novelsトップへ

『026:The World』 ………………


 神は天に居まし 世は全て事も無し。




 年末である。あちこちからクリスマスソングが流れてくるし、ショウウィンドウの中はクリスマス一色だが、入江の胸中はそんな明るい雰囲気とは程遠かった。
 殆どカップルしか見当たらないショッピングモールの中をトボトボと歩く。どこからどう見ても生活に疲れたうだつのあがらない中年にしか見えないだろう。色とりどりのライトで飾られた人工の街路樹を見上げたら、無意識に溜息が一つ零れた。
 今頃、会社の若い連中は忘年会の三次会になだれこんでいるはずだ。家に帰りたくない一心で、つい二次会まで参加してはみたが、カラオケルームで分からない曲を聞いていたらますます虚しく寂しい気持ちばかりが膨れ上がってしまい、お金だけを置いて途中で抜けてきてしまった。
 終電にはまだ早い時間で、あても無く入江はフラフラとモールの中をさ迷い歩く。すれ違う人達は、誰もかれも楽しそうで、幸せそうに見えて、ますます入江の寂しさと虚しさは募ってしまった。

 入江が一ヶ月ほど前に離婚したことを知っている人間は、会社には殆どいない。だから、今日も家に帰らなくて良いんですか? と部下や後輩に不思議がられていた。きっと他意はないのだろう。だが、まるで早く帰れと、邪魔者にされているようで、そんな些細なことでさえ傷ついてしまった。
 暗くて寒いあの家に、待っている人間など一人もいない。それならば終電までは帰りたくないと、モール内をフラフラと歩き続ける。歩きながら、ぼんやりと通りを歩く人を眺めていると、不意に後ろからヒタリと頬に暖かいものを当てられて、入江はかなり驚いて立ち止まってしまった。
「な、何だ! ?」
 慌てて後ろを振り返れば、買ったばかりらしい缶コーヒーが目に入った。そして、それを後ろから差し出しているのは。
「何だ、浜田君か。どうしたんだい? 三次会には行かなかったの?」
 入江の会社での部下、浜田がニコニコとしながらすぐ後ろに立っているのだった。浜田は会社でも当たりは柔らかいし、愛想も悪い方ではないが、なぜか、妙に機嫌の良さそうな顔をしている。酔っているのだろうか? と思いながら、入江もついついつられるように愛想笑いを返してしまった。
「ええ。何だか、つまらなそうだったので」
 そう言いながら、浜田は入江の隣に並んで歩き出す。もう片方の手には缶ビールが握られていた。
「でも、女の子達ががっかりしているんじゃないか?」
 なぜ、浜田が自分の横に並んで歩くのか分からずに、戸惑いながらも入江は尋ねる。浜田は今年で入社五年目、そろそろ中堅入りする27歳の部下だった。だが、部下とは言えど入江とは事情が大分異なる。入社試験の成績も優秀で、異例の速さで昇進し続けている。業績も、とても入社して5年目とは思えないほど華々しく、会社から寄せられる期待も大きい男だった。おまけに、外見も良いと来ているから文句のつけようが無い。どこか柔らかさを感じさせる優男風の整った顔に憧れている女子社員は少なくない。そんな俗っぽい評判に疎い入江でさえわかるほど、浜田はモテる。顔もよく、エリートコースを着実に歩いている男がモテないはずが無かった。
 仕事もぱっとせず、妻にも逃げられた自分とはまるで月とスッポンだと入江は自嘲的な笑みを浮かべながら、手渡されたコーヒーを受け取った。
「別に、女子社員なんてどうでも良いですから」
 両手で缶ビールを弄びながら浜田がさらりと答える。こんな風に答えられること自体、そもそも自分とは人種が違うのだと入江は苦笑いをこぼした。
「それより、入江さん、どこか座りませんか?」
 促されて、入江は少しだけ考える。一人でいるのはやはり寂しい。誰かが隣にいれば少しでも気が紛れるような気がして、入江は思わず頷いていた。
 ショッピングモールからすこし外れた公園に場所を移し、二人並んでベンチに腰掛けた。はなれた場所にある水銀灯の光が届くには届くがやはり薄暗い。時間帯も遅いので人影は見当たらなかった。
 何となく落ちた沈黙に、入江は居心地の悪さを感じてしまう。そう言えば、こんな風に浜田と二人きりで話すことなど初めてだということに入江は今更気がついてしまった。沈黙に耐え切れず、何とか話題を探し、先ほどの話を続けようと思い立った。
「やっぱりアレなのかな、彼女とかいるから女子社員とか興味ないのかな?」
 ここまでプライベートに踏み込んで良いのだろうかと躊躇しながら、酔いに任せてそんなことを聞いてしまう。だが、浜田はさして気を悪くした風もなく、あっさりと、
「いえ? 彼女なんていませんよ。好きな人はいますけど」
 と答えた。
「へえ。告白とかしないの? 浜田君なら、大抵の女の子はオッケーするんじゃないかなあ」
 もともと、入江は上昇志向が強いタイプではないので、浜田のような男に反感を感じたりはしない。妬みも持たない。けれども羨ましいなと素直に思ったりはするので、この時も他意はなく、純粋な疑問からそう口にしただけだった。
「うーん。どうかなあ。俺には高嶺の花だから」
 困ったように笑いながらそう答える浜田に入江は驚いてしまう。こんな男に高嶺の花だなどと言わしめる女性はどんな女性なのだろうか。想像もつかない。
「そんなに凄い人なの? どんな人? ものすごい美人なのかい?」
 ちょっとした好奇心から尋ねると、浜田はますます困ったように笑った。
「どうだろう? 俺は美人だと思うんですけど。それより、中身が好きなんです。ちょっと不器用で、でも一生懸命で。誰も見ていない所とか評価の対象にならない部分でもきちんと手を抜かないで仕事するとことか」
 少し照れたように浜田が答えるのを見ながら、入江はへえ、と少し感心してしまう。何となく、外見を重視するタイプの男だというイメージがあったので意外だった。
「まあ、俺のことなんてどうでもいいじゃないですか。それより入江さんは大丈夫なんですか? 早く帰らないと、奥さん、怒るんじゃない?」
 屈託無く尋ねられて、入江は思わず表情を曇らせてしまった。少しだけ逡巡して、それから微かに酔いの残った頭で、別に構わないかと思った。浜田もプライベートな話を打ち明けてくれたのだ。自分も話さなくてはフェアではないと、まったく見当違いの理屈で自分を納得させる。
「…怒らないよ。もう、奥さんじゃないから」
 なるべく口調が暗くならないように、苦笑いを浮かべながらそう言うと、浜田は、え? と酷く驚いた表情を浮かべた。
「会社の人は、ほとんど知らないんだけどね。先月離婚したんだ」
 おどけた口調になるようにと注意しながら言ったつもりだったが、浜田は驚いた顔からだんだんと深刻な表情へと変わる。ああ、まずい事を言ったかなと入江は少しだけ後悔した。
「いや、ほら、俺みたいなうだつの上がらないダメな男に愛想をつかしたんじゃないかなあ。俺も、浜田君みたいなイイ男だったら良かったんだけど」
 あはは、と笑いに紛れさせてそんなことを言ってみたが、浜田は少しも笑ったりしなかった。それどころか、怒ったような憮然とした表情を浮かべて、
「入江さんは、ダメな男なんかじゃないです」
 と語気を強めてそんな事を言った。別に、慰めてもらいたいだとか、否定して欲しくて言った言葉ではなかったので、入江は戸惑ってしまう。何と返して良いか分からずに、浜田の顔をぼんやりと眺めていると、はっとするような真っ直ぐな瞳で見つめ返されてしまった。
「入江さんは、ダメな男なんかじゃありません」
 浜田は重ねて言う。
「俺はちゃんと知ってます。そりゃ、入江さんはクライアント、数を多く取ってくるわけじゃないけど、でも、一度ついたクライアントは絶対離れない。仕事も早くは無いけど、その分、確実で絶対にミスを出さないってこと」
 真剣な目で見つめられて、そんなことを言われ入江はますます困惑してしまう。そもそも、この目の前の部下が自分の事をそこまできちんと見ていたなんて考えてもみなかった。
「…あ…いや…その…慰めてくれてありがとう」
 はははと乾いた笑いを浮かべながら、茶化そうとすると、浜田はムッとしたように口を引き結んだ。
「慰めてなんかいません。本当のことを言ってるだけです」
 きっぱりと断言されて、入江は言葉に詰まってしまった。褒められているはずなのに、なぜだか気まずい気持ちになる。なぜ、浜田がこんな風に自分を真っ直ぐ見詰めてくるのか分からずに、入江は俯いた。
「入江さん」
 静かな声で名前を呼ばれ、入江は無視することも出来ずにノロノロと再び顔を上げる。だが、浜田と視線を合わせることは出来なかった。
「入江さん、家に帰りたくなかったんですよね? だから、あんな場所で一人でウロウロしてたんですよね?」
 そうだ。入江は帰りたくなかったのだ。誰も自分を待つ人がいない場所へ。外から、真っ暗な窓を見詰めるのは途方も無く寂しい。だが、それを肯定すると自分が惨めになりそうで頷くことも出来ない。
「俺は、入江さんを帰したくありませんでした。だから、追いかけてきました」
 静かな、けれどもはっきりとした口調で浜田は言った。自分を帰したくなかった。それはどういう意味なのだろうか。考えてみてもきちんとした答えが出せずに、つい、入江は浜田に視線を合わせてしまう。
 予想もしていなかった優しげな表情が目に入り、入江は首を傾げる。
「……どうして?」
 どうして、自分を帰したくないのか。
 浜田は、やはり優しげな表情のまま口元を少し緩める。
「どうしてだと思いますか?」
 少しずつ近づいてくる浜田の顔をぼんやりと眺めながら、なぜか、入江は逃げようとは思いつかなかった。

 フワリと遠慮がちに触れる唇。
 微かに遠くから聞こえてくるクリスマスソング。
 視界の端に写るライトアップされたショッピングモールの残像。

 コーヒーとビールの苦味が混じりあい入江の口内に広がる。けれども、その苦味はなぜだか入江には優しいもののように感じた。
 驚いたように大きく見開かれた入江の瞳を真っ直ぐに見つめながら、浜田は、もう一度、
「帰したくありません」
 と笑った。






 God's in his heaven, All's right with the world.



novelsトップへ