コンっと拳を叩き合わせ。 前日の雨も早朝に止み、キラキラと光る水溜りを避けながら八兵衛は川にかかる橋の上を歩いていた。 日差しがぽかぽかと身を照らし、涼しい風が頬を撫でて実に心地好い。朝から大きな事件も無いし、今日も一日平和であれば良いと思う。 が、その淡い期待は唐突に裏切られる。 川辺に居るのは一人の女。その女が、何か叫びながら徐に川の中へと飛び込んでいったのだ。暖かい気候とは言え、まだ川の水は身を切るように冷たい。 それに加えて、前日の雨により川の水かさは増え、流れも速くなっていた。声よりも先に足が出ていて、八兵衛は弾けるように地面を蹴り上げると橋から飛び降り、橋桁へと着地した。 「おーい!何やってるんだ、早まるんじゃねぇ!!」 女は川の中へと入っていき、その速さに身を任せて川の中程へと流れていく。八兵衛は羽織と刀を投げ捨てながら追うように川へ飛び込み、水を両腕で大きく掻き分けて川の流れを利用して女の元へと早急に泳いでいく。 そして懸命にもがくように川の下流へと流れていく女の腕を八兵衛は掴み、己の方へと思い切り引き寄せた。 「離してくださいっ、離してーっ!」 「離すもんかっ!」 水の中で暴れ回る女は八兵衛の胸や腹を肘で打ち、髪を振り乱す。その度に飲み込んでしまう水、そして沈む体。水中を蹴って顔を出して体に両腕を回し抱き寄せるが、女は一向に大人しくならない。 着物が体にまとわりつく。回している手も、水に入ってまだ少ししか経っていないのに冷たさに固まってしまう。 「おめぇ、死んじまうぞ!」 「それはあの子よっ! 子供がっ!」 「こっ、子供!?」 必死に腕を伸ばす女のずっと先に視線を遣り目を凝らした。すると一気に体中の血の気が引いた思いがして八兵衛は目を見開いた。 そこには年の頃五つ、六つの子供が両腕をばたつかせながら必死で顔を出しもがいている姿があった。 女は何かの事故で川に流されてしまった子供を助ける為に凍える川の中へと身を投じたのだ。だがそれを身投げと勘違いしてしまった八兵衛は、我が子を助ける母親を止めてしまった。子供との距離はどんどんひらいていく。 「早く、子供を、子供を助けてっ!!」 大声で喚き始めた母親は何とか八兵衛の腕から逃れようと暴れ回り、その度に八兵衛の体力は削がれていく。八兵衛が顔を上げた次の瞬間、母親は急に腕を水中へと沈めた。 「あ、あぁっ!」 「どうしたんだ、だ、大丈夫かっ」 「足っ、足がっ」 「えぇっ」 水中を掻いていた足が、その流れの速さと重さに耐え切れず引き攣ってしまったのだ。ごぼごぼと水を飲みながら沈んでいく女を必死になって引き上げる八兵衛は、流されながらも川辺へと身を傾け泳いでいく。 一方、子供はどんどん流されていき目で確認するのも難しくなってきてしまった。水位も低くなり、膝に石が当たったのを確認すると八兵衛は女の体を引きずるようにしながら水から上がり、荒い息を整える間も無いまま河原を走り出した。 だが、冷たい水に凍えた体はいつも通りに動いてくれなくて、笑う膝を必死に前へ前へと出しているはずなのに子供との距離は一向に縮まらない。それどころか引き離される一方だ。 息も上がり、呼吸も苦しい。重たい着物は体に絡みつき足を取られて大きな石に蹴躓きこけそうになってしまった。 それでも何とか踏ん張った八兵衛は、何歩か早急に足を進めてまた走り出した。 この先は川幅が広くなり流れは少し遅くなるが、いかんせん昨日の雨で水かさが増えているのだ。川底も深く、大人でも足はつけない。その先まで流されてしまえば命が助からない事は明白だ。 だからこそ今助けなければならないのだ。なのに。なのに、この足は、体は、力の限り走り抜けているはずなのに徐々に離されていく。 八兵衛は焦りの中で、大きく空に向かって叫んだ。 「おーいっ! 誰か、誰かっ! 子供がっ!!」 叫びながら走るとまた足がもつれそうになり、それでも地面を懸命に蹴って走っていく。汗と水が目に入り、片目を瞑って擦ると、子供と同じくらいの距離に、釣りをしている男が一人目に飛び込んできた。 はっと息を呑む八兵衛。 「青山様ぁぁーーーっ!!」 水が目に入って良く見えないが、八兵衛には顔も確認出来ない小さな釣り人を青山だと確信したのだ。その証拠に、遥か遠くで叫んだ自分の声に反応して動く様が見えた。一抹の安堵。 だが、子供は川の下流へとどんどん流されていく。 八兵衛の様子がおかしいのは遠くからでもすぐに分かった。眉をぐっと寄せて、釣竿を置き八兵衛の下へと駆け寄ろうと足を踏み出す。が、八兵衛は必死で川を指差している。一瞬嫌な予感がして、川辺へと視線をキっと走らせた。 途端に川の流れに逆らう事も出来ず、ただただ無抵抗に下流へと押し流される子供の姿が目に飛び込んでくる。 「子供か」 迷い等無かった。青山は腰元の太刀を抜き着物を端折って冷たい川へと飛び込み、懸命に水をかいていく。 その様、力強く。ずっと上流の方から流れてきた子供は泳ぐ事も出来ず、水を大量に飲み冷水に体力を奪われ、もがく事すら難儀になり顔を沈めていく。濁流音が耳に響き、子供の小さな体を襲う。 息も絶え絶えの子供の視界が徐々に狭くなっていく。 鼻からも口からも襲い掛かる自然の脅威。最後に力を振り絞って、川面に片手を広げて体を沈めていった。 が、最後まで諦めず生を求めた小さな腕を、青山は見捨てなかった。細く冷え切った子供の腕を力強く掴み、己の体へと抱き寄せたのである。 「おい、しっかりしろぃっ!」 言葉を投げかけても返答は無い。青山は子供の腕を首に回して背負い、水の流れに沿って川辺へと泳いでいく。 緩やかな湾曲を描く水流は勇敢な男の働きをさり気なく助ける。湾曲した内側に河原があり、青山はその方向へと場所を定めた。 すると間も無く河原の石が足に当り、背負っている子供を抱えなおして川の中から身を上げた。 溺れていた子供の反応は未だ無い。青山は早足で河原を付きぬけ、直ぐ目前に広がる土手に子供を寝かせ、冷えた頬を数度叩く。 「おい、おいっ!」 呼びかけにうんともすんとも応じない子供の口許に耳を寄せる。呼吸をしている気配が全く無い。紫色の唇の下、白い顎を上げて小さな鼻をつまみ、子供の口元を覆う程大きく口を広げ息を吹き込んだ。 ゆっくりと上下する胸を横目で確認し、もう一度同じように吹き込むと、手首を掴む。矢張り反応は無い。 青山が釣りをしていた場所から少し離れた場所に二人は引き上がっていた。八兵衛は水をいっぱいに含んで重い着物を腰帯に引っ掛けて、二人の後を追っていたのだ。 そして土手に横になっている子供と、人工呼吸をしている青山を見つけた。最後の最後に、残っていたほんの少しの体力を振り絞って駆け寄り、その名を呼んだ。 「青山様…っ!」 「おうハチ、こいつぁ一人か」 そう短く問うと、胸よりやや下を押し込んでいた手で脈を計り、再び鼻をつまみ顔を近づけて息を吹き込む。 「いえ、…は、…母親が、」 ゆっくりと膨らむ胸。それを二度続け、再度青山は両手を合わせ着物の上から掌を押し込む。 「母親? 何処だ」 「向こう、に…」 息を切らしながら背後を指差す八兵衛。その先には川に流され、髪を振り乱した女がよろけながらも一心不乱に此方に駆けて来る。 「しっかりしろ、おめぇの母親が、待ってるぜ…!」 水か汗か分からぬ雫がこめかみを伝い、顎から子供の頬へと一粒、落ちる。 「…っゴホッ、ホッ...!」 その途端、青山の掌から押し出されるように水が小さな口から吐き出て、頬を流れていった。と、同時に何の反応も無かった胸が空気を求めるように激しく上下し、眉間にぎゅっと皺が寄る。漸く戻った呼吸に、青山の目元にも喜びの色が滲む。 それを見ていた八兵衛も驚いたように目を大きく開き、子供の小さな肩を掴んだ。 「吐いた、息が戻った!」 直ぐ様顔を横向かせ、浮いた肩をとんとんと叩く。震えながら動く手は、地面を這い己の体を支えているようだ。 八兵衛と青山は一斉に顔を合わせ、零れんばかりの笑みを交わした。そして二人の元へと走ってきた母親は、崩れるように我が子の前に膝から座り、小さな体を抱き寄せたのだ。 「伸太郎、無事で、良かった…! ありがとうございます、本当に、ありがとうございますっ!」 水と汗と、そして涙で顔を真っ赤にする母親に力強く頷く青山。子供は自分を抱かかえる母親の胸で完全に意識を取り戻し、か弱い力で着物をゆっくりと掴んだ。 二人には、その儚い力が誰にも断ち切れない深い絆に映る。にっと笑った八兵衛は、右手で緩く拳を作り、青山に差し出した。それに笑みで応える青山も拳を作り、こんっと軽く叩き合わせた。 「青山様が居て、良かった」 ぽつりと無意識のうちに出た八兵衛の言葉。互いに白い歯を出して微笑み、一つしかない命を抱き締め合う母子の美しい姿を見つめていた。 |