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『002:階段』 ………………………………

 非常階段の踊り場で、いつも煙草を吸っている人がいる。ビルの外側に立て付けられている階段の、五階と六階の間にある踊り場だ。夏の暑い盛りだろうと、真冬の寒い風の中だろうと構わずにそこで煙草を吸っている。
 屋内ならともかく、ビルの外壁に備え付けられた非常階段で、だ。
 物好きな人もいるものだなあ、と、テラスにある鉢植えに水をやりながらいつも思う。
「飯島所長。水遣りくらい私がやるって言ってるじゃないですか」
 パートの八谷さんに、苦笑しながらジョウロを取り上げられた。八谷さんは二人の子持ちだからか、しっかりしていて、しかも僕に対してもどこか子供に対するような接し方をする。いくら童顔で外見が幼くとも三つしか年下じゃないので、時々複雑な心境に陥ったりする。
「八谷さん、その『所長』って言い方やめてくれないかなあ・・・」
「あら? だって、この事務所の一番偉い人なんですから、『所長』でしょ?」
 この事務所、と言っても働いている所員は僕と八谷さんの二人だけだ。
「いや、でも・・・」
「いくら新米でもれっきとした税理士先生なんですからね。ちゃんとけじめはつけないと」
 八谷さんは、半分からかうみたいに笑っていった。
 僕は25歳でようやく税理士試験に合格し、二年間、他の事務所で実務を経験した。そして、この冬、ようやく独立し、税理士事務所を設立した正真正銘の『新米』なのだ。ちなみに、実務を経験した税理事務所は向いのビルの五階にあったりする。そこの所長の水橋さんは、とても親切な所長で僕の独立を応援してくれて、しかも、自分が持っていた会社のうち割と業績の安定している会社数社を僕に渡してくれた。なので、とりあえず、細々と事務所を経営していくぶんには今のところ困ってはいない。

「それに、水遣りは水橋さんとこにいた時から僕の仕事だったから、もう癖みたいなもんなんだよ」
「まあ、今の時期、確定申告も決算も終わっちゃって暇なのは分かりますけどね」
 クスクスと笑いながら八谷さんがお茶とお団子を出してくれた。
「あ、ミタラシ団子」
「近くの和菓子屋さんで特売してました。もうそろそろお花見の季節ですからね」
「そっか。近くの河川敷の桜並木、そろそろ見頃かなあ?」
「ええ、今日辺り満開なんじゃないですか? そう言えば今夜、屋形船が出て、花火が上がるらしいですよ」
「へえ。花火か〜。ビルから見えるかな?」
「見えるんじゃないですか? でも、花火の為に仕事も無いのに残業されるんです?」
「別に良いじゃないか。どうせ寂しい一人身だからね。家に帰って一人でテレビを見てるより多少はマシ」
 拗ねたように僕が言うと、八谷さんは楽しそうにコロコロと笑った。
 窓から差し込む日差しは、もう完全に春のそれで心地がいい。眠りを誘うような暖かさ。
 平和だなあ、と思いながら何気なく窓から周囲を見渡したら、例の煙草を吸っている人と目が合ってしまった。何となく驚いてしまって、慌てて目を逸らしたけれど、一瞬だけ見えた彼の表情も、どことなしか驚いているように見えた。



「あ・・・れ・・・?」
 屋上へ行く為にカンカンと音を立てて外の非常階段を上っている時に気がついた。例のいつも煙草を吸っている彼が、やっぱりいつもの定位置で煙草を吸っていたのだ。僕は、一瞬だけ迷ってそれから今度は階段を降り始めた。彼のいる踊り場までたどり着くと、彼は驚いたような顔で振り返る。
「あの・・・ええと、こんばんは」
 戸惑いがちに僕が挨拶すると、彼も戸惑ったような表情で僕に軽く会釈してみせた。
「このビルの人ですよね? 残業中ですか?」
「え? ・・・あ、ええ、まあ」
 僕が尋ねると彼は訝しげな表情で僕を見詰めている。突然知らない人間から声を掛けられて不審がっているような様子だった。
「あの・・・今日、河川敷で花火が上がるらしいんですけど」
 僕は彼の訝しげな視線を受け止めながら、少しずつ顔が火照ってくる。春の陽気と暖かさに少しだけ浮かれていた自分を、その時になってようやく自覚した。けれども、今更話を誤魔化せるような器用さは持ち合わせていない。さらに、不審な目を向けられるのを覚悟で、僕は最初言おうと思っていた言葉を素直に口にした。
「その。もし、お暇でしたら一緒に屋上で見ませんか? あの、あの。ビールとか余計にあるし、あ、良かったらミタラシ団子とかもあるんですけど」
 即座に断られるのを覚悟して、早口で僕は捲くし立てた。その勢いに、彼は暫く呆気に取られたような表情をしていたけれど。
 不意に、フワリと優しげな笑いを浮かべて、
「良いんですか? ご一緒して」
 と答えた。
 僕の申し出は、本当に思いつきでしかなく、一人で花火を見るのも寂しいから、誰か連れがいないだろうか、とその程度だったのだが。
 彼は、本当にお愛想ではなくて誘われて嬉しいといった表情でそう言ったのだ。その表情を見て、僕はますます赤くなってしまう。こんなことでは、相手にあらぬ誤解を与えるのではないかと焦ったが、彼は少しも気にした風もなく、携帯していたらしい煙草入れに煙草を入れて火を消してしまった。
「あ、もちろん構わないです。残業のお邪魔でなければ・・・」
「残業なんて、大した仕事があった訳じゃないんですよ。見たいものがあったので、残っていただけで」
 僕が尋ねると、彼は少しだけ困ったような顔で笑った。見たいものって何だろう、と思ったけれど、何となく彼の表情を見ていたら、それを尋ねることは憚られた。
 そんな風に僕がグズグズしていると、彼は僕の背を押して階段を上り始める。
 カンカンと言う二人分の足音が夜の非常階段に響き渡った。

 彼の名前は、前田俊哉と言った。僕の事務所と同じビルの一つ下の階で働いていて、保険会社のシステムを担当していると言う話だった。歳は僕の方が一つ上だったけれど、学年は一緒だった。それにしては、僕よりも随分としっかりしていて、男らしく見える。もっとも、僕は童顔と幾らか身長が足りないせいで、もともと実際の年齢より幼く見られがちなのだが。
 川原の方角にいくつもの花火が上がっては消える。花火が開く瞬間に、辺りが明るくなって桜の木々が鮮やかに浮かび上がるのが幻想的だった。
 春の陽気と満開の桜、それと花火。ビールで多少酔いの回っていた僕は、完全に浮かれていたのだろう。いつもより、ぺらぺらと口数多く色んな話をした。その一つ一つに相槌を打ち、彼は笑いながらそれを聞いてくれた。まるで、10年来の友人といるような居心地の良さ。
 ふと、僕は自分ばかりがしゃべっていることに気がついて、少しばかり照れ臭くなってしまう。頭を掻きながら、
「そう言えば、前田君の見たいものってなんだったの? こんな場所に誘って、それ見逃したんじゃないの?」
 と尋ねると、彼は殊更優しげな眼差しで僕を見詰めた。
「非常階段の5階と6階の踊り場から見えるものって何だと思う?」
 意味深な質問を投げかけられて僕は思わず考え込む。あの場所から見えるもの。
 向いのビル。表通り。それから、僕の事務所のテラス。
 その中で面白いものなんてあっただろうか?
「分からない?」
「分からない」
「見始めたのは一年くらい前かな? 最初は向いのビルの5階だった。三ヶ月前からこのビルに移ってきた」
 彼は僕から決して目を逸らさずに言い続ける。彼が何を言いたいのか分からずに僕は戸惑いがちに彼の顔を見返していた。
 少し離れた場所で花火が上がる。少し遅れて大きな音。
 酔いの回った、少し思考の鈍くなった頭でぼんやりと考える。彼の顔は何だか良いなあ、と。僕もこんな顔に生まれたかったなあと。
 濃い顔では無いけれど、すっきりとした男前だ。それに、歳相応に見えるのが良い。しっかりしていて、仕事が出来そうな、理知的でそのくせ優しそうな顔。女の子に随分とモテそうで、それも羨ましいなあ、なんて暢気に考えていたら。
 その羨ましい顔が段々と近づいてくる。
 遠くで花火が幾つか開いた瞬間に、僕はなぜだか彼にキスをされていた。
「・・・え? あ・・・れ?」
 訳が分からずに、呆然と彼を見詰めていると、彼は苦笑いといった風に笑って見せた。
「何度も目があったんだけどなあ。気がついてなかったのか」
「あ・・・の?」
 僕が目を白黒させていると、彼は楽しそうに笑って僕の手から缶ビールを取り上げる。それから、簡単にもう一度僕にキスして見せた。
「僕が今まで見ていたのも、見たかったのもアナタですよ」
 そう言われて僕は思考が停止する。

 遠くで、また花火が開く。
 大きな音。

 青天の霹靂が降ってきた、春の陽気麗らかな夜の出来事だった。

 



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