欲しがることが怖い




それは他愛も無い日常の光景であった。
奉行所内の座敷前に伸びる廊下で、大量の調書を抱えている一郎太が曲がり角の向こうから出てきた青山とばったり出くわし打つかってしまった。
書類は散らかさなかったものの、数冊手の中から落ち、一郎太が平謝りしている傍ら青山が拾ってやっていた。
拾った調書は大人しく一郎太の腕の中に戻らず、軽く頭を叩かれて乾いた音を立てていた。青山は大げさに痛がる一郎太を笑ってから、それを上に重ねる。そうして、一言、二言。


その何とも無い光景を、同心部屋からたまたま目撃したのは八兵衛だった。周囲から見ても何とも無い、ただの会話。寧ろ上司と上手く交流が持てていて良いと思うかも知れない。
だが八兵衛は違った。自分にしているように触れ合い、笑顔で話をしている青山の顔を見たくなかった。それに答えている一郎太の表情も何故か面白くない。
フイ、と顔を背けた八兵衛は眼前にある仕事だけに集中しようと筆を取った。

そしてハタと気付く。こんな些細な事で、関係の無い誰かを憎むなんておかしい。
最近特に湧き出てくるこの感情に、八兵衛自身恐ろしさを感じ始めていた。

 


そんな日常が続く中、今日も連続窃盗の下手人捜索で同心詰所は出払っていた。八兵衛も下手人が良く出入りしていた店を回り歩いて話を聞き、奉行所に戻る途中であった。
広い堀の横の道。人込みの中に見つけた人は、間違いなく青山だった。積極的に動いているなんて珍しい、と頭の隅で思いながらも偶然会えた事に心は躍る。少し早足で走って人込みの中を掻き分けていく。

だが、その足は不意に止まる。
青山の影から出てきたのは一郎太だった。二人は真剣に言葉を交わしたかと思うと、口角を上げた青山が一言一郎太に何か言って、二人は分かれた。船宿に入っていく一郎太の姿を最後まで見ていたのか、暫し立ち止まっている青山に、八兵衛は歩み寄っていく。

そして青山が歩き出そうとしたところで八兵衛が声をかけるのだ。

「一郎太、何か掴んだんですか?」

「ん? …奴に下手人の女関係洗わせてたのよ。そしたら此処を嗅ぎつけてな」
青山は持っていた扇子でパシ、と軽く首を叩き止めていた足を進める。向かう先は奉行所である。

「表立っては会ってねぇが、男の方は相当あの船宿の女将に惚れ込んでるみてぇだな。…隠れて会ってても、一緒のところを一目見ただけで夫婦だって思っちまうくれぇだ」
「どんなに隠してるつもりでも、周りは分かってしまうものなんですね…」

ぽつり、その男の事を言ったつもりなのに丸っきり自分にはまっているようで心臓が飛び跳ねた。まともに青山の顔を見る事が出来ず、ドギマギしながら前方にただただ歩く。
今の言葉を青山はどう受け止めたのだろう。それが気になってしょうがない。


「女遊びが派手じゃねぇ奴の身辺嗅ぎつけてくるなんざ、なかなかあいつも出来るようになったな」

ふ、と笑いが横から聞こえる。
自分の言葉は青山に届いたはずなのに、青山はそんなことよりも一郎太の事を考えてるのだ。八兵衛の胸中に靄がかかり、前方が見えなくて苛立ちが湧き起こる。
「空回りは前から変わってねぇが… 微妙な感覚の判断が出来るようになったというかな…」


青山の一郎太談議はもう耳に入ってこない。適当に相槌は打つが、青山も気にしていないのかそんな八兵衛を見ずに断続的に話しかける。

苛々が募っていく心。早く終わって欲しい話。次々と出てくる別の人間の話題。
醜く歪んでいく考えは、八兵衛の思考を蝕み始めていた。冷静な判断とは何だ、何が駄目で何が良いのだ。
ゆっくりと俯きながら歩き続け、ただ青山の声から逃げるように歩いていた。

だがその体は早急に止められる。いきなりの衝撃で歩いていた足が浮き、背後によろけてしまった。
青山に片腕を掴まれ、そして引き寄せられていたのだ。ハ、と目を開いてきょとんとしている青山に目を合わせる。
「何処行くんでぇ?」

「…奉行所に戻ります!」
「もう着いてるぜ?」

勢い良く答えた八兵衛はどうやら空回りしてしまったようで、表門の前で青山に呼び止められていたのだ。
その様子に方眉を上げた青山は八兵衛から腕を離すとゆらりと中へ入っていった。

また周囲が見えてなかった。思わず重い溜息が出てしまう。青山は自分に話してくれていただけなのにそれに対して激しい苛立ちしか抱かなかった。
胸の中がもやもやする。理由は分からないが、何故、と自問自答を繰り返す。そしてハタと気付いたのだ。


『これは嫉妬なのか…』


まさか、一郎太に対して。いや違う。自分は青山の全てを、存在そのものを欲している。だがその気持ちが大きすぎて全てのものに嫉妬している。

気付いたと同時に湧いて出てくるのが恐怖で。自分が此処まで人に対して非道なのかと失望の域に達してしまう。
今までの自分では考えられない事である。こんな自分にどう対処したら良いのか分からない。

困惑が自分の理性を包む。感情ばかり先走ってこのままでは何も出来なくなってしまう。


「八兵衛さんっ」

その時背後から明るく声をかけられ八兵衛は振り返った。目の前には先程十分妬みの対象になっていた一郎太が居る。いつものように心を隠して何とも無いように振舞い、返事をした。

「女将から話、聞けたか?」

「それが本人居なくて。まだ来てないみたいです」
「そうか。…いつから来てないって?」

「昨日の夜か、ら…… あっ! もしかして、夜の内に… ちょっと、もう一度行ってきます!」

八兵衛の一言で勢い良く踵を返し、また町へと走り抜けていった一郎太。その仕事に対する一途な姿勢が八兵衛の心を痛めた。

片や自分はそんな後輩につまらない嫉妬を抱いてるのだ。青山を想えば想う程その感情は大きくなってくる。例え相手が青山と全然関係の無い者だと分かっていても。
自分自身が醜く歪んでいくのが如実に分かる恐怖。そしてそれを止める術をまだ知らない。

青山を想い続ける限りこれは続くのだろうか。そう過ぎる考えは余りにも苦しい。重くなってしまった足を一歩、一歩前に出し表門へと歩いていく。
だが離れぬ考え。心の内に秘めたる想いはいつか殻を破って青山を苦しめるのに違い無い。

理性と感情は別なのだ。決して入り混じらない。堂々巡りの問題に頭を痛めながら八兵衛は奉行所の門内へと消えて行った。




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