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『039:オムライス』 ………………………………

 そんな子供っぽいものが好きなのか、と、呆れたように笑った。初めて彼の部屋を訪れた時のことだ。もう、何年も前のことだけれど今でもはっきりと覚えている。彼に関することなら、何でも、まるでビデオテープに録画した映像のようにはっきりと鮮明に思い出せるだろう。
 そんな所が鬱陶しいと思われていたのかもしれない。でも、僕は他に彼とどう接して良いのか全く分からなかった。彼の為に良かれと思ってしたコトはことごとく裏目に出てしまった。いわゆる『相性』と言う問題なのかもしれない。

 フローリングの床に直に座ったまま、立ち上がる気にならなくてぼんやりと窓の方を見上げる。目に入る電線に時々カラスやスズメが止まっていたりして、そんなどうでも良い景色を眺めているのが好きだった。することの無い休日の午後は何時間でもそうして過ごす僕を、何が楽しいのかと彼は呆れたように笑った。きっと彼には理解できなかったのだろう。でも穏やかな家庭など知らなかった僕に、安心して眠れる場所をくれたのが彼だった。だから、そんな風にのんびりした何気ない時間が僕には大切だったのだ。
 他に、何も持っていなかった僕が彼に傾倒してしまうのは無理ないことだったと思う。

 窓の外は、僕の気持ちとは裏腹に、頭に来るくらいの五月晴れだった。空の青さが夏のそれに近づいてきている。彼に拾ってもらったのも同じような季節だったけれど、あの日は土砂降りの天気だった。耐え切れずに行くアテも無く飛び出し、ずぶ濡れで蹲っている僕を彼は何の躊躇も無く拾っていき、まっさらな着替えをくれて、何か食べたいものは無いかと聞いた。
 完全にテンパっていて、精神的にそうとう切迫していて食べ物なんて食べられないと思っていたはずなのに、なぜだか、僕は
「オムライスが食べたい」
 と答えた。何で、そう答えたのか今でも分からない。けれども、彼は呆れたように笑って、僕の希望通りのメニューを作ってくれた。彼はどちらかと言えばがっしりとした体つきで、手だってゴツゴツした無骨な大人の男の手だった。顔もいかついタイプに分類される。なのに、意外なことにとても料理が上手だった。まるで、ちょっとした洋食屋で食べるようなオムライスが目の前に出てきた時にはさすがに、僕も驚いたけど。
 聞けば、何のことは無い。調理師の専門学校に通っていて、料理人を目指していると言う話だった。
 ものなんて食べられない、と思っていたはずなのに、目の前に見た目も美味しそうなオムライスを出された途端、空腹なのを自覚して、僕は知らずのうちにスプーンを取っていた。飢えた子供のように、ガツガツと食べ続ける僕を彼は楽しそうに見ていたのを覚えている。
 フワフワの卵に少し濃い目のハッシュドビーフソース。中のケチャップご飯は、母親の味など知らないはずの僕になぜか、奇妙な懐かしさを感じさせた。食べているうちにボタリと皿の上に雫が落ちて、僕は食べながら自分が泣いていることに気がついた。何で泣き出してしまったのか、自分でも分からない。でも、涙が止まらなかった。ボロボロと泣きながらオムライスを食べる僕に、やっぱり彼は呆れたように笑って、
「泣くか食べるかどっちかにしろ」
 とティッシュボックスを差し出してくれた。多分、その時から、僕は彼が好きだったのだと思う。



「何が悪かったんだろ」
 ぼんやりと窓の外に見える青空を見上げながら、僕は独り言を漏らす。僕の傍らには小さなスポーツバッグがポツンと一つ置いてある。まとめてみれば、僕の荷物なんてこれっぽっちしかなかった。この部屋を出て行くなんて、物理的にはとても簡単なことだった。この小さなバッグ一つを持って、玄関から外に行けば良いだけのことなのだから。けれども、数年の間、僕にはそれが出来なかった。したくなかった。彼の傍は居心地が良すぎて。
「やっぱり、アレかな。迂闊にセックスなんかしたのが間違いの始まりだったんかなー」
 これ以上、気持ちがどん底まで落ちていかないように、僕はわざとあっけらかんとした明るい声を出す。
 別に、彼に体を求められることに大して抵抗なんて無かった。ぶっちゃけ、初めてでもなかったし。そもそも、僕は彼が好きだったので彼に何をされても、基本的には嫌だとは思わなかった。
 ただ、酔った勢いでセックスした次の日の朝、彼が見せた、激しく後悔している暗い顔が忘れられない。
 そう、彼は後悔していた。それから暫くの期間、僕とセックスし続けている間も、ずっと。
「別に、僕が誘ったわけじゃ無いんだけどなあ」
 明るい声で言おうとした言葉は失敗した。どこか湿り気を帯びた一言に、鼻の奥が痛くなってくる。僕が誘ったわけじゃなかった。セックスする時は、いつだって彼が強引に始めてしまっていたのに。
 それなのに、彼は僕が悪いと言った。物欲しそうな顔でいつも俺を見ているのが悪いと。お前が誘っているんだろう、とも。
 でも、確かにそうだったのかもしれない。僕が彼を好きだったのは事実だし(例えそれが恋愛感情で無かったとしても)、彼の隣は居心地が良くていつまでも一緒にいたいと思っていたのも事実だ。
 それが悪かったというのなら、僕は、もう、本当にここを出て行くしか無いと思う。
 いい加減、そうしていても仕方が無いので僕はノロノロと腰を上げる。テーブルの上においてあるまとまったお金をどうするか決めあぐねて、結局置いていくことにした。
 昨日、叩き付ける様につき返された僕の『稼いだ』お金。そんな汚い金はいらないと、鬼みたいな形相で彼は怒っていた。あんな風に怒った顔を見たのは初めてだった。
 僕は、ただ、彼の役に立ちたかった。ほんの少しでも良い、彼を喜ばせることが出来れば良いと思っていただけだった。そうすれば、少しでも長く彼と一緒にいられるかと淡い期待を寄せていた。でも、そんな浅ましさが彼には我慢できなかったのだろう。
 それでも、お金はお金だ。彼が店を持つ資金の一部にでも宛ててもらえれば、それだけでも報われるような気がする。そして、いつか、彼の店でまた彼の作ったものを食べることが出来たなら。
 それだけが、僕の今のささやかな夢だった。

 僕は、知らず滲んでいた涙をゴシゴシと乱暴に袖で拭い、意を決してバッグを持ち上げる。そのまま、玄関から出て行こうとしたときだった。ガチャリと音を立て、まるで自動ドアのように扉が外から開く。目の前に立っていたのは彼本人だった。
 僕はとても驚いて、その場で馬鹿みたいに呆然と立ち尽くしてしまう。
「き…今日は早番じゃ無かったの?」
 慌てたあまり、僕は間抜けなことを聞いてしまう。けれども、彼は目を大きく見開いたまま、何も答えず僕のことをじっと見下ろしていた。それから、僕の持っていたバッグに目を落とす。
「…どこへ行くつもりだ」
「…え?」
「どこに行くつもりだって聞いてるんだ!」
 彼は、昨日と同じような鬼みたいな形相で、語気を荒げて僕に尋ねた。僕は思わずその剣幕にたじろいでしまう。
「…出てく」
 小さな声で、おどおどと答えると、彼は眉間に皺を寄せて、まるで叱られた子供のような表情になってしまった。
「出て行ってどうするんだ…」
 先程よりは、少し消沈した声で彼は再び尋ねる。僕は軽く首を傾げた。出て行ってどうすると言われても、何も考えていなかったのだ。行くアテも無い。とにかく、ここから出ていくことしか考えてなかった。
「別に…どうしたって、アンタには関係無いじゃないか」
 はすっぱな口調で僕が言うと、彼はますます眉間の皺を深めて、ギュッと拳を握り締めた。もしかしたら、殴られるのだろうかとチラッと考えたけれど、別に怖くは無かった。暴力には耐性がある。
「…あの男の所に行くのか」
 低く、押し殺したような声で言われて僕は、きょとんとしてしまった。
「え?」
「だから、お前にあの金をくれた男のところに行くのかって聞いてるんだ!」
「え? …あ? ・・・もしかして、三井さんのコト? 何で三井さんトコ行かなくちゃならないんだよ?」
「俺より金持ってるからだろ! ? 体売って、囲ってもらうつもりなんだろ!」
 怒鳴りつけるように言われた言葉に僕は呆然としてしまった。一瞬何を言われたのか理解できないくらいの衝撃だった。一体、この男は何を言い出したのかと思った。
「ちょ…ちょっと、何か勘違いして無い?」
「勘違いなんかしてねえよ! 昨日だって、あの男に体売って貰った金なんか持ってきやがって!」
「はあああ! ?」
 僕は、唖然として口を大きく開けたまま絶句してしまった。
「大体、俺とセックスしてるのだって部屋代代わりだとか言いやがって! フザケンナよ!」
 一方的に責め立てられて、僕はプツンと頭の中で何かが切れる音を聞いた。怒りのあまり頭の中が真っ白になって、反射的に口を開いていた。
「ふざけてんのはアンタだろ! ? 部屋代代わりも何も、僕はちゃんとバイト代で生活費アンタに入れてんだよ! 部屋代代わりなんて冗談で言っただけだっつーの! そもそも、セックスした次の日に『後悔してます』って顔に書いてたのはアンタだろーが! ちょっとでも気を軽くしてやろうと思って言ってやった冗談真に受けやがってアホか!」
 物凄い剣幕で言い返し始めた僕に、今度は彼が唖然とする。でかい図体で、あんぐりと口をあけた顔が間抜けでちょっとだけ笑えた。
「それにな! 昨日の金は確かに三井さんに貰ったけど、誰が体売ったなんて言ったよ!」
「…う…だって、お前、何したんだって聞いたら、『そんなの良いじゃないか』って誤魔化したじゃねーか」
「だから、何でそれが体売ったことになるんだよ!」
「…あの男、お前のこと狙ってたし。時々金チラつかせるヤなヤツだし…」
 先ほどの勢いはどこへやら、で、急に気弱な口調で言い返してくるのを見ていると馬鹿馬鹿しくて、思わず大きな溜息を吐いてしまった。
「…アンタ、ホンッと馬鹿だな。三井さん、アンタの腕前すごく買ってて、本気で出資してくれるつもりでいるのに。何で、それが『金をチラつかせる』になるんだか、僕にはさっぱり分からない」
「あんなヤツに金出してもらわなくても、店くらい出せるんだよ!」
 途端に勢いを取り戻して、ムキになって言い返してくる様子があんまりにも子供っぽくて今度は僕が呆れた。普段は、大人の男って感じなのに、何でこうなるんだか。
「…まあ、それは良いよ。でも三井さんは俺のこと狙ってなんかいないよ。息子みたいに可愛がってくれてるだけ」
「嘘つけよ! じゃ、あの金は何だよ!」
 しつこく食い下がられて僕はもう一度溜息を吐く。本当は言いたくなかった。すぐに彼が機嫌が悪くなるのは目に見えているし、あれだけまとまったお金をもらったからには、同じコトをあと何度かしなくちゃならないだろうから。
「…モデル」
「…へ?」
「だから! 三井さんに頼まれてたモデルの仕事、引き受けたの! しかも年単位で! 言ったら、アンタ、すぐ怒るから言いたくなかったんだよ!」
 僕が逆ギレするみたいに答えると、彼は暫くポカンとして、それから決まりが悪そうに口に手を当てた。
「や…俺はてっきり…それなら、最初からそう言えよ…」
「面倒だったんだよ。アンタ、三井さんも、僕がモデルするのも嫌がってたから」
「だからって…」
 彼は釈然としない表情でブツブツと何かを言っていたが、そこが玄関先だと気がついたらしく、取りあえず靴を脱ぐと、僕の持っていたバッグをヒョイと取り上げた。あ、と思ったけれど、仕方が無いので僕も部屋の中に引き返す。
 彼は、僕のバッグをドスンとソファの上に放り投げ、僕に背中を向けたまま、ポツリと
「じゃ、何で、お前は俺と寝るんだ」
 と独り言のように言った。余りに今更なことを聞かれて、僕は呆れかえる。アンタがいっつも無理矢理僕を押し倒すんだろう! って怒鳴ってやりたい気持ちもあったけど。
 その広い背中が、不安そうに見えてしまって。
「そんなの、アンタが好きだからに決まってんだろ」
 と、馬鹿正直に答えてしまった。
 僕の言葉を聞いて、広い背中が少しだけ揺れて動揺する。こう言うのは結構珍しい。何だかおかしくなってしまって、僕はからかうみたいに彼の背中にペタリとくっついてみた。普段は絶対、こんな甘えたことはしないんだけど。
「アンタはどうなの? 何で、僕とセックスするんだよ?」
 小さな声で尋ねてみたらやっぱり背中が動揺したみたいに揺れて、ふと見上げれば彼の耳から首筋までは真っ赤になっていた。それがとても意外で僕は驚いてしまう。結構、女慣れしてるタイプだと思ってたのに。
「…いや、まあ。何だ、それは。言わなくてもアレだろ」
 と、ボソボソと訳の分からないことを呟いて、逃げるように上着を脱ぐ。何だ、そりゃ、とちょっとだけムッとしたけど。
「お前、腹減ってるだろ。ホラ、アレ。オムライス作ってやるから待ってろ」
 やっぱり、少しだけ赤い顔をして彼がそう言ったので。
 それ以上、追求するのは許してやった。まあ、それも所謂僕にしか分からない合言葉の告白みたいなもんか、と思ったら、ここしばらく悩んでいた自分が馬鹿馬鹿しくなってしまった。




 不器用で口下手な、料理の上手い男を好きになるのは楽じゃないなあ、と思った晴れた日の午後だった。




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