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『038:地下鉄』 ………………………………

 もう1年以上も使うことのなかった地下鉄を、晴樹が再び使い始めてかれこれ一ヶ月が経過しようとしている。何も変化の無い真っ暗な車窓に目をやりながら、晴樹はぼんやりと取り留めの無いことばかりを考えていた。
 なぜこの地下鉄であの場所に通い続けているのか、未だに自分でも分からない。ただ気がつけば、この地下鉄に乗っている。良いことなど一つも無い。自分を待っているのは精神的な苦痛と肉体的な苦痛の二つだけなのに。
 偽善行為なのだろうか。それとも贖罪のつもりなのか。
 何度も問いかけて、答えが出なかった疑問に今更答えなど出るはずが無かった。頭の奥の方が腐って麻痺しつつある。何も考えたく無い。ただ、体の動くままに行動している人形のようなものだ。
 地下鉄のアナウンスが聞きなれた駅名を告げ、晴樹は反射的に腰を上げた。
 普段自分が使っている電車に比べ、この地下鉄線は比較的空いている。しかも、こんな遅い時間だと人の姿もまばらだ。人の少なさと夜の独特の雰囲気が、晴樹の胸をきりきりと切ない感じに締め付ける。その奇妙な孤独感に安堵して、開いたドアから駅へと降りた。肌に触れる空気が生温く、春なのか夏なのか判断を鈍らせる。中途半端な季節の変わり目に、晴樹はぼんやりと過去の事を思った。
 何か取り立てて人に話せるような、劇的なことなど何一つ無い凡庸な人生だった。22年間生きてきて、これほど『平凡』と言う言葉が似合う人間も、他にいないだろうなと卑屈な気持ち無しで素直に思うほど。

 そんな凡庸な晴樹に、理解し難いほど執着した唯一の人間が高村和威だった。二つ年下の後輩。晴樹が通う美大に鳴り物入りで入学したその天才は、既に高校生の時から画壇を騒がせている有名人だった。

 初めて晴樹が和威と言葉を交わしたのは、確か西洋中世美術史の講義の時間だったと思う。シャープペンシルの芯を貰えないかと頼まれたのだと晴樹は記憶している。
 初めて和威の顔を間近で見たとき、晴樹は言葉も忘れてその目に魅入られてしまった。和威はどこか尖った雰囲気を漂わせていて、目つきがとにかく険しかった。もともとつり目だったのも手伝って、相当にキツそうな顔に見えた。実際、和威は決して温和な性格ではなく、当たりは厳しいしつっけんどんで、どこか厭世的でさえあった。だが、その目には力がある、と晴樹は直感的に思った。凡人には持ち得ない、何か不思議な力を宿している、と。その後、一言二言、何か会話を交わしたはずだが、晴樹はその内容を覚えていない。
 ただ、その日以来、和威は必ずその講義の時には晴樹に話しかけてくるようになった。いつまで経っても、相変わらず目つきは鋭かったし、愛想も良い方ではなかったが話し難いほどでもなかったので晴樹は自然と和威と仲が良くなっていった。だが、そんな風に親しげな態度を取るのは自分に対してだけなのだと、二ヶ月も経たないうちに少々鈍感な晴樹も気がついた。その頃だったと思う。偶然、和威のクロッキー帳を覗いたのは。
 十年に一人出るかどうかの天才だとあちこちで騒がれ、噂されていたにも拘らず、どこかのんびりとしている晴樹はまともに和威の絵を見た事が無かったのだ。
 初めてそれを見たとき、晴樹は言葉を失った。頭をハンマーで叩き割られるような衝撃、と言うのを実体験した。そして『天才』と言う言葉の意味をその時初めて知ったのだと思う。
 躍動感と、何かを激しく訴えてくるその何気ないラフスケッチの数々は、鮮明に晴樹の脳裏に刻み込まれた。その後、晴樹は急速に和威に傾倒した。その才能に惚れ込んでしまったのかもしれないが、今にしてみれば、和威の孤独な心に知らず知らずのうちに引き込まれ溺れていただけなのかもしれない。
 いずれにしても、二人が体の関係を持つほど深い仲になるのにそれほど時間は掛からなかった。
 晴樹は典型的な田舎から出てきた地方学生で、凡庸で、しかも固定概念に縛られている常識人のはずだった。それなのに、なぜ、こうも抵抗無く同性愛者と言うマイノリティに足を突っ込んでしまったのか。そんな疑問を抱くようになったのは、セックスに溺れて学校を休みがちになり、いい加減拙いだろうとようやく普通の生活を取り戻そうとした頃だった。


 良い思い出など殆ど無い。ただ、痛くて切なくて自分を嫌悪するだけの恋愛期間だったように思う。それでも、和威とのことを思い出すとき、あえかな甘さをもたらしてくれるのは、我を忘れて二人閉じこもりセックスに溺れていた時間なのは皮肉な事なのかもしれない。


 『君にこんな事を頼むのも筋違いかもしれないが、一度、彼に会って再び筆を取るように説得してくれないだろうか。』
 恩師の北島に頼まれたのが丁度一ヶ月前。その前の1年間は一度として和威の姿を見た事は無かった。意識的に、その姿を見なくても済む様に徹底的に避けていたのは晴樹の方だ。それでも、噂とは嫌でも耳に入ってくるものだ。もともと和威は有名人だったのだからしかたが無かったのかもしれない。
 酷いスランプに陥っているだとか、学校にも満足に出てこないだとか、酒と女と薬に溺れているだとか、画商のだれそれに噛み付いてトラブルを起こしただとか。
 聞こえてくるのはろくでもない噂ばかりで、そんな噂を聞く度に晴樹は胸を痛めた。実際に神経性の胃炎で入院した事もある。
 たった一人で、眠れない夜を過ごしている時に思い出すのは最後の和威の泣き出しそうな顔だけだ。捨てられた子供のような顔で、晴樹をただじっと見詰めていた。
 『やっぱり、お前も俺を捨てるのか。』
 ただ一言、それだけを呟いて。



 『穏やかになってはいけないのだ。』
 と、画商の丸山は晴樹に言った。ハングリー精神を失くしてしまい、丸くなってしまったら彼の良さは殺されてしまうのだと。それまで、詳しく和威の口から語られることの無かった家庭環境や幼少時代の出来事を丸山はこれでもか、と事細かに晴樹に叩き込んでくれた。それは、平凡ながら幸福な家庭で育った晴樹には想像できないような壮絶な世界だった。和威の目がああも鋭く、どこか厭世的で人間不信に陥っているようにすら見えるにはそれなりの理由があったのだ。だが、それがあったからこそ、彼の創造の世界が出来上がったのだとも丸山は言った。そして、晴樹がまさに、和威の牙を引き抜こうとしているのだと。
 実際、晴樹と二人でいる時の和威は無防備に安心しきって眠る子供のようですらあった。決して他の人間には見せない甘ったれた態度も、晴樹には愛しいものとしか写らなかった。今まで得ることの出来なかった愛情や安らぎを、今、懸命に取り戻そうとしているようで晴樹は出来うる限り和威を甘やかしていたように記憶している。
 ふと、一度、晴樹が気になって
 『最近は絵を描いているのか? 』
 と尋ねた時、和威は描く気がしない、とあっさりと答えた。今は、満ち足りているから描く気が起きないのだと。その時は、大して気にも留めなかったが、丸山に責められた時に晴樹はそれを思い出して頭が真っ白になったものだ。




 生暖かい風が晴樹の頬を叩く。学生が住むには分不相応なしっかりとしたマンションの前で、一度立ち止まり、それから再び足を進めた。部屋の近くまで来ると、やはり口論が聞こえ、中から一人の女が飛び出してくる。晴樹が見たことの無い女だった。これまでの一ヶ月間、何度も見てきた光景だが、一度として同じ女だった事は無い。だが、女の口から飛び出す言葉は似たり寄ったりだった。『最低! 』だとか『バカヤロウ! 』だとか。罵声の言葉ばかりだ。それに対して、和威が発する言葉はいつでも『出て行け』の一言だけだった。
 キツイ香水の香を匂わせている女とすれ違い、晴樹は盛大な溜息を一つ零す。たった今、閉じたばかりのドアの前でインターフォンを鳴らすと、
「さっさと帰れって言ってるだろう!」
 と、中から声がした。
「俺だよ」
 ドア越しにそう答えれば、ゆっくりとドアが開き、鬱陶しそうな顔の和威が顔を覗かせた。
「アンタもしつこいね。それとも、正真正銘の変態になっちまって、体が疼くって?」
 嘲るように言われても、晴樹には返す言葉が見つからない。ただ、自分より少しだけ高い位置にある眼をじっと見詰めた。そうすると、先に視線を逸らすのは決まって和威のほうだった。
「さっさと入れよ」
 何かを諦めたようにぶっきらぼうに言い捨てると、和威はさっさと部屋の中に入ってしまう。晴樹も慣れた様に、その後に続いた。


 もう一度、真剣に絵に取り組んでくれないだろうか、と頼みに来た晴樹に和威は最初泣き出しそうな顔を見せ、それから激怒した。どの面を下げて、会いに来たのかと。それでも、諦めずに晴樹がしつこく説得を続けていると、和威は歪んだ暗い笑みを浮かべて、
 『アンタが俺の玩具になるって言うなら考えても良い』
 と提案した。一瞬戸惑いながらも、結局、それを受け入れたのは晴樹だ。それでも良い、絵を描いてくれと晴樹が言ったなら、和威は酷く傷ついた表情を見せたが。晴樹も後には引けなかった。
 それ以来、一ヶ月、こんな馬鹿げた関係は続いている。





 玩具になれ、と言った通り、和威の晴樹に対する態度は酷いものだった。ただ、晴樹を蹂躙して辱め、精神的、肉体的に痛めつける事だけが目的のような行為だけが繰り返された。
 普段、普通に生活していれば目にすることなど無いだろう下世話な器具や薬を使われて、人間でいるのが嫌になるような事を何度もされた。
 恋人同士として過ごしていた時には、決してされたことのない行為ばかりだった。その頃の和威は、時々激しいセックスを求めたりもしたが、基本的には真綿に包むように晴樹を大事に抱いていたように思う。
 それに比べると、まるで別人のようだった。
 一方的に与えられる屈辱的な快感と、精神的、肉体的な苦痛は確実に晴樹を蝕んでいるはずだったが、晴樹はこの場所に通うのをやめられずにいる。何が、自分を繋ぎ止めているのかは分からない。ただ、こんな風に扱われている間は、奇妙な安堵感があった。いっそ、こんな風に扱われる方が自分には相応しいと思ってしまうほど。
 和威は、ありとあらゆる手を尽くして晴樹を蹂躙したが、決して晴樹を抱くことだけはしなかった。晴樹を犯すのはいつでも、無機質な体温を持たない器具ばかりだった。けれども、それで良いのだと晴樹は思った。
 和威は自分を抱いてはいけないのだ。
 抱いてはいけない。
 和威が自分を抱いたなら、また同じ事を繰り返して二人は破綻するのだから。




 一通り晴樹を弄んだ後、いつものように和威は、
「さっさと帰れ。邪魔だ」
 と冷たい言葉を投げつける。体を起こすのも億劫なほど疲れ切って、あちこちが痛んだが晴樹はノロノロと体を起こして支度をする。大分時間をかけて、服を着、部屋を出ようとする頃には和威は黙ってキャンパスに向かい、晴樹の存在を完全に殺してしまっていた。
 その自分を拒絶する背中に、晴樹は少しだけ安心して、玄関に向った。
 和威の後ろを通り過ぎる瞬間、蚊の鳴くような小さな声で、
「いつまで、こんな事を続けるつもりなんだ」
 と、聞こえたが晴樹はいつものようにその言葉を無視した。



 来た時と同じ地下鉄で帰り道を辿る。
 いつまで、と聞かれてもそれは晴樹にも分からなかった。だが、きっと、明日もこの地下鉄に乗るのだろう。明後日も、その次の日も。
 終電間近なその車両には、晴樹以外には数人の姿しか見えない。窓の外が暗いのは、夜のせいではなくそれが地下を走っているからだ。朝になろうが、昼になろうが、この場所は暗いままだ。
 幾らでも座席は開いているのに、晴樹はドアのすぐ近くに立ったまま、窓の外を眺め続けた。





 ただ、ひたすら闇しか存在しない窓の外を、いつまでも、いつまでも。



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