『010:トランキライザー』 ………………… |
かしましく鳴き喚いている蝉の声が聞こえる。夏の日差しは強すぎて、思わず目を細めながら窓の外を眺めると、不意に風が吹き抜けて、校庭に立っている、青々と茂った銀杏の葉がザッと大げさな音を立てた。銀杏の木から少し離れているところにある花壇には、真っ赤なサルビアと、黄色い向日葵が各々の陣地を主張するようにそれぞれ塊を作って群生している。用務員らしき男性が、ホースを引っぱり出して花壇の花に水をやり始めるのを、教室の机に頬杖を付きながら、歩(あゆむ)はぼんやりと眺めていた。 教室の中は完全に空調が利いており、外の暑さが嘘のようにも思える。それが、逆に空々しさを感じさせて歩は、無性に教室を飛び出して、熱い大気の中に身をさらしてしまいたいという欲求に駆られた。 窓の外には用務員の持つホースから飛び散る水飛沫が、夏の強い日差しに七色のアーチを作るのが見える。 小さな頃は、なぜそんな風に小さな虹が出来るのか不思議で、いつまでもそれを眺めていたものだったが、学校で、それは単に光の屈折率の違いで七色に分解されるのだと教えられて以来、何となく、興味が薄れ、さして不思議なものでもなくなってしまった。 不思議なものは、不思議なままにして置いた方がいいこともあるのにな、と、歩は、ぼんやりとその七色のアーチを見つめ続ける。すると、あまりに、あからさまによそ見をしているので、教師に咎められ、仕方無しに、歩は外を眺めるのを諦めた。 正面を向いて、一応、教師の方を見てはみたが授業の内容など、到底頭の中には入ってこない。短歌だの、古語だのという興味の持てない言葉の羅列が意識の表面上を上滑りしていく。 今日で補習も終わり、本格的な夏休みに突入する。 美弥(みや)や達也(たつや)に、やれプールだの夏祭だのに誘われていたが、何となく気乗りのしない夏休みだな、と歩は溜め息を一つ吐いた。 雅晴(まさはる)は、今年は高校三年で、受験勉強に忙しいらしく付合いが悪い。 美弥などは、ことあるごとにその件についてぶつぶつ文句を言っているが、所詮、自分たちは二年生で、また1年の猶予があることもわかっているので、雅晴本人に正面切って難癖を付けるような事はしない。 その代わりに、その矛先が最近は歩に向けられる。 美弥は、誰かが欠けたりすると、一番、面白くなさそうな顔をする。 自分勝手な所もあるくせに、変な所で、割と協調性を大事にするのがおかしい、と達也も言っていたが、淋しがりやなくせに、それを表に出せない美弥の意地っ張りな性格がそうさせるのだろうと、歩には何となく理解できた。 達也や博(ひろし)は、そういう所は少年らしく冷めた部分があって「仕方が無い」と割り切っているらしい。文子(ふみこ)は、何があっても特別顔色を変えるようなことはしないので、その件に関しては、悪いとも、良いとも思っていないらしかった。 歩は。 歩は、正直な所、少しだけほっとしていた。 そう、遠い過去の話ではないにも関わらず、皆の前で、自分がどんな風に雅晴に接していたのか、全く思い出せなくなってしまっていたからだ。たった数ヶ月で、すっかり変わってしまうなんてありえないと思っていたが、今ならば、「そういうこともあるんだ」と納得できる。 現に、今の自分は髪の毛の先から足の指の爪の先端まで一つの細胞を余す所も無くすっかり変わってしまったような気がした。否。変えられてしまったような気がした。 最後の補習の授業が終わり、いつものようにザワザワと教室が賑わっている。 やはり、ぼんやりと教室の外を窓から眺めているとポカリと頭を叩かれて、歩は少しだけ驚いて、手が伸びてきた方を向いた。 「何、ぼけっとしてんのよ? 授業終わったわよ」 そう言って、美弥が何やら紙切れを一枚差し出して来る。 歩は、ムッとしたように殴られた頭を抑えながら美弥を見あげた。 「何だよ」 「これ。雅晴に渡しておいて」 強引にその紙切れを歩に握らせると、さっさと踵を返して立ち去ろうとする。 歩は、その紙切れを見て慌てて、美弥を引き止めた。 「何で俺に頼むんだよ! 美弥が自分で持っていけばいいだろ?」 「いやよ! 何で、アタシが雅晴の家まで行かなきゃいけないのよ! アンタが、一番雅晴と仲が良いんだからそれ位持って行きなさいよ」 「関係ないだろ!」 「何よ。ケンカでもしてるの?」 「…ケンカなんかしてないけど…第一、雅晴、受験生じゃないか。夏祭なんて行かないよ」 「それを連れて来るのがアンタの仕事よ」 人差し指をきゅっと立て、それを歩の鼻先につけて、美弥は強引にそう言い聞かせる。その強引さに、半ば呆れ、半ば押し切られて歩はぐ、と黙り込んだ。 「ま、いい年した男二人がお手手繋いで仲良しってのもどうかと思うけど、たまには会ってきたら? 最近、全然会ってないんでしょ?」 からかい口調を含ませた言葉ではあったが、その奥底には心配の色が見える。見えたせいで、歩は胸の辺りがツキリと痛んだ気がした。言葉の前半には、ギクリとして血の気が下がったような気がしたし、後半には後ろめたさと、罪悪感に似た良心の呵責を感じた。 自分が久しぶりに全員揃って遊びたいという下心もあっただろうが、けれども、美弥は純粋に、自分と雅晴のことを心配しているようで、何となく、自分は、自分達は、それを裏切っているような気がしたのだ。 最近、全然会ッテナインデショ? 確かに会ってはいない。外では。皆の目の届く場所では。 殆ど毎日といっても良いほど、雅晴とは頻繁に会っているし、自分の家にいるよりも、下手をすれば、雅晴のアパートにいる方が多いくらいだった。別段、それを隠しているつもりはないが、だからといって、進んでそれを話題にするつもりもなかったので、自然と歩と雅晴は疎遠になっていると誤解されていたが、歩はそれを説明する気には到底なれなかった。 明らかに、それは、自分の中に巣食っている後ろめたさが原因で、歩は、無意識にため息を一つ落とす。ため息とともに視線を手元に落とすと、チラシに書かれている『夏季大祭』の大きな文字が目に入った。 昨年も、一昨年も、皆で花火を見に行った。 美弥の浴衣姿が馬子にも衣装だと騒いだり、皆で金魚掬いをしたら、文子が一番上手でみんなで意外だと驚いたり、花火が終わった後で爆竹を鳴らして遊んだりしたのはほんの一年前のことだったが、歩には、とてつもなく昔のことのように思えた。昨年の今ごろは、自分がこんな風になるなど、予想だにしていなかった。 歩は、ぼんやりと手元を見つめたまま、 「一応、言ってみるけど…来るかどうかは分からないよ? 俺も、行けるかどうか分からないし…」 と、呟く。美弥は、何か言いたそうな顔を見せたが、思いのほか、歩の表情が沈んでいるように見えて、それ以上は何も言えなくなったのか、結局、 「そ。じゃ、頼んだわよ」 と、努めて明るく言っただけで、そのまま立ち去った。 歩は、その後ろ姿をぼんやりと眺めてもう一つ、ため息を落とす。 真っ直ぐな黒い髪を揺らして、ピンと背中を真っ直ぐ伸ばして歩く姿が、美弥の潔さを表しているようで、歩は自分の中に、滾々と罪悪感が湧きあがって来るのを感じた。 美弥は、時々、厳しいけれど、決して間違ったことは言わないし、正しくあろうと自分を律している。他人に厳しいのは、自分に厳しいからだと歩は知っていた。それに反して、自分が、他人に強く言えないのは、自分が正しいと確固たる確信が持てないからだと言うことも。 本当のことを知ったら、美弥がどんな反応を返すのか想像して、いたたまれなくなった歩は堪らず目を閉じた。 キモチワルイと言って軽蔑の眼差しを向けるだろうか。 それとも、呆れて口もきいてくれなくなるだろうか。 そのどちらもありえそうで、けれども、実際はそのどちらでもないような気がした。 ふと、悲しそうに、淋しそうに歪んだ美弥の顔が浮かんできて、そんな表情は、今迄一度も見た事が無いのに、どうして、そんな風に鮮明に想像できるのだろうと、憂鬱な気分に陥る。 歩はゆっくりと目を開くと、知らずのうちに汗を掻いていた手のひらを制服のズボンにこすり付けた。 帰りに、雅晴のアパートに寄らなくては、と、自分に言い聞かせる。 雅晴は、別に、毎日来て欲しいとも、来て欲しくないとも言わなかった。最初の強引さや激しさから考えると、歩にはそんな雅晴の態度は意外だったが、まるで無関心と取れるほど雅晴は歩に何かを強要したりはしない。歩の自主性に任せるような空気を作ろうとしている。けれども、時折、ふとした場面で抑え切れずに零れてしまう。 雅晴の内包するものが、どれだけ激しいものか歩にもうっすらと分かっていた。 それを、強固な意志で抑え込んで無関心を装っていることも。 歩が訪れようが、訪れまいが、雅晴は特に態度を変化させることが無いように見えたが、一度、あまり頻繁に訪れては悪いのではないかと、歩が余計な気を回した時に、かなり、雅晴が苛々していたこと思い出し、歩は自分の腿の上できゅっと拳を握った。 歩が、雅晴の顔色を窺うと、雅晴は酷く機嫌を悪くする。 歩が、雅晴のアパートに訪れるのは、歩が来たいからなのか、それとも、雅晴の機嫌が悪くなるのが怖いからなのか、と、問い詰められたこともある。 歩は、どちらとも答えることが出来ずに、ただ、困ったようにおどおどしていただけだった。 終いには、雅晴は、呆れ果ててしまったのか、 「歩に、そんなことを聞いた俺が馬鹿だった」 と、吐き捨てるように言って、その会話はそれで終わった。 歩が、自分の欲求を優先できないのは、その育った環境に原因がある。 歩は幼い頃母親と死に別れ、父親は仕事に没頭して家庭を顧みない人間だった。そのせいで、歩はずっと親戚の家に預けられ、常に「他人」と一緒にいて、他人の顔色を窺う必要があった。そうしなければ、やってこれなかった。そのせいで、知らず知らずのうちに、その性質が身についてしまったのだ。 自分の前に、まず、他人。 他人が、不快を感じていないかどうかがまず、真っ先に浮かぶ心配事で、自分の欲求は二の次になる。あるいは、最初から自分に手に入るものなど何も無いと諦めきっているから、痛烈に何かを欲しがる、ということが、歩にはとんと無かった。それが、雅晴の不興を買うのだと言うことを理解するには、あまりに歩は「与えられる」と言うことを知らなすぎた。 自分には何も与えられないと思っているから、他人が自分に好意を向けるなどと、想像も付かない。他人は全て自分を嫌っている、という所が基点になっているから、尚更、雅晴の苛立ちなど理解できるはずも無かった。 「今、帰り?」 雅晴のアパートに向かおうと校門をくぐったところで、後ろから声を掛けられる。聞きなれた、澄んだ声に歩が振り返ると、文子が無表情に立っていた。 「あ…と。うん。…その、雅晴の家に寄っていってから」 しどろもどろに、歩が答えると、文子は興味が無さそうに、「そう」と、相槌を打ってスタスタと歩の横を通り過ぎる。いつも通りのそっけない態度に歩は苦笑いし、その横に並ぶようにして一緒に歩きはじめた。 歩と文子の家は方向が全く逆になる。雅晴と文子のアパートが比較的近所で、文子には何度か偶然雅晴のアパートの近くで会っているので、歩と雅晴が頻繁に会っていることを文子は薄々気が付いているようだった。けれども、文子はそれを誰かに言ったりする性格ではない。だから、仲間内の誰もが、歩と雅晴が疎遠になったと勘違いをしたままなのだ。 歩は、何故だか、この無表情でそっけない少女に安心感を抱いていて、他の人間には恐ろしくて言えないと思う事も、すんなり話してしまうことがある。もちろん、雅晴との『本当の関係』をバラしてしまうことなど到底出来なかったが、肝心な部分を省いて雅晴とケンカしたことを話したこともあった。 別段、文子はそれに対して何か言葉を返すことなど無かったが、時折、その態度や仕種に何となく薄々二人の関係を分かっているような匂いを覗かせた。けれども、文子は決して批判や侮蔑の色を浮かべることが無いので、歩は何とはなしに安心感を抱いてしまうのかもしれない。 言葉も無く、二人並んだまま夕暮れの道を歩く。歩は、しばらく、地面を見ながら考え事を続けていたが、ふと、美弥に押し付けられたチラシを思い出して顔を上げた。 「そういえば、美弥も夏祭行くの?」 「別に。用事が無かったら行くけど。その時になってみないと分からないわ」 「……そっか」 悪意が無いのは分かっていても、にべも無い返事を返されて、歩は苦笑する。それ以上は、会話が続かなくて歩が黙り込んでしまうと、不意に文子はピタリと足を止めた。何かあったのかと、歩も少し先で足を止め、不思議そうな表情で文子を見詰める。 「歩は?」 「え?」 「歩は行かないの?」 突然、真っ正面から真っ直ぐに見詰められ、歩は言葉に詰まる。文子の薄茶の目は雅晴のそれと同じ色で、その効力まで、時として同じような気すらした。欺瞞や誤魔化しを許さない。ただ、どこまでも澄んでいて真っ直ぐなその眼が、原因の分からない罪悪感に歩を追いやる。歩をギリギリの所まで追いつめて、自分の中の膿をムリヤリ吐出させられるような、そんな恐怖感を感じて、歩はつ、と、目線を逸らして、自分の爪先の辺りを見つめた。 「…わからない。…行かないかもしれない」 歩が、小さな声で答えると、文子は僅かにその形の良い眉をあげた。 「そう。珍しいのね。去年は、一番楽しんで、はしゃいでいたのに」 何気の無い文子の言葉に歩は、ズキンと胸の奥が痛んだ気がした。文子は、決して他意があって言ったのでは無く、単純に、浮かんだ疑問を口にしたに過ぎないのだろう。けれども、歩は、何かを責められたような気がして落ち着かなくなった。 文子は、そんな歩に構う事無く再び歩きはじめる。何時の間にか太陽はすっかり沈んでしまい、辺りは仄昏い青灰色に包まれていた。吹き抜ける夕暮れの風は、涼しく、肌に心地よかったが、歩は、じっとりと背中に滲んだ汗が、どうにも不快に思えてならなかった。 「俺だって、そんなに、いつまでも子供じゃない」 文子の少し後ろをついて歩きながら、歩は、言訳をするようにポツリともらした。けれども、自分で発した言葉に歩は複雑な心境に陥る。自分が、どうしようもなく変わってしまって、去年の自分の欠片などこれっぽちも残っていないような喪失感を感じると同時に、自分が何も分かっていない酷く愚かな子供のように思え、もどかしさを感じた。 子供なのに子供ではない。 その、白とも黒ともつかない中途半端な状態が歩に焦燥感を与える。それは、雅晴と一緒にいる時に度々感じる焦燥感に酷く似ているような気がした。 文子は、歩の言葉が聞こえたのか、聞こえていないのか、それには何も言わずに黙々と歩き続ける。その背中が自分を拒絶しているような錯覚に陥り、歩は泣きたい気持ちになった。 そのまま、二人で少しの距離を置いたまま歩き続けていると、文子は不意に突き当たりで立ち止まった。この突き当たりを右に折れると雅晴のアパートがあり、左に折れると文子の自宅がある。 文子は歩の方を振り返ると微かな笑みを浮かべた。 文子はもともと表情に乏しく、思い切り笑ったり怒ったり泣いたりすることをしない。 けれども、何故だか歩には、文子の微妙な表情の変化が理解できるのだった。 その時の文子の表情は酷く穏やかで、泣きたいような気持ちになっていた歩にはとても意外だった。そして、それは、歩に不思議な安堵感を与える。 別に、歩は何か悪い事を文子に対して行った訳では無いが、何かを「許されている」ようなそんな感覚に陥った。何をしても、文子は歩を責めないし否定しない。そんな根拠の無い確信めいたものが歩の中には巣食っていて、だから、歩は文子の近くにいると安堵するのかもしれなかった。 「雅晴によろしく」 余計な言葉は言わず、ただそれだけを伝えると、文子は突き当たりを左に折れて再び歩きはじめる。歩は、返す言葉も無くただ僅かに頷き、文子の後ろ姿をじっと見送った。 ポツリポツリと灯っている、薄暗い街灯の下で、文子の制服の白さが奇妙な清潔さで浮かび上がっている。 全てを知っているのに、全てを黙っている。 全てを知らん振りで干渉をせず、関心を示さない。 それは、時として冷たい印象を与えるかもしれないが、歩には不器用な優しさのように思えてならなかった。 小さくなっていくその奇麗な背中を見詰め、やがて、それが完全に夕闇に溶けてしまうのを見届けると、歩は踵を返し、その突き当たりを右に折れた。そのまましばらく歩いていると雅晴のアパートに辿り着く。雅晴の部屋は、二階の一番端の部屋で、道路に面している。アパートの下から、その部屋を見上げると、明かりが点いていて、その部屋の住人がいることを伝えていた。 歩は、無意識に拳を腿の脇でぎゅっと握り締める。それから、まるで、何か悪い事をしようとしているかのように、ソワソワと周りを見まわし、誰もいないことを確認すると、アパートの階段を早足に駆け登った。 トントンとドアをノックすると、「はい」と、聞きなれた声がする。何度も聞きなれているはずなのに、歩は、何故か心拍数が急に上がったような気がした。 ガチャリと音がして僅かにドアが開かれる。雅晴は、歩の姿を見つけると、穏やかな笑いを浮かべて「いらっしゃい」と、中に入るように促した。こんな風に、穏やかな表情が雅晴の本質なのか、それとも、時折見せる激しさが本質なのか、歩は計り兼ねて、いつも戸惑う。 雅晴の激しさを知ったのは、ほんの三ヶ月ほど前の事だ。 それまでは、歩は、声を荒げる雅晴だとか、強引で少し乱暴な雅晴だとか、前後不覚に陥る程、衝動的な雅晴など全く知らなかった。いつも、優しくて、穏やかで、うっすらと笑いを浮かべて、少し離れているところから自分を見守っているような、そんな雅晴が雅晴だと思っていた。 それを知ったことは幸か不幸か歩には判断が付かないが、時折、酷く逃げ出したい気持ちになってしまうことがある。抜け出すことの出来ない深みに足を踏み入れてしまったような、決して戻ることの出来ない道に迷い込んでしまったような、そんな先の見えない不安に押しつぶされそうになるからだ。 歩は、戸惑いながらも促されて部屋の中に足を踏み入れる。 テーブルの上には参考書やノートが散らばっていた。 「勉強の邪魔して、ゴメン」 申し分けなさそうに、雅晴の顔を見て歩が謝ると雅晴は「かまわないさ」と笑った。 雅晴がさりげない仕草でノートや参考書をしまって行くその指先を、歩はぼんやりとした頭で眺めている。いつから、こんな風になってしまったのだろうと歩は考えたが、自分では意識していなかっただけで、初めて雅晴の部屋を訪れたときからこうだったような気もした。 酷い罪悪感。 初めて雅晴の部屋に訪れた時は、特別なことが起こったわけでもなく、何時間か話をして帰っただけだったが、それにもかかわらず、やはり歩の深層には落ち着かない罪悪感のようなものが巣食っていた。 自分はここにいても良いのだろうかという疑問と不安。けれども、それと同時に感じる、雅晴に会わなくてはならないという切迫観念。その矛盾に歩は喘ぎつづけているような息苦しさを感じた。 雅晴が空けてくれた場所に腰を下ろすと、その向かいに腰を下ろした雅晴がじっと自分を見つめていた。歩は雅晴の薄茶の瞳が決して嫌いではなかったが、どうにも、苦手だという認識は捨てきれなかった。好きなのに苦手だという矛盾が成立するのだと言うことを、歩は雅晴と「そういう関係」になってから初めて知った。 自分を見つめてくる薄茶の瞳に居たたまれなくなり、何か話題を振らなくてはと大して効率よく動いているとも思えない頭で考える。手のひらの汗をズボンで拭おうと落ち着き無く自分の足を乱暴に撫でるとカサリという手応えがあって、歩は是幸いと慌ててその紙切れをズボンのポケットから取り出した。 「あの…これ、美弥に渡されたんだけど。今年も一緒に夏祭りに行こうって」 歩が美弥に渡されたチラシを広げると、雅晴は僅かに目を伏せ、じっとそのチラシを見下ろした。 「…君は?」 「え?」 「…歩は?」 「え? …俺が? 何?」 「歩は、行くのかって」 苦笑いしながら雅晴が尋ねてくるのを聞いて、歩は頬を赤く染める。 「…あ…。俺、俺は…」 答えようとして歩は言葉に詰まった。雅晴の前に行くとなぜだか頭が混乱して、何を言いたいのか、どうしたいのか自分で分からなくなってしまうことが多々ある。それでも、無理矢理言葉にすることもあったが、やはり、自分が言いたいこととは何処か違うような気がして、最近は言葉にするのを諦めることも多かった。 「…俺は、どうだろう…どっちでも……」 曖昧な口調で歩がぼんやりと答えると、雅晴は一瞬、意味深な視線を歩に向け、だが、歩がそれに気がつく前に、すぐに視線をチラシに落とした。 「たまには、気分転換も良いかもな。俺は行くから歩も行くだろう?」 微かに、口の端を上げて雅晴は言った。一見すると、雅晴の表情は笑っているようにも見えたが、だがしかし自嘲の色がありありと浮かんでいるのは否定できなかった。もっとも、歩にはそこまで察することが出来ないので、その雅晴の表情は「人が悪い表情」だとか「意地悪な時の顔」としか認識できない。だが、雅晴はそういう印象を植え付けるために態と表情を作っているので、ある意味正しい認識ではあったが。 尋ねられて、歩は弾かれたように顔を上げる。歩の顔には明らかに、動揺と戸惑いが浮かんでいて、あまりの予想通りの反応に雅晴は笑い出したくて仕方の無い気分に陥った。 「で…でも…」 「でも? 何?」 雅晴は歩が答えられないのを分かっていながら、態とらしく優しい笑い顔を作って追い詰める。そんな子供っぽい自分に呆れ、自嘲的な気分になったが、歩を責めたり困らせたりすることに自虐的な快感を覚えることも否定は出来なかった。 「俺は…」 「俺は?」 殊更優しい口調で雅晴が歩を問い詰める。こう言うところは、質が悪い、本当に質が悪いと幾らか雅晴を恨めしく思いながら歩は投げやりに言葉を吐き出す。 「俺は、あまり、行きたくない」 「なぜ? 去年は、歩が一番はしゃいでいたじゃないか」 子供を諭すような穏やかな笑みを貼り付けて告げる雅晴が、いかにも態とらしいと歩は唇を無意識にかみ締めた。 「…皆の前で、どうしたらいいか分からない」 雅晴は、答えにくそうに歩が呟いた言葉に「何が?」とは、尋ねなかった。たった、三ヶ月の間に何度も何度も繰り返された会話だからだ。 「どうして、歩はそんなに気にするんだろうな」 雅晴が呆れたように言うのを歩は忌々しい気持ちで聞いた。時として、人間の外見はその中身を裏切る。いかにも繊細、と言ったような風貌の雅晴が、実際のところ、かなり無神経であることを歩はその身をもって知っている。時折、歩がついて行けないと戸惑ってしまうほど。 「雅晴が、気にしないほうが俺には分からないよ…」 歩が拗ねたように顔を背けて言うのを見て、雅晴は苦笑いした。 「つまり、俺が行かなければ歩は夏祭りに行く、ってことだな」 雅晴が笑いながら投げかけた質問に歩はぱっと顔を上げる。はい、とも、いいえ、とも答えられない質問を雅晴が歩に問いかけるのは良くあることで、歩はどう考えても嫌がらせをされているとしか思えない。 「だから、そういうことじゃなくて…」 「そう言うことだろう? そんなに怖いのか?」 冷めた口調で突き放すように問いかけられ、歩はますます言葉に詰まる。以前は、雅晴はこんな風に歩を追い詰めるような事を絶対に言わなかったのに、最近は、進退極まるような質問ばかりされているような気がした。 「…だって、こんなの変じゃないか。皆に軽蔑されたりしたら、どうしたらいいか分からない」 自分の中の混沌とした迷いを、歩は考えること無しにそのまま口にした。よくよく考えれば、明らかに、その発言は雅晴の逆鱗に触れると言うことが分かったのかもしれないが、だがしかし、その時は口にしてしまった。 「そうだな」 冷たい声が妙に静まり返った部屋に響き渡り、その瞬間、歩は自分の失言を悟った。 「…あ…」 慌てて顔を上げ、何とか言葉を繕おうとしたが、時既に遅く、雅晴の周りにははっきりとした拒絶の壁が立ち塞がっている。そうなってしまうと歩に為す術は無く、諦めたように立ち上がり、等閑な挨拶を適当にくれて部屋を後にするしかなくなるのだ。そんな風に、すぐに諦めてしまうところに、雅晴が酷く苛立ちを感じているなど毛頭も気が付きもせずに。 歩は悔しさと悲しさがごちゃ混ぜになった気持ちのまま、帰宅の途を急いだ。 他人の「拒絶」は、酷く痛い。もっとも、歩が苦手とするところだ。雅晴の悪いところは、それを知っていながら態と歩にそう言う仕打ちをする事だったが、そう言った行動に出てしまうほど雅晴を追いやっているのは他ならぬ歩であると言う事が、歩には理解できない。 上手く裁けない感情を互いに持て余したまま、喧嘩別れのようにその日は別れてしまった。 *** トントン、と白い指が机を軽くたたく。 その音に気が付いて、雅晴は読んでいた本から目をそらし、顔を上げた。 「何だ、文子か」 「何だとは、お言葉ね」 言葉尻を取り上げられて、雅晴は苦笑いし、感情の読みにくい文子が不機嫌であることを知った。もっとも、原因は分かりすぎているほど分かっているが。 「わざわざ、三年生の教室まで来て、特別の用事でもあるのか?」 「夏祭り」 さりげなく刃を削ごうと穏やかに問いかけてみたが、文子は雅晴に対しては殊更素っ気無く、必要以上に言葉を飾らない。用件だけを伝えてくるのは、気を使っていないからなのか、それとも、自分の何処かしらが気に入らなくて嫌われているせいなのか、雅晴には未だに判断が付かないのだった。 「夏祭りが何?」 「行くの?」 せめて、主語位は付加してほしいと思いながら雅晴は小さくため息をついた。 「考え中だよ。どうして?」 「歩、行かないそうよ」 質問の答えになっていない答えを返されて、やはり不機嫌の原因はそこかと雅晴は肩をすくめた。 「それと俺が行くかどうかが、どう関係あるんだ?」 「昨日、歩が行ったでしょ?」 文子の言葉がどんどん少なくなっていくのは、怒っている証拠なのだと雅晴は知っていたので、いい加減に誤魔化すのは諦めて文子の顔を真っ直ぐに見詰める。 「来たよ。でも、俺は一言も夏祭りに行くななんて言ってない。俺が行くと言ったら、歩は行きたくないと言ったんだ」 真面目な口調で雅晴が答えるのを聞いて、文子は僅かに目を見開く。 「どうして?」 驚いたような、不思議そうな口調で尋ねられて雅晴は自嘲的な笑いを浮かべた。 「さあね。俺と一緒にいるのが嫌なのかな?」 「茶化さないで。嘘は嫌い」 責めるような口調で問い詰められて雅晴は深々とため息をついた。 「嘘なんてついていないさ。皆の前で二人でいると、バレそうで怖いんだろ」 「バレそうで? 何が?」 訝しげに眉を寄せ、首を傾げた文子を態と下から覗きこみ、雅晴は人の悪い笑いを浮かべた。 「俺は、雅晴とセックスしています、ってバレるのが怖いんだろ?」 人を小馬鹿にするような口調で、文子に告げると文子はその薄茶の瞳を大きく見開く。だがしかし、さして衝撃を受けた様子も無く、すぐにいつもの無表情に戻った。 「バレるとどうして怖いのかしら?」 明かされた事実に動揺しておらず、純粋に疑問しか浮かんでいない口調で文子は呟いた。その態度に、やはり感づいていたのかと文子の鋭さに苦笑いを浮かべて雅晴はガタン、と、椅子の背もたれにだらしなく体を預ける。 「さあね、皆に軽蔑されて嫌われるのが怖いんだろ」 「そんなことで、歩を嫌うわけ無いのに」 歩に対する労りのせいなのかどうなのか、その口調に柔らかさと穏やかさが滲んで、雅晴は少しばかり面白くない気分で視線を本に戻した。 「じゃあ、歩に言ってやるんだな。歩が俺とセックスしてても嫌いになったりしません、って」 吐き捨てるように文子に言うと、文子はあからさまに眉を顰めた。 「どうして、雅晴はそうなの?」 「何が?」 「歩が可哀想だわ」 「そうかな。俺のほうが可哀想だと思ってくれないのか?」 雅晴は自嘲的な笑みを浮かべて、文子に視線を移す事無く、気のなさそうな返事を返す。 「どうして、そんな風に歩から全部を取り上げようとするの?」 刺すような、咎めるような口調で尋ねられ、雅晴はすっと表情を無くした冷たい能面の顔で文子を見つめた。 「俺が? 君が、君達が、ではなくて? 歩を縛り付けてるのは君達のほうだろう?」 全く、一切の感情を覗かせない冷たい口調で雅晴は告げた。その冷たさに、普通の人間だったならば引いたかもしれないが、文子は引かなかった。殊更、強い口調で雅晴を責めた。 「たった二人きりで生きて行けるとでも思っているの?」 「思うね」 「雅晴が思うのは勝手だけど、だからって、それを歩に強要するのはやめて」 「どうして? そんなの、不公平だとは思わないか?」 その能面の上に、完璧な作り物の笑顔を浮かべて雅晴は尋ねた。何も知らない人間が見たのであれば、恐らく、雅晴が上機嫌であると思ってしまうような完璧な笑顔。 けれども、文子は、雅晴がそんな表情を見せるのは、相当に切羽詰っている状態の時だけだと知っていた。 文子は自分でも気が付かずに、無意識に歩に対して母性愛に近いような感情を寄せていたが、だからと言って雅晴に対して嫌悪感や悪い感情を抱いているわけではない。どちらかと言うと、傍観している立場を取っていたが、雅晴のその表情や、精神状態は、文子で無くとも危ぶまずにはいられないものだった。 「俺は、他の人間にどう思われても構わない。歩がいればいいんだ。なのに、歩はそうじゃないなんて、不公平だ。実に、不公平だね」 文子に向かって言うのではなく、当ても無く、宙に向かって雅晴は呟く。文子は言葉が見つからないまま、ただ、じっと雅晴を見つめ続けていた。 **** いつもは寂れた川原の土手に、賑やかに屋台が建ち並ぶ。浴衣を着た親子が楽しそうな表情で歩いていくのを、窓際に肘をついて、歩はぼんやりと眺めていた。 結局、美弥には夏祭りには行かないと告げた。雅晴が美弥にどう返事をしたのかは、聞いていないので、雅晴が、今、どうしているのか歩には分からなかった。 あれ以来、雅晴の家には行っていない。雅晴からも敢えてコンタクトを取ろうとしていないのか、全く音信不通の日々が続いていた。本当は、雅晴の部屋を訪れたいと思ったことも何度かあったが、最後の別れ際の拒絶が歩を臆病にしていて、どうしても一歩が踏み出せなかった。 せっかくの夏休みなのに、どうして、こんな風に腐った気持ちで過ごさなくてはならないのか。本来ならば、皆と楽しく夏祭りを楽しんでいるはずだったのに、と考えると、雅晴を逆恨みしたい気分にもなってくる。 第一、歩は夏祭りが嫌だったのではなく、皆がいるところで雅晴と一緒に行動することに抵抗があっただけで、もし、雅晴と二人きりで夏祭りに行くのであれば、嫌だとは思わなかったのかもしれない。と、そこまで考えて、歩は肩をすくめて苦笑いした。 「酷いな。せっかく、美弥達が誘ってくれたのに」 自分の考えを責めるように、歩は独り言を漏らす。その罪悪感こそが歩の執着であり、雅晴の敵であったが、内罰的な考え方に慣れ親しんでいる歩には、それを察することなど到底出来なかった。 「…雅晴、まだ、怒っているのかな」 非は、決して歩にだけあるのではなく、雅晴も相当に理不尽なことを言っていたことをすっかり失念して歩は憂鬱そうに溜息をついた。正直な話、歩には雅晴の逆鱗がどこにあるのかはっきりとは分かっていない。何気ない言葉を吐き出した瞬間に、突然に突き放したような冷たい態度を取られることがある。そのくせ、時々、狂ったように歩を求めるので、尚更、歩は対処に困ってしまうのだった。 だがしかし、雅晴に求められることは、歩にとって、決して不快ではなかった。それどころか、ある種の喜びすら感じている自分を歩は自覚していたが、孤独を厭うトラウマがそう感じさせるということには気が付いていなかった。それが、時折、雅晴にどうしようもない焦燥感を与えると言うことにも。 本来の性質を捻じ曲げられて、女のように扱われることに抵抗が無いわけではなかったが、だからと言って、拒絶することも適わなかった。 遠くから、お囃子の音が流れ聞こえてくる。 もう、一時間も経たないうちに夏祭りのメインである花火大会も始まるだろう。文子や美弥や、達也や博は金魚掬いでもしているのだろうかと、いつもより明るくにぎわっている川原の方向をぼんやりと眺める。 途端に、自分が途方も無く孤独であるように思えて、歩は泣きたいような気分に陥った。 すると、ピンポン、と呼び鈴の音が鳴ったような気がした。 空耳だろうかと思い、玄関のほうに意識を集中すると、やはり、もう一度呼び鈴が鳴らされた。 歩は、こんな時に一体誰だろうかと首を傾げて玄関に足を運ぶ。 ドアノブをゆっくりと回し僅かにドアを開くと見慣れた人の姿が目に入って、歩は酷く驚いた。 「……雅晴……」 「こんばんは」 何日か前に半ば喧嘩別れのように別れた事など嘘のように、晴れやかな笑顔を浮かべ雅晴は挨拶する。その態度に面食らって、歩は一瞬戸惑ってしまった。 「ど…どうして? な…夏祭りは? もう少しで花火、始まっちゃうよ?」 歩が落ち着かない様子で告げると、雅晴は軽く首を傾げ、苦笑いした。 「歩が行かないならつまらない」 事も無げに言い放たれて、歩は嬉しいような泣きたいような複雑な心境に陥る。なんと言葉を返せば良いのか分からないまま、じっと雅晴の顔を上目遣いで見つめた。 「それで? どうするんだ?」 「え…? な…何が?」 「今なら、まだ、花火大会には間に合うけど?」 尋ねられて、歩は逡巡する。確かに今から行けば花火大会には間に合うかもしれなかったが、もし、二人で行って皆に会ってしまったらどうしようと考えると、余り、行く気にはならなかった。歩は自分の足元に視線を落とすと、心なしかトーンの落ちた声で、 「…あんまり、気分じゃないけど…」 と、答えた。 「ずっと、家にいるつもり?」 「…多分…」 「上げてくれないのか?」 「え?」 「俺は、このまま帰るべき?」 珍しく、雅晴が困ったような笑いを浮かべているのに気が付き、歩は慌てて雅晴を家に上げた。 「歩の家に来るの、久しぶりだな」 「そうかな? そういえば、最近は、雅晴の家にばかり行ってたから…」 何気なく答えたつもりの言葉に、歩はまたいつもの奇妙な罪悪感を覚える。その居心地の悪さに口を思わず噤んでしまうと、雅晴は気が付いているのかいないのか、面白くなさそうに僅かに目を伏せた。 雅晴を部屋に通すと、歩はお茶を出しに台所に戻る。冷えた麦茶を持って部屋に戻ると、雅晴は窓から外の様子をじっと見詰めていた。 「エアコン付けてないのに、この部屋は涼しいんだな」 「あ、うん。冷房嫌いなんだ。暑い?」 「そんなことはない。風が涼しくて気持ちが良い」 「うん、この部屋、風通しが良いから夜は冷房が無くても平気なんだ」 「ふうん」 歩の方を見る事無く、雅晴はじっと、2階の窓辺から遠くを眺めている。いつもは人影がまばらな住宅街に沢山の人間が出ていて、皆一様に川原に向かって歩いているのが見えた。その誰もが軽い足取りのように思えて、雅晴はどうしようもなく疎外感を感じる。あの人ごみに埋没できないのは自分のせいなのか、歩のせいなのか考えて、結局答えなど出ないことに気が付いて思考を停止する。 今の雅晴にとって、他の事などどうでも良いことだった。ただ、今、目の前にいる人間以外は。 「歩」 雅晴は窓の桟に腰掛けて部屋の中に座って麦茶を飲んでいる歩に向き合った。 「何?」 「したい」 「え?」 歩は雅晴の言葉に、顔を上げる。一瞬、聞き違えたのかと思って雅晴の顔を見ると、そこには酷く面白がっているような表情が浮かんでいて、歩は雅晴の真意を測り兼ねた。 雅晴は、戸惑ったような歩の姿にますます笑いを深め、桟から立ち上がると歩に近づき、麦茶の入ったグラスの横に投げ出されている手に自分の手を重ねる。 「いい?」 きゅ、と重ねた手に力を入れられたせいでようやく歩は雅晴の言わんとしていることを理解し、微かに頬を染めた。雅晴が、こんな風に許可を求めることは滅多にない。普段は、何とはなしに言葉が少なくなって、空気が微妙に変わったことで歩はそれを悟ることが多かったから、なんと答えて良いのか分からずに口篭もった。 「駄目?」 「そ…そう言う訳じゃ…」 歩は俯いて、ますます顔を赤くしたが雅晴は歩の手を離そうとはしなかった。 「イイ?」 俯いた歩の下に回りこみ、見上げるような格好で、雅晴は楽しそうに尋ねた。真正面から、その薄茶の瞳に捉えられ、歩は視線を逸らすことが出来なくなる。もうどうしようもない、と、目を閉じて深々と息を吐き出し、 「いいよ」 と、短く答える。あとは、いつものお決まりのパターンで、歩は理性と本能の間を行ったり来たりさせられながら、結局は流されていく。気持ちが良いとか苦痛だとか、そう言う問題ではなくて、歩はしている時の真っ白になる感覚が嫌いではなかった。モラルだとか、学校だとか、友達だとか、そう言う煩雑なことが頭の中から全て消えうせてしまうのが、酷く心地よかった。 いつものように流され始めて、真っ白になりかけた時だった。不意に、ピタリと雅晴が動きを止める。歩は、何処かに行きかけていた意識を突然に引き戻されて、それでも一旦上がってしまった息を押さえることは出来ずに、薄い胸を激しく上下させながら雅晴を見上げる。 「ま…雅晴…?」 雅晴はそれまで抱いていた身体からふと視線を逸らし、窓の方向に目を向けた。 「…音」 「…え…? お…と…?」 雅晴は歩の足を抱えたまま、歩の耳元に口を寄せた。その反動で歩は短いうめき声を上げる。 「花火の音がする」 雅晴に耳元でささやかれて、半ば朦朧とする意識の隅で、何とか言葉を理解しようと歩は頭を働かせる。言われたとおりに耳を澄ますと、ガラスとカーテンに遮られている鈍い花火の爆発音が確かに聞こえた。雅晴は再び体を起こすと歩の足を抱えなおす。 「今ごろ、皆、花火を見ているんだろうな」 わざと、もどかしく、ゆっくりと雅晴が動くせいで歩は意識を完全に飛ばすことが出来ない。中途半端に思考の残る頭で、嫌でも文子や美弥の顔を思い出させられた。 「な…で…そんな…こと…」 「皆、俺達がたった今、こんなことしてるなんて想像もしていないだろうな」 雅晴は意地の悪い口調で言うと、ぐ、と歩の身体を押し付けた。歩は短く喘ぎ、身体をヒクリと反応させ、きつく閉じた眦から、つ、と涙を流した。もっとも、生理的な涙なのか、感情から来る涙なのかは歩にも判断がつかなかったが。雅晴はそんな歩を見つめるとほの昏い自嘲的な笑みを一瞬だけ浮かべ、再び歩の耳元に唇を寄せる。 「歩が、こんな風に泣いてるなんて、皆、知らないんだろうな」 追い討ちをかけるように雅晴は囁く。歩は、やはり、ヒクリと身体を反応させただけだった。 「なあ、気持ちイイ?」 面白がっている口調で尋ねられ、歩は無意識に唇をかみ締める。どう考えても、趣味の悪い意地悪だとしか思えなかった。 フラッシュバックのように、皆の顔が歩の瞼の裏に浮かび上がる。心配そうに自分を見ていた美弥の顔や、達也と博の笑い顔。穏やかな文子の表情。そのどれもが歩にとっての「日常」であったはずなのに、今は、そのどれもが酷く遠いものに思えた。それから、濁流のように激しく押し寄せる罪悪感と、さらにそれを上回る自虐的な官能。 「イイ?」 耳元で囁かれた幾らか低めのトーンの声に、歩は背筋がゾクリとするのを感じた。それは紛れも無い快感で歩は投げやりに、全てを放棄する。もう、何もかも、どうしようもない。「それ」以外はどうでも良い、と。 「いい…よっ…」 一度口にしてしまえは、それは、気持ち良さを増幅させる刺激剤にしかならない。その後は雅晴も、歩が意識を飛ばしてしまうことを引き止めなかった。鞴の様に声とも、息とも分からない喘ぎ声を発しつづける。ただ、ほんの僅かばかり残った意識の隅で、ずっと、花火の音が聞こえ続けているような気がした。 さらさらと、夏の宵闇の風が窓から流れこんできてカーテンを揺らす。湿った肌にその涼しい風が心地よく、歩はふうと浅い溜息をついた。 エアコンを切って窓を開けたせいで、幾ら夜風が涼しいと言っても抱き合っていては汗が滲んでくると言うのに、雅晴は子供のように、歩を後ろから抱きかかえて離さない。肩口に唇を落とされて、歩はくすぐったさに肩を竦めた。 「こう言うことだけ、していられれば良いのにな」 雅晴が、微かに笑いを滲ませた声で呟くのを聞いて、歩はその意外な言葉に首を傾げた。雅晴は、あまりそういう直接的なことを言うタイプではないし、また、そういう類の考え方をする人間でもないような気がしたからだ。 「どうして? なんだか、雅晴らしくないね」 歩は浮かんだ疑問を素直に口に乗せる。雅晴は、ふっと、苦笑いすると、歩の身体を強く抱きしめた。 「こう言う事している時だけだから」 雅晴は優しく諭すように答えたが、歩にはその答えの意味は分からなかった。けれども、「何が」とは尋ねることが出来なかった。何となく、余り知りたくない答えが返ってきそうで、その答えを聞いてしまったなら、何か決断を迫られてしまうような、そんな気がしたからだ。もっとも、その「決断」とやらが何の決断なのかは皆目見当がつかなかったし、また、それを決断したからと言って歩に何か不都合が起きるとも思わなかったが。 ただ、訪れてきた睡魔に身を任せてゆっくりと目を閉じる。それから、 「そうだね」 と、曖昧な返事を返した。 川原からやってきた風が、部屋の中に吹き込んできて、微かに火薬の匂いが紛れ込んでいたが、ただ、風の音しかしなかった。 決して、花火の音はしなかった。 |