古傷の見せ合い。 本日は朝から曇り空だった。湿った風が吹き、頬を撫でる温度は冷たかった。そんな空の下、八兵衛は定廻りで表に出ていた。 この天気の悪さはずっと気にはしていた。足元の土にぽつぽつと染みが出来始めるとゆっくり闊歩していた足は少しだけ早まる。雨足は徐々に強くなり、八兵衛が近くの茶店に駆け込んだ時には桶をひっくり反したような土砂降りになっていた。 雨宿り出来る場所を探しながら走ってきた道。店の中から外を見ると、そこには雨に打たれる竹林が見えた。随分遠くまで来たらしい、雨が上がったら直ぐに戻ろうと小さくごちて、八兵衛はびしょびしょになった羽織を脱ぎながら中へと入っていった。 町外れで天気も悪い事もあって、店には店主と使用人が一人、それと女の客が一人しか居なかった。その女の客も自分と同じように雨宿りをしているのか、濡れた着物、顔や首筋を手拭いで拭いている。八兵衛は使用人に茶と団子を頼み、その客に近づいて何とも無しに声をかけた。 「お前さんも雨に打たれたのかい」 「急に降り出しましたからねぇ」 にこやかな笑みを浮かべて顔を上げた女に目を合わせた八兵衛は、同じように笑っていた顔を一瞬凍りつかせた。 と、言うよりも引きつって動けなかったといった方が適切か。 雨宿りをしていた女は、同心になる前に許婚だった女人だったのである。 その女人、沙耶との付き合いは長かった。季節を何度も共に越えて、互いの人間性に惹かれあっていった。沙耶の父親とも親交が深かったから二人は結ばれるものだと互いに信じていた。 だが別れの時はいつでも不意にやってくる。自分が北町奉行所の同心になると同時に決別を言いつけられたのだ。それは確かに沙耶の口からだったが、父親が反対しているという事は間違い無い事実だった。 結局破談になった縁は再び戻る事無く、沙耶は名の在る武家屋敷へと嫁いでいった。三十俵二人口の自分とは比べ物にならない禄高だった。 それからもう4年だ。だが沙耶は、八兵衛の記憶に残っている顔とちっとも変わっていない。月日は無情なものだと言うけれど、この時程時の流れを疑った事は無かった。 「… 八兵衛さん…」 「…お沙耶さん。…偶然ですね、こんな場所で」 「ええ…。 お屋敷に戻る途中でした」 そう言って手拭いを顔から離すとゆっくり頭を下げた。 茶と団子を持った使用人が、八兵衛の横を通り過ぎ沙耶の座っている席の卓上に頼んだ茶と団子を置く。向かいの席。八兵衛はそれを見て、沙耶の向かい側に歩いて行った。 だが、何故か座る事が出来なかった。 「その後… いかがですか?」 「え?」 「ご亭主とは、」 「…えぇ。...…何の苦労も無く、大切にしてもらっています」 「そうですか……」 顔を伏せるようにして、また頭を下げる沙耶。思い出すのは楽しかった思い出ばかり。共に土手で凧を上げ、縁日ではしゃぐ姿に笑っていた。もう終わった思い出。 振り返っては消していく記憶。八兵衛は口角を上げて微笑むが、直ぐに顔を逸らす。ざあざあと地面を叩きつける雨。 窓の格子から見える外の世界。そして、見慣れた姿がぼんやりと浮かんだ。 「……青山様…?」 眉をぎゅっと寄せて、食い入るようにその姿を見る。傘をさした見慣れた着流しの姿は竹林の中へと入っていく。八兵衛は慌てた様子で机に銭を置き沙耶に視線を向けた。 「これ、良かったら食べてくれ。二人共、幸せに暮らすんだぞ」 破談になった時から沙耶に言っていた言葉。空しさと悲しさが邪魔をして、本当にそう思っているのに心から言えなかった。そして今も。これも出来合いの言葉だと、彼女はもうずっと前から気付いているはずなのに。 「はい」 八兵衛の言葉に優しく微笑んだ沙耶の笑顔を見て、すぐに八兵衛は茶店を飛び出して行った。 小さな葉達が激しく降っている雨を弾き、一帯の空気を濁らせ始めていた。やや霧がかっている周囲だが、毎月来ている場所だけは分かっていた。 青山は一つの墓の前で足を止める。何年も昔からある墓は雨に打たれ、風に吹かれて名が消えかかっていた。 あの時から月日ばかり経っている。人々からは忘れられても、己の心の奥に刻まれた傷。青山はその墓の前で腰を下ろし、平らになりかかっている名前の部分を指でなぞった。 容赦なく手を濡らしていく雨。 その雨は、何年経っても消えぬ記憶の中にある、女人の涙と酷似している。眉間に皺を寄せながらゆっくりと顔を伏せ、しばし雨に打たれる傘の音を聞いていた。 地面に落ちていく雨。落ち葉が動く音。葉に溜まった水が大地に落ちる。何時まで待っても止まぬ雨。あの時からずっと続いているのだ。 だが、ふと自分の名を呼ばれたような気がして、青山は顔を上げた。そして立ち上がりながら背後を振り返る。 竹林の間にちらちらと見える黒い羽織には見覚えがある。降りしきる雨の下、傘をささずに此方に歩いてくる姿は間違いなく八兵衛だった。 青山はますます眉間に皺を寄せて踵を返し其方に向かって歩こうとした。が、八兵衛が緩く右手を青山に向かって翳す。そうして止まった青山の元へと歩いて行った。 青山の元に辿り着いた時、既に八兵衛はずぶ濡れになっていた。やや空いた距離。だが詰める事はしない。対峙したところで止まって、二人は決まったように目を合わせた。 互いに寂しい眼をしている。 「青山様… この墓は…?」 「…助けられなかった女の墓よ」 「…...事件の、被害者ですか…」 ざあざあと地面を叩く雨。それに溶け込んでいくような、気力の篭っていない声を落とした八兵衛。青山は緩慢に墓へと顔を向けて、そして対峙し直した。 ゆっくりと下ろす腰。そして眼を細めて静かに言葉を紡ぐ。 「江戸に来てから一番最初に起こった事件だった。……こいつの証言を信じずに、別の男の証言を信じた。結局、……おいらの読み違いだったんだよ」 「…そんな事が…」 「その男ぁ、町方が必死になって探してた下手人でねぇ… 妙に真実味のある話を引っ張り出してきやがって、おいらが匿ってやったのさ」 「……」 「…だがな、そいつにこの女は殺されちまったんだ。あやふやな証言は、いつもおいらの傍に居たあの男に感づかれないように必死に隠す為のものだったのになぁ…… …今日が、月命日でね」 静かに語る青山だが、その声は今まで聞いた事の無い程の痛みと辛さを帯びていた。ずっと心の奥に仕舞って置いた苦しみなのか。語った今でも、八兵衛に顔を合わせようとはしない。 「…毎月、来ていたんですね…」 「こいつを殺したのはおいらだ。……若すぎて、なぁんにも分かっちゃいねぇおいらが... …殺したんだよ」 雨の中に消え入りそうな傷つき果てた声。八兵衛は眉間に皺を寄せて、ぎゅっと唇を噛む。まるで心臓を握り潰されたよう。このまま引き裂かれてしまいそうな痛みが全身を貫いていく。ザ、と近づいた八兵衛の気配を感じた青山は、そこからゆっくりと立ち上がり漸く八兵衛に顔を向けた。 瞳が、哀しい。 そのまま青山の傘の中に入った八兵衛は、濡れた体を青山に寄せる。青山は何も言わず、片腕を小さな体に回して力を篭めて抱き寄せた。 「今は、どんなに小さな事でも、真実を見つけようとしています。その姿勢こそが、この者の供養になるのではないでしょうか」 「そうだなぁ…」 「青山様には私達がついてますから。…また青山様が暴走しそうになったら、私が止めます」 そう言って笑った八兵衛に、青山は微笑み返した。沈んだ気持ちに染まっている時、決まっていつも八兵衛は傍に居てくれた。 その青山を見て八兵衛はもう一度目元を緩ませ頭を青山の逞しい肩につける。やっと笑ってくれて、嬉しかったのだ。 「暴走してるのはいつもおめぇらの方だろ」 指摘されればぐうの音も出ない。だが、青山はそれをネタに責めるつもりなど毛頭無い。その証拠に、そんな事を言っている割にはとても優しい声色だった。 八兵衛を抱き寄せながらその場を離れ、来た道を戻っていく。雨足は相変わらずで弱まる事を知らない。青山は八兵衛の冷え切った体を摩りながら、ふと、さり気なく思った事を問うた。 「ところでおめぇは何だい?」 「え?」 「何か用事でもあったか」 「あ、あぁ… 定廻りの最中でした。そしたらいきなり雨が…」 その問いで容易に蘇る記憶。竹林を抜ければ、先ほどまで雨宿りしていた茶店が視界に入る。その瞬間、何も意識はしていないのに足が止まってしまった。見なければ良いものを。 やはり視線はその茶店に向いてしまうのである。青山も一緒に足を止め、八兵衛の視線の先を追った。 微かに口角を上げるが、しかし顔を伏せる八兵衛。眼を少しだけ青山に向けて、小さく呟いた。 「雨宿りをしようと、そこの茶店に駆け込んだんです。…そしたら、偶然昔の許婚に、会ってしまいました」 「……」 八兵衛の告白に、青山は瞬きも忘れて茶店を見つめていた。 「同心になる前に破談しちゃいましたけどね。...…武家屋敷に嫁いでいきました。 …その方が、幸せだと思います」 八兵衛の声は切なかった。まだ心の中にあるのだと、一瞬にして分かる。 何故なら、あの事件も青山の中ではいつまでも色褪せぬものだからだ。そして、青山は静かに口を開いた。 「確かに、その方が幸せかもな」 青山の答えは分かっていた。だから口許だけ少し微笑んだのだ。 しかし、その次に不意に強く抱き寄せられて八兵衛は目を見開いた。暖かい体温。冷え切った体を温めてくれるのは青山だけだ。 傘をゆっくりと下げていき、その中に二人は隠れていく。小さな空間。八兵衛の頭に青山が頬を寄せる。 降りしきる雨。 暫しそのままで。そしてゆっくりと歩き出す二人。 「今晩は冷えそうだな。…一杯やるか」 「…お供、します」 小さな声で受け答えする二人。だが確かに通じ合っている心があるからこそだ。 初めて聞いた青山の過去の過ち。 初めて知った八兵衛の過去の女。 ずっと仕舞っておいた大切な傷を見せるのは、心許せる貴方一人だけ。 |