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『036:きょうだい(兄弟)』 ………………………………

 *『不確定Q&A』番外




 君は、本当の意味でブラコンだなと笑いながら言ったのは、もうずっと長い間ピアノを習っている講師だった。
「ブラザーコンプレックス。弟に対する劣等感」
 そう言いながら都築基は楽しそうに煙草をふかして窓の外を眺める。ほんの数十分前までは人の体を弄んで、嘗め回したりわざと嫌がる体勢をとらせて上に乗せて楽しんでいたのに。ヘトヘトになってベッドに突っ伏している自分など放っておいて、平気で一人でシャワーを浴びて、今はきちんと服まで着込んでいる。
 そうしていると全く情欲の色など見当たらず、いっそストイックな男にすら見えて、響はとても白けた気持ちになってしまうのだった。もっとも、そんな気分も今日で終わりなのだ。その日も都築は、普段と全く変わらない様子で自分を抱いたように思う。けれども、微かな苛立ちの様なものを感じたのは響の気のせいなのか、そうではないのか。
 別段、どちらでも良かった。都築にとっての自分が一体どう言った存在だったのか、響には最後まで分かることは無かった。知りたいとも思わなかった。ただ、自分のプライドや価値を地べたまで引き摺り下ろしてドロドロに汚してくれる相手として都合が良かっただけなのだから。
 響は裸の体をノロノロと引き起こす。ベッドから立ち上がれば、ドロリと股の間をついさっき中に吐き出されたものが伝う感覚がした。都築はいつもコンドームを使用しない。自分が無節操に色んな人間と寝ていることを知っているのに、病気が怖くないのだろうかといつも響は不思議に思っていたものだ。だが、そう問えば都築は残酷なほど優しげな顔を浮かべて、
「響は、この方が良いんだろう? 体の中の奥の方まで汚されている気がして」
 と冷たい答えを返すだけなのだ。それは、響が望んでいる答えそのままで、響にはやはりそんな答えを返す都築の気持ちが分からない。本当にそう思っているのか、それとも自分がその答えを望んでいるからわざとそう答えているのか。
「シャワーを借りても良いですか?」
 気だるい気分で尋ねれば、都築は器用に片方の眉だけを上げて、
「それなら、私が洗ってあげよう」
 と容易く答えた。それに断りを入れようと響が慌てるよりも先に、珍しく、らしくもない強引さでバスルームに連れ込まれる。
 勢い良く流れ出てくるシャワーの湯を頭からかけられ、バスマットの上に乱暴に引き倒された。普段から都築は性悪で、やることなすこと実に下劣でいやらしく容赦が無いが、決して乱暴なことはしない。
 普段と様子の違う都築に響は戸惑いながら、不自然な格好でマットの上に四つん這いに這わされた。
 すぐに後ろから指が侵入してきて響は反射的に体を強張らせる。時々、響の羞恥を煽る為にわざと都築がその場所を明るいバスルームで洗いたがることはあったが、それとは全く違う意図を持ったような性急な仕草だった。
「アアッ! …ウッ…せん・・・せいっ!」
 決して洗うという意図ではなく、別の目的を持ってなされる行為に響が批判の声を上げる。けれども、都築は止めなかった。指の数が次第に増えて、水の流れる音に混じってグチュグチュと粘着質な音が聞こえる。先ほどまで男を受け入れていた場所が解れるのにそう時間は掛からなかった。時間にすれば、数分のことだっただろう。都築はまるでセックスの初心者のように、慌しく響の背後に圧し掛かるとかなり強引に挿入を果たした。
「アアッ!」
 その衝撃で響が悲鳴を上げても都築が留まることは無い。何かの苛立ちをぶつけるかのように激しく腰を打ち付けられて、響は頭が真っ白になりそうだった。そのまま、ワケも分からずイかされるのかと思えば、唐突に根元を押さえつけられて射精を妨げられた。
「ヤ…メ…アッ…」
 無理に体を捩って響は抵抗しようとしたが、不意に耳元に顔を寄せられて、都築に囁かれた言葉を聞いた途端に、全てを放り投げてしまった。
「最後のつもりなんだろう? 少し我慢しなさい」
 まるで恋人に睦言を囁くような、優しくて、それでいてどこか切ないような口調で都築は言った。
 嗚呼、気がついていたのかと響は体の力を抜く。いつもはどこかに引っ掛かっている罪悪感やプライドを押しやって、素直に都築に体を預けたら、奇妙な寂寥感と安堵感が押し寄せてきて響は困ってしまった。



「教採に合格して、高校の教員になることが決まりましたので」
 暗に、ピアノはもう完全に止めるのだということを響は淡々と玄関先で告げた。都築は腕を組み、ドアに凭れたまま無表情で響の顔を見詰めている。
「もう、ここに来る事も無いと思います」
 何の感慨も無い口調で響が更に続ければ、都築は表情を崩し、苦々しいといった笑い顔を浮かべた。
「賢明な選択だな。そうでなければ、そのうち私に鎖につながれて飼い殺しにされるだろうからね」
 物騒な言葉を唐突に吐き出した都築に響は驚いて目を見開く。真意を図りかねて、響がそのまま都築を見詰めれば、都築は不意に口元を緩ませて今度は妙に優しげな顔で響を見詰め返した。
「…どういう意味ですか?」
 戸惑いがちに響が尋ねても都築はその笑顔を崩さなかった。
「そのままの意味だがね。君がどう思っていたのかは分からないが、私は私なりに君を愛していたよ」
 そうして、サラリとそんな事を言う。響はますます驚いて、これ以上は無理だと言うほど目を見開いた。これが、本当に都築の言葉なのかと耳を疑う。それとも、最後の最後まで自分をからかい倒すつもりなのか。
 今まで一度も都築の真意が読めたことなどなかったが、この言葉は一番理解し難い言葉だった。そんな響の表情を見て都築は苦笑を浮かべる。
「まあ、信じようが信じまいが君の勝手だ。ただ、これだけは言っておくよ。もう、いい加減、自分が愛されるに値しない人間だと頑なに思い込むのは止めなさい。君がどう思おうと君を愛する人間は必ずいるのだから。
 君を縛り付けている鎖は君自身だ。そして、今度は君が奏を縛り付ける鎖にならないように」
 グサリと胸に刺さる言葉を都築は最後に残して、身を屈める。触れるだけのキスを響の唇に落とした後、静かに玄関のドアは閉められた。





 散漫な意識を持て余しながら、響はあてども無くフラフラと町の中をさまよい歩いていた。あちこちに思考が飛んで、考えの焦点が定まらない。自分の中ではっきりと片をつけたのだという安堵感と、奇妙な寂寥感。そして、後ろ盾を失ったような不安感。都築との関係は実に不毛な、非道徳的なもののはずだったのに。いつのまに、自分はこれほど依存してしまっていたのか。そんな自分を嫌悪しつつも、気がつけばグルグルと都築の言葉ばかりを思い出していた。
 都築は一体どこまで自分の事を分かっていたのか。何もかも分かっていながら、長い間あんな不毛な関係を続けてきたのか。そんなはずは無いと無意識に頭を振る。けれども、都築から情の一欠けらも感じなかったのかといえば、響ははっきりとした答えを返せない。
 止めども無く、そんな自問自答を繰り返しているうちに、ふと気がつけば梓の店の前で響の足はピタリと止まっているのだった。早めの時間だからか、店内はそう混みあっている様子ではなかった。コーヒーでも飲んでいこうかと店のドアを引けば、聞き覚えのあるピアノの音が聞こえて、響は音のする方向に視線を向けた。
 まだ、どこかあどけなさの残る弟の奏が、ピアノの前で無心に演奏を繰り広げている。澄んで伸びやかなその音色は、技術的には未熟かもしれないが確かに響の胸の奥まで染み渡った。けれども、惜しいかな、その優等生らしい型にはまった所が、少年期特有の奔放さを奪っていた。何かを押さえ込んで、綺麗に無難にまとめようとする、そんな演奏をするようになったのは、奏の幼馴染が突然に去ってからのことだ。それを思うと響の胸は後悔で押しつぶされそうになる。なぜ、誰も自分を責めないのか不思議でならなかった。責めるどころか、誰も彼もが響には同情的で『若いのに偉いわね』だとか『その歳でよく出来た青年だ』と誉めそやす。奏ですら響には負い目を持っているのか、響が自分の犠牲になっているのだと思っているらしかった。
 自分は単なる偽善者で、弟に対する押し殺せない憎しみに対する罪悪感から逃れるため行動しているに過ぎないのに。
 響が、やるせない気持ちで弟の姿を少しはなれた場所からじっと見詰めていると、不意に後ろからポンと肩を叩かれた。振り返れば、高校からの友人である佐原透が立っていた。透はチタンフレームの眼鏡越しに穏やかな視線を投げかけながら、カウンターへと響を促す。二人並んで腰をかければ、何も言わないうちから梓がコーヒーを差し出した。
「…教採、受かったって? おめでとう」
 何気ない言葉を掛けられて、響は酷く動揺する。声を出すことが憚られて、首を縦に振るだけで返事をした。
「…カナちゃんが気にしてたけど?」
「…何を?」
「教師になるなら、いい加減『ご乱交』を控えて欲しいってさ」
 さり気ない口調を装いながら、透の言葉には隠しきれない棘が覗いている。響が、お前とだけは決して寝ないと透に宣言したのは、もう3年以上も前の話なのに、なぜ未だにこんな後ろめたさを感じてしまうのか。
 苛立ちを感じながら、響は、
「4月までには全部切るさ」
 と投げやりに答えた。
「どうだかな」
 呆れたように透は言い返したが、それは聞こえない振りで黙殺する。
 何もかもが煩わしい。全て捨てて逃げてしまいたいと衝動的に考えたが、不意に新しい曲を弾き始めた奏のピアノの音が聞こえた途端、響はすぐにそれを否定した。

 あと少しだけ。

 都築は、決して自分が奏を縛り付ける鎖になるなと忠告したが、あと少しだけ響は許して欲しいと思った。奏は自分の庇護の元にあるのだと思わせて欲しかった。
 恐らく、そう遠くない未来に奏の幼馴染は戻ってくるだろう。そうすれば、次第に自分はお役御免になるのかもしれない。それまでは、自分の手元に繋ぎとめて置きたいと響は切望した。
 やがて、休憩時間になった奏がカウンターに早足でやってくる。響と透の顔を見たとたんに弾けるような笑顔を見せた。この顔は幼い頃とあまり変わりが無い。それが響を安心させた。
「カナちゃん、また、腕を上げたね」
「そうかな? 自分じゃ良く分からないんだけど。…どっか問題ない?」
 チラリと響の顔を上目遣いで窺いながら奏は戸惑いがちに尋ねた。梓の店でピアノのバイトをすると言ったときに、響が反対したのを未だに根に持っているのだ。
「そうだね。もっと大胆に弾いても良いんじゃないかな?」
 何も言わない響の代わりに、透が気を使って答えると、奏はホッとしたような表情で椅子に腰を下ろした。
「それにしても、カナちゃんの演奏、個性が出てきたね。一時期はすごく響に似た癖とかあったのに」
「だって、都築先生が真似すんなって怒るんだもん」
 奏の口から『都築』と言う言葉が出たことに響はギクリとしたが、それは表情には出さない。知らん顔で黙ったままコーヒーを啜っていれば、透と奏は楽しそうに会話を続ける。
「まあ、響もお父さんの真似ばっかりして叱られたらしいけど。兄弟だね」
「へえ、そうなんだ」
「響はお父さんに憧れてピアノを始めたくらいだからね。仕方なかったのかもしれないけど。カナちゃんもやっぱり、お父さんの影響でピアノを始めたのかな?」
「え? 俺?」
 奏は少しだけ言いよどんで、チラリと響の顔を盗み見る。それから、どこか照れたような表情で、
「俺の父親が死んだの2歳の時で俺はあんまり覚えてないし。ピアノを始めたのはどっちかって言うと…兄貴がきっかけって言うか。…兄貴のピアノの発表会見てピアノ始めようと思ったんだけど」
 と答えた。その答えに、透は少しだけ意外そうな顔をして、それから、ふと悪戯な表情で響のほうをチラリと見た。それに気がついても、響はそしらぬ顔で無視を決め込む。
「あ、そろそろ休憩終わるから俺行くね」
 奏は勢い良くコーヒーを飲み干すと、照れ隠しのようにその場を慌しく立ち去った。その後姿を見送りながら、透は楽しそうにクツクツと笑う。
「何ともまあ、カワイイ弟だよね、カナちゃんってさ」
 明らかに自分をからかいたいが為の言葉を響は無視する。この男のこう言うところが気に食わないのだとツンとした表情でわざと拒絶してやれば透は何が楽しいのか声を立てて笑った。
 そうしている間に、奏のピアノの音が聞こえてくる。曲はショパンの『幻想即興曲』だった。中学生の頃、響がピアノの発表会で演奏した曲だ。そして、その曲を聴いた途端、奏はピアノを習うと言い始めてきかなかった。
 それはあどけない、純粋な弟のラブコールのように聞こえて、思わず響は噴出してしまう。もう少しで高校生になろうという弟だが、こう言うところは素直な小さな子供の頃のままだと思った。

 弟への劣等感。
 複雑な感情と憎しみ。
 それと表裏一体の醜い執着。
 それらは決して否定できなくとも。

 その何倍もの強さで、弟が純粋に愛しいのだと響は思う。それは家族としての情愛であり、兄弟愛であり、或いは父性愛のようなものも含んでいるのかもしれない。




 いずれ奏が自分の手から離れる時に、響は決して縛り付けまいと目を閉じて、心の中で密かに誓ったのだった。



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