいけど」
 衒いの無い、真直ぐな言葉で直球を投げる。
 蓮川は一瞬だけ眉間に皺を寄せ、まるで、泣くのを我慢しているかのような表情を見せたけれど、すぐにそれをいつものポーカーフェイスに塗り替えた。
「裕太」
 改まったように名前を呼ばれ、裕太は思わず姿勢を正す。
「何だよ?」
「お前、実は今、自分がかなり重要な岐路に立たされてたって気がついてた?」
「…………は?」
「逃げるんだったら、今しかなかったんだけど? 俺にしては、かなり寛大な気持ちで選択肢をお前に委ねたつもり」
 そう言って、蓮川は本を片手に立ち上がる。
「もう逃げられねーぞ?」
 そう言って笑った蓮川の顔は、いつもと同じ余裕綽々の顔だった。
 それに安心すると同時に、なぜだか釈然としない、してやられたような悔しい気持ちになって、裕太は唇を尖らせる。
「別に、逃げる気なんて最初から無いっつーの。それより、さっきから、何だよ。何をそんなに真剣に読んでるんだよ」
 自分を放ったらかしにしたまま、という抗議を暗に含ませて少々拗ねて見せると、蓮川はニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
「いや、せっかくの熱海だから」
 そして、そんな脈絡の無い答えを返す。
「秘宝館で買ってきた」
 パサリと裕太の横に放り投げられた本を見て、裕太は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「…これ…」
「そ。四十八手図鑑。すごいよな、こんなアクロバティックな体位したら、関節外れると思わない?」
 そう言いながら、とんでもない絵柄のページを開いて見せる。
「うわ! お前! 何考えて……」
 そしてそのまま、裕太の上に覆いかぶさってくる蓮川に、裕太は手足をバタつかせて慌てた。
「結構あれこれヤってきたつもりだったけど奥が深いよな〜。コレやってみようぜ、コレ。燕返し」
「なっ! バッ! 無理言うな!」
「無理じゃないだろ。裕太、結構、体柔らかいし?」
 そうじゃない、そういうことじゃない、今はゼミ旅行の真っ最中なのに何を考えているんだ、という抗議の言葉は塞がれた唇のせいで、喉の奥で止まってしまった。
「あ、浴衣は着たままで良いからな。お前の浴衣姿、犯罪的にエロい。サイアク。絶対、外行くな」
 蓮川のそんな言葉を聞きながら、もしかして、思い直したほうが良いのだろうか、選択ミスをしたのではなかろうかと、裕太は一瞬考えたけれど。


 所詮は後の祭りだった。



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