「実は……」と内緒話。




本日も空は広く晴れ渡り、江戸の町には穏やかな時間が流れていた。
だが人ごみは相変わらずで、月に何度か開かれている縁日の賑やかな笛太鼓の間を縫って源吾は奉行所へと足を進めていた。本日は兵助が非番で、彼の代わりに定廻りを行っているのだ。
 
涼しい風鈴の音や、風を受ける風車が回る音。初夏の空気を感じさせるそれに、源吾は目を細めて爽やかな空気を吸い込んだ。
 
だが、細めた目はある人を見つけた瞬間にぱかっと一気に開く。
風車を一本手に取った美しい女、その隣には風車の代金を支払う非番中の兵助の姿があった。
「兵助… あんな美人と付き合ってたのかよ〜…」
眉を寄せて悔しそうに声を絞り出すと、此方に向かって歩いてくる兵助一行から姿を隠すように、源吾は近くの屋台の間に挟まって二人の目をやり過ごす。
二人に回りは見えていないのか、源吾の姿等全く気付かず、通り過ぎていった。
 
 
 
その後、奉行所に戻るなり、仕事に飽きて一休みしていた磯貝に真っ先に兵助とその女の事を話した源吾は、頭を冷やすように冷たい水をごくごくと飲んでいた。
 
「浮いた話の一つも無かったあいつがなぁ」
「どうも普通の町娘って感じじゃあ無かったんですよね。ありゃどっかの芸者ですよ」
「芸者? とうとう引っかかっちまったか」
「真面目な奴程ころっと騙されちゃうんですよね」
 
明らかに悔しさから出た言葉だが、源吾はそれに気付いていない。二人の会話にさり気なく入ってくるのは一郎太である。
 
「でも、町娘でも芸者みたいに美しい女性だって、居るんじゃないんですか?」
何となく出た咄嗟のフォローである。
 
「お前分かってないな。そんなイイ女は兵助みたいな男には寄ってこないの」
源吾はちらりと目を遣り、同じように此方を見る一郎太と目を合わせた。
「兵助さんのように真面目な方だったら、寄ってくる人も居ると思いますけどねぇ」
 
「男は真面目なだけじゃ駄目なんだって。あいつは面白味が無いんだよなぁ〜」
「面白味、ですか…」
目を細め、左右に緩く首を振る源吾に、小さく呟く一郎太。細く溜息をつくと納得してしまったのか、何度か細かく頷くと止めていた筆を再び動かし、調書を書き始めた。
 
 
そんな緩い空気が流れる中、ガラリと同心部屋の扉が横に開く。皆の衆が一斉に目を向けた先には八兵衛の姿。一瞬ほっとした空間に八兵衛が笑って中に入り、後ろから青山が続いて入ってきた。

寝転がる勢いだった磯貝は慌てて起き上がり、妙にだらけていた源吾も速攻立ち上がろうと片足を立てたが、つるっと滑ってしまった。
二人が慌てふためく光景に、ふっと口角を吊り上げて笑った青山は背後で扉を閉めながらちらりと二人に視線を遣る。
 
「おいらが入って来ちゃいけねぇかい?」
眉をちょいっと上げて喋る口調からは不機嫌さを感じられない。八兵衛もつられるように笑って二人を見た。
「何かあったの?」
「え、あ、あぁ。兵助がさ」
 
今日は青山の嫌味爆弾は投下されないようだ。青山は源吾の世間話も特に気にする事も無く上座へと歩いていく。一方八兵衛は眉を曲げて口をへの字にしながら喋りだす源吾の隣に座って、湯呑みを二つ並べた。
「兵助が、どうかしたの?」
「さっき定廻りで表歩いてたら、兵助がすっっっっごい美人連れて歩いてたんだよ」
 
「兵助が? へぇ、珍しいな」
「でもその美人、どうも芸者っぽいんだよな。化粧濃かったし」
「えぇー、でも、芸者って。兵助だったら接点無いんじゃないの?」
「それが不思議なんだよな〜、何で兵助なんだろ…」
 
はぁ、と細く長い溜息をつく源吾。それを見て笑う八兵衛だが、矢張り芸者と言ったのが気になっている。しかし他人の色恋沙汰、余り突っ込まない方が良いと思い、並べた湯呑みに茶を淹れるとそれを持って青山の元へと歩いて行った。
青山もそれを聞いていたらしく、妙にへこんでいる源吾をちょいっと顎で指し八兵衛から茶を受け取る。
 
「相当やられてるな」
「女っ気が全然無い兵助ですからねぇ」
「…そうだな」
 
八兵衛の言葉にふっと笑った青山は、貰った茶を啜りながらまた口角上げていた。
 
 
 
 
 
初夏。陽も高くなってきて、仕事が終わる頃でも空はうっすらと明るさを保っていた。青山は八兵衛を誘い、共に夕餉と酒を貰うつもりでいつも立ち寄っている飯屋に連れて行った。
 
暖簾をくぐると忙しそうに食事を運ぶ女達。そして、いつもの場所には、いつもの人が座っていた。
 
「おう」
 
青山が短く声をかけると、そこに座っていた初老の男は座敷に座ったまま頭を下げた。
八兵衛は見た事の無い男である。だが親しそうに笑い合う二人の顔を見て八兵衛も軽くお辞儀をした。
「青山様。いつもお勤め、ご苦労様でございます」
「おう。こいつは同じ北町の同心、仏田八兵衛だ。これから飯かい?」
「ええ、今日は息子と話をするつもりで… しかし、かれこれ半刻待ってますが一向に」
 
苦笑いを零す男はそう言うと、向かいに座った青山も同じように苦笑いを零した。
「そうかい。まだ話は済んじゃいなかったのか」
「はは、情けないものです…」
 
乾いた笑いを零す男を居た堪れない心境の八兵衛は、隣を歩いて行った女中に酒を二本頼んだ。
「家にはまだ戻ってきてないのか?」
「友人の家に泊まりこんでいるらしいのですが、それも点々としているようで… たまに帰ってきても、ろくに話もしてくれないんですよ」
「強情っぱりだな」
「私に似て」
また笑い合う二人。酒が二つ、卓に置かれて八兵衛は猪口を持つ青山にそれを注いだ。そして、悩める父親の空いた猪口にも。
「一体、何が原因で家を出ていってしまったんですか?」
 
「えぇ。私は書道を教えている身の上なのですが、息子がどうしても跡を継ぎたくないと我侭を言いまして。…恥ずかしながら遅くに出来た子供だったので甘やかして育ててしまったのです」
「そうだったんですか…」
 
八兵衛は猪口を口許に運んで、そこでぴたりと手を止めた。ふと青山に目を向ける。普段と変わらぬように酒を飲んでいるが、目の前の男と同じ、父親の眼をしていた。
「しかし嫌だと言うのならそれもあいつの人生、好きな事をやらせたいというのも親心というものです。ですが…… よりに寄って」
「…なんですか?」
「よりに寄って、芸者になりたいなどと言い出したのです」
 
「芸者? …し、しかし、息子さん、なんですよね?」
色んな疑問が八兵衛の頭の中に浮上する。眉を寄せてくいっと酒を煽ると、何故か泣きそうに口許をへの字に曲げふるふると震わせる書道家の父。
「そうです、立派な男子に育ててきたつもりです。ですが… 何故か、その方面に…」
 
「………」
 
沈み込んでいる男は、ふっと顔を横に逸らし、指先で滲み出てくる涙をぐっと堪えて拭っていた。その姿、余りにも痛々しい。
青山も眼を細めて溜息をつき、酒をゆっくりと飲んでいた。
 
 
 
 
その後、矢張り息子が来るかも知れないからという淡い期待を抱く父親を残し、八兵衛と青山は飯屋を後にした。あれから一刻程しか経っていないが、入った時は明るかった空が漸く暮れて小さな星が点々と散らばり始めていた。
 
「あの方もご苦労なされているんですね」
「あぁ。一人息子ってのは、必要以上に期待ばかり持たれて、人に寄っちゃそれが重荷になる事だってあるしな」
静かに喋る青山は、先程の飯屋で買った酒を肩からぶら下げながらゆったりと歩く。その隣の八兵衛はちょいっと青山に視線を向けて、考えていた。
 
青山は自分と同じような境遇の人を放っておく事が出来なかったのだと。
あの人の話を聞いている時、考えているのはきっと市之丞の事だろう。それとなく相談をしてくる時の青山は、あの書道家の父のような何とも言えない眼をしている。
そして自分も市之丞の事を共に考え、時にそういう素直な青山を愛おしく感じるのだ。
 
考えていたら自然と口角が上がっていたらしい。おい、と声をかけられてはっとした八兵衛は、青山にぱっと顔を合わせた。
 
「あれ」
「ん? なんですか」
 
「あそこ」
何も言わない青山に一歩近寄る八兵衛。顎で指された向こう側にぷいっと顔を向けると、そこには兵助と一人の女が立っていた。
あ、と声を出しそうになったが何とか堪えて、じっと二人を見る。辺りは暗いが、顔は確認出来る距離だ。兵助と共に居る女は肌が白くて唇が紅く、紺色の空に散る夜桜のように美しい。
 
何かを話し、別れる二人。女の後姿を見送る兵助は放心状態になっていた。
 
 
「源吾が言ってた芸者みたいな別嬪さんて、あの女だったんですね〜。いや、確かにあんなに綺麗な人なかなか居ませんよ」
「…そうかい?」
「青山様は綺麗な女を見すぎて感覚が鈍ってるんじゃないですか?」
 
「ここだけの話だがな、ハチ…」
 
口角を上げてニヤニヤとした表情は、些か八兵衛の気持ちを曇らせた。女の話でもするのかと。取り敢えず耳を傾ける八兵衛。
青山は向けられた小さな耳に、静かに囁いた。
 
 
 
「実は、……あの芸者、さっきの男の息子だぜ」
 
 
 
 
 
 
 
 
「えぇぇっ!!?」
 
思ってもいなかった告白に大声を上げ飛び上がり驚いた八兵衛は、ざざっと青山の元を二、三歩離れてしまった。
そしてその声に驚いたのは青山だけでなく、放心していた兵助も同様である。いきなり聞こえた八兵衛の声にばっと顔を向けた兵助。必然的に目がかち合ってしまう三人。
 
「八兵衛さん、青山様まで…」
 
兵助はほわほわした足取りで二人の元へと歩いていく。
「言うなよ、ハチ」
すかさず八兵衛に口止めした青山は、口角を上げゆっくりと兵助に視線を向けた。
 
「お二人で飲んでたんですか?」
「あ、あぁ。お前は…」
「え? あ、あはは、いえ、あの…」
 
思いっきり照れ笑いをしている兵助に、固まった笑顔の八兵衛。青山に至ってはニヤニヤしっぱなしだ。
「源吾がよ、縁日でおめぇらを見かけたって大騒ぎしてたぜ」
 
いきなり切り出す青山に、また笑って頭を掻く兵助。八兵衛の固まった笑顔は青山と兵助に交互に向く。
「いや、あの、友人の知り合いの方ですから。まだそんな、つ、つ、付き合ってるとかじゃありませんから」
「随分と仲良さそうだったじゃねぇか」
「で、でも出会ったのも最近ですし。まぁ、向こうは、気に入ってくれてるみたいですけど…って、何言わせるんですか!」
 
自ら色々喋り出す兵助に、にんまり笑顔な八兵衛は当たり障りの無い言葉を探し回っていた。だが、真実が邪魔をしてどうにも上手く言葉が紡げない。
そして矢張りニヤニヤ顔な青山がぽろっと言ってしまうのだ。
 
「モノにしたきゃ寝ちまうのが手っ取り早いぜ」
 
そんな事柄に免疫の無い兵助は、一瞬言葉を失ってあわわと口を動かした。思わず額に手を当ててしまうのは八兵衛である。
「青山さ…」

「慣れてねぇならおいらが指南してやるぜ?」
 

 
「なっ!! な、そ、そんな、結構ですっ!!!」
 
 
青山の言葉に顔を真っ赤にして激怒した兵助は、力強くそう吐き出すと、はち切れんばかりの声で失礼しますと言うと踵を返しザックザックと歩いていってしまった。
その姿に笑う青山は、八兵衛の肩をとんっと叩いて歩みを進める。
 
青山が兵助に言った意味が、全部理解出来ている八兵衛は兵助とは違う意味で頬を熱くする。眉をぎゅっと寄せて。
「あれは言いすぎでしょう」
「その内本人も分かる事だろ」
 
「傷つきましたよ、絶対」
「あれぐれぇで傷つくような玉じゃねぇよ」
 
笑う青山に続いて歩く八兵衛。
兵助が青山の言った、"男の抱き方"の指南を仰ぐ日が来ない事を祈って二人は初夏の闇に消えて行った。
 
 
 
 
 
 
その一週間後、美人芸者と別れ、兵助が大傷心を負った意味と真実を知っているのは青山と八兵衛だけである。




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