偏愛することの重さ




賑やかな笛や太鼓が鳴り響く江戸の空の下。月に一度の縁日の日に、八兵衛は悠々と店を見て回りながら歩いていた。
今月の非番の日が丁度縁日と重なっていたのである。歩く足取りは実に軽やか。風車が風に煽られてカラカラと周り、簪や櫛が太陽光に反射して美しい光を彩っていた。

茶店の前まで歩いていくと背後を振り返り様子を窺いながら、出されていた長椅子に腰をかける。八兵衛の後から茶店にやってきたのはいつもの人。

「青山様。一杯やっていきましょうよ」

「あぁ。そうだな」


青山とたまたま非番が重なった八兵衛は、青山と息子の市之丞を縁日に誘った。だが市之丞は弥生堂に用事があると言って来れなかったのだ。
市之丞を喜ばす為にと誘ったのだが、結局青山と二人の外出となってしまった。

「市之丞様も熱心ですねぇ。家では寝る間も惜しんで医学の勉強、弥生堂では実践訓練… 弥生さんの一番弟子になってますよ、完全に」

「なかなかへこたれねぇ所を見ると、本気なのかも知れねぇなぁ」

「そんな。他人事のように」
青山にちょっと顔を向けるが、当の青山は何故か遠くに視線を伸ばしている。外に出てきた店の者に酒を頼むと、腰を少しずらして青山に体を向けた。
そうして漸く此方に顔を向ける青山。自分に対して正面向けた八兵衛を訝しげに見た。

「大丈夫ですよ、市之丞様は立派な医者になります。……と、言ってもやっぱり… 青山様は青山様で、市之丞様にちゃーんと自分の気持ちを伝えた方が良いですよ」

「何言ってやがんでぇ。奴が医者目指そうが目指すまいが、どっちでも良いんだよ」
「またまた」
「何でぇ」
「強がっちゃって」
えへへ、と笑う八兵衛は青山を肘で軽くツンツンと小突く。やんわりと揺れる大きな体。視線をゆーっくりと前方にやりながら、長い溜息をついた。矢張り遠くを臨んでいる。

丁度良く運ばれてきた酒を八兵衛は受け取り、此方を向いていない青山の腕にトン、とそれをつける。気付いた青山はそれを受け取り、遠くを見ていた視線を酒へと落とす。
だが、隣から痛い程の視線を感じてちらりと八兵衛に目を向けた。

合った瞬間に逸らされた瞳。

「昼間から呑むのは他の連中に悪いですが… って、青山様は毎日ですね」
「それがおいらの日課でなぁ」
「その日課、直してくださいね」

にこやかに青山に言うとふっと抜けるような笑顔が返って来る。
八兵衛は上がる口角を押さえてその顔から目を背けた。己の猪口にも青山と同じくらいに注ぐ酒。それを口につけ、ゆっくりと傾けた。

鼻の上まで抜ける爽やかな香りに思わず溜息が出てしまう。徳利を持ち上げちらりと青山の猪口と顔を見た。

まだ小さな猪口の中で揺れている酒。そしてかち合う瞳。また、目を逸らした。

「青山様。呑まないんですか?」
「ん? 呑むぜ」

「早く呑まないと、私が全部頂いちゃいますよ」
「そんなに焦んなくても良いだろう。ゆっくりやれよ」

徳利を傾け酒を注いでいた手に青山の逞しい手が伸びる。その掌の中に容易に収まる八兵衛の手。一瞬心臓が高鳴って手中の徳利を落としそうになってしまった。
が、八兵衛の手の上から力を篭めた青山が、八兵衛の手越しに徳利を握り直す。

「落とすなよ」
「だ、大丈夫です」

「…どうした? おめぇ、手が震えてるぜ?」

青山の低い声が耳を突き抜ける。この感覚。最近感じている体の変調は、青山と一緒に居る時にばかり起こる。いや、居ない時にだって。

「…はは、き、気のせいです」

必死に正気を保って、青山の手を軽く振り解く。八兵衛がいいと言うのなら青山は力を抜く。するりと離れていく大きな手。

心持ち寂しくなってしまったが、隣に座って自分を窺っているのだ。今日の事もあり、目を合わせづらかった八兵衛は、猪口にもう半分酒を注いでそれを体内に流し込んだ。
 
 
 
 
本当は、市之丞が本日来れないという事は分かっていたのだ。
前日に弥生からたまたま話を聞いて、翌日に二人を誘った。市之丞は自分がその事を知らないものと思って、申し訳なさそうに断ってきた。そして予定通り青山と二人で縁日に来たのだ。

青山もそれを知らない。せっかく市之丞を誘ってくれたのに本人が行けないとなれば自分が変わりに行くしか無いと思うはず。
その結果晴れて二人で来れたのだ。例え疚しくて真っ直ぐな青山の目と合わせづらくとも、八兵衛は一緒に居られるというだけで嬉しかった。

「今日は良い天気ですねぇ」

「縁日日和だ。…市之丞に何か買ってってやるかなぁ」
「そうですね、今日は来れなくて残念がってるでしょうから」

にこりと笑顔を向ける八兵衛。それに答えて同じように笑みを作ってくれる青山。そして、その笑顔を見る度に抱いてしまう感情。

嗚呼、自分だけにこの笑顔を向けてくれたら良いのに。
 
 
 
無理に感づかれないように隠している訳じゃない。

ただ一人に偏った感情をどう伝えたら良いか分からないだけだ。重く、深く、痛みを伴うこの愛情を。




■INDEX■