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電話の音 ツルルル、ツルルル、と。何度目かの振動で手を伸ばし、通話ボタンを押す寸前に呼び出し音は途切れた。真田は、まだハッキリとしない頭でどうにかこうにか、携帯の画面を確かめる。 そこには真田が携帯を持つに至った彼の名前。 眉間にグッとしわを寄せ、一度固く目をつむる。目を開けたときには意識は完全に覚醒していた。その覚醒した意識でもって、少々の覚悟を肝に銘じつつ淡い光を放つ画面を見つめ直す。 表示されている名前は変わらない。 真田は携帯を強く掴んで、暗い天井を見上げた。独りの夜。彼はどうだろう、家人が寝静まったのを見計らって掛けてきたのだろうか。 真田は知らず、ため息をつく。 今でも、自分はこんなにも彼に揺らいでしまっている。彼にはそんなつもりなど無いと知っているくせに。 真田は両腕を広げ、ベッドのうえに大きく広がる。闇に慣れてきた眼は丑三つ時を越えた夜を薄く見透かした。紫と青磁に墨を思い切り垂らしてできたような薄いベールに、だんだんと近付いてゆくような。 過去、名刺をもらった。確か七年前のことだったと思う。 そこに携帯のナンバーを書き添えてもらったとき、真田はまだ自分の名刺に書き添えられる、自分だけのナンバーというものを持っていなかった。彼は笑って、不便じゃないのか、と自分の持っている機種を推してきた。 彼に言われるまでもなく、彼と同じ機種にしようと思っていた。事実、真田が今現在所持している携帯はあの日屋上で見せてもらった携帯電話と色違いのものである。 先日不都合があり携帯の子会社に同じ機種のものを用意してもらおうと問い合わせてもらったところ、もう在庫がないとのことだった。 女性社員は機種変更なさいますか、と尋ねてきたし、変更してしまったほうがなにかと便利であることはわかっていたものの、真田は時間の掛かる修理に出した。修理するより新しく買ってしまったほうがいいと再三言われても。 この数年間のうち何度か、彼からメールアドレスや携帯のナンバーの変更が伝えられた。そこから鑑みるに、彼はもう別の機種に変えているだろう。そんなことは真田には関係ない。 かつて彼の選んだものを手にしている、そのことが重要だった。今も昔も彼は変わらない。変わってしまったのは自分のほうだ。 真田には自覚がある。この感情は偏執に近い。狂っている。そう思う。 感情の波に耐え切れず、何度か彼に投げかけたものだ。強く、抱きしめた。けれどその都度彼は無反応という回答を導き出した。自分はもう彼に届かない。真田は闇を見据える。 先程の電話は、なんの用だったのだろう。こんな時間に、何度もコールを続けて。なにか、俺にしか解決できないような、俺にしか話せないような出来事でもあったのか。 そう思うと、彼からの電話に出られなかったことに対して、罪悪感が湧いてくる。そして、心配しながらもこちらから彼に掛け直すことができないことで、後ろめたい気持ちが水の中こぼしたインクのように滲み、募る。 何故躊躇するのか。 すべて真田の心象一つの問題であった。彼の声を聞きたいと強く思えば思うほど、絶対に聞いてはならないと感じる。 心に防波堤を造らなければ。彼の声を耳にしても平常心でいられるだけの、厚い防壁が。 積極的に彼へ接していく癖に、いざ彼から近寄られると避けてしまう。妙な話だ。彼に身を離されると悲しみで引き裂かれるような痛みを抱くというのに。 声を聴くことにさえも慎重にならざるを得なかった。 セーブを掛けなければ。自分の想いは彼を蝕む。自分の声が彼の内部に響いていると感じるからこそ、距離を置かねばならないと――けれどもそんな正論を逸脱して真田の意思は暴走を続ける。 真田の内部で暴れ狂う。真田は額に手の甲をつけ、固く、厳しく、目をつむる。 どこかで車がクラクションを鳴らした。非常識だ、こんな夜更けに。けれども警鐘を鳴らさなければならないほどのことが起こったのだろう。 彼からのコールはまさにそれだった。彼を助けたい。愛想という言葉を持たない自分の言葉ひとつで彼が少しでも心安らぐのなら、尽力したいと強く思う。 いや。強すぎる。声を求めているのは自分のほうだ。真田は更に眉間に力を篭める。 暴れ狂う感情が、これっぽっちも治まらない。病が深い、酷く滲み込んでいる。彼が、自分の細胞ひとつひとつにまで及んでいる。 また彼から電話が掛かってきたとして、自分は出てしまうかもしれない。それは許される行為なのだろうか。真田は許されないと思っている。 押し隠すには強すぎる感情。剥き出しにするには犠牲を伴う想い。 真田にはある誓約があった。彼の家庭を侵さない。それは彼と付き合っていくのに必要な、絶対条件だった。 (――いや・・・それも詭弁だ) 条件を付けなければ付き合えない関係など、あってはならない。 そんなのはまるで――まるで・・・。 「・・・・・・・・・」 真田は天井を睨んでいた。一定間隔で正方形が並んでいる。そこに汚れじみた染みがいくつか滲んでいる。今の自分に似ている、と真田は思った。 自分の想いが彼をほんの微量でも苦しめていることが真田には悲しく、そしてやや昏い悦びを得ていることに遣り切れなさを感じた。 彼を侵している。彼の幸せに一点の曇りを作っている。天井の染みのように濃い、ともすれば数を増やすような汚れとなって、彼に食い込んでいる。 「・・・だめだ」 考えるな。自虐的だ。もっと建設的なことを探せ。 今は彼のためになることだけを。 それでも。 真田は、いつの間にかうずくまるように身体を縮こませて両腕で自分を抱きしめていた。じっと、波が過ぎ去るのを待った。いくら待っても過ぎ去ってはくれず、真田の内部で渦巻いた。 真田の携帯は、電波が繋がりにくくなっていた。古いからだ。けれど手放す気は少しもなかった。変えるときが来るとすれば、それは、自分が彼のことを諦めた時か、彼自身がもう変えたらどうだ、と話しかけてきてくれた時かだけだ。 ああ、この思考でさえも彼を中心として行なわれている。末期だ。手の施しようがない。 真田は携帯を握ったまま、放さずに手をだらりとベッド脇へと下ろした。 また掛かってくるだろうか? それを自分は取るのだろうか。 わからなかった。 やがて、微かな振動を伴って携帯が鳴った。 |