欲しい




非番の時は、いつも溜まった内職をこつこつと片付ける。本日も八兵衛は自宅の長屋で凧にする為の絵を紙にスラスラと描いていた。
勇ましい芸者の顔。顔に赤い線を入れて、その具合を見るように少しだけ体を引きうんうんと唸る。

「もう少し塗るか」

ちょんちょん、と筆に顔料をつけてそれを紙へ。力強い目は我ながら良く描けた。この目は、いつも自分が射抜かれている瞳を思いながら描いたのだ。
そう過ぎると不意に緩む口。そんな自分に気付いて、ふるふると顔を左右に振る。

青山の事を少し思い浮かべるだけで簡単に途切れてしまう集中力。近頃何だか妙で、自分の変化に戸惑いを感じながら日々を過ごしていた。
芸者の顔にまた一本、赤い線を引くがそれが何とも変な場所で、集中していなかった自分への罰にも映った。
苦笑いを零し、筆を置いて紙をす、と両手で持ち上げる。

「顔は良いんだけどなぁ」

呟いて、ふっと息を吹きかけた。乾ききっていない顔料がてらてらと光に照らされて光る。
その時、裏口の扉が開いた気がして紙を下げた八兵衛は庭に向かって視線を投げた。井戸の向こうから歩いてくる人物。青山久蔵。
濁酒を引っさげて、いつもの着流し姿で涼しげに八兵衛に口角を上げた笑みを向ける。

「おう」

「青山様」

短い言葉を交わし、縁側まで歩いてきた青山はゆっくりとそこに座り、足を組んで体勢を崩す。自分の前で見せるくつろいでいる青山が八兵衛はお気に入りだった。

「凧作りかい」

「えぇ。溜まってるんですよ」
「非番なのに、励むなぁ」
「息抜きでもあるんです」

早速猪口に酒を注ぎ始めた青山は、体を捻って八兵衛に腕を伸ばす。指先には小さな猪口の中で揺れる酒。
畳から立ち上がった八兵衛は青山の居る縁側に向かって歩き、隣に正座してそれを受け取る。
八兵衛の顔をツイと見ればまた笑む表情。
ちらりと視線を向けた八兵衛だが、自分の分の酒を注いでいた青山は八兵衛を見ていなかった。

「息抜きだって?」

「えぇ。息抜きです」
「凧作りがか?」
「まぁ、絵を描くのが楽しいんです。心が穏やかになって… 自分が描いたものが大空に舞うと思うと、凄く嬉しくなるんです」

何処までも続く空。そこは青々しく、曇りなき世界。鳥が羽ばたき太陽が自分達を穏やかに照らす。
空を見上げた八兵衛は、記憶に新しい青山の笑った顔を思い出して貰った酒を口内へと流す。
いつも呑んでいる酒。
青山と同じ、共に呑む味。

心がしんしんと温かくなってくる。きっとこの気候のせいでもあるのだろう。


ふと、隣に居る青山に顔を向けた八兵衛。だがそこに青山の姿は無い。きょろきょろと左右を見渡し、そして背後を振り返る。そこには座敷に上がり込み先程失敗した凧の絵を眺めている青山が居た。
「なかなか良い絵だなぁ」

「あ、…でも、それ失敗しちゃったんですよ」
「ふ〜ん、どこがだい?」

「目の辺りが…」

そう言って、八兵衛は間違った赤い線を指差した。
「そうかい? これはこれで… 力強い感じで良いじゃねぇか」
「力強そう、ですか?」

「あぁ。そうだ」

思ってもいなかった言葉に、八兵衛の目はまんまるになる。きっと、青山のような強い目を描いたのが伝わっていたのだ。妙に嬉しくなってしまったが、失敗作品。良いと言われても納得出来ないものは出来ないのである。
「でも失敗ですから。 これを卸す訳にもいかないし」

「ほう。じゃあなぁ……」

そう短く言葉を落とした青山は、筆を取り赤い顔料を先に付けてそれを紙の上に滑らせた。
何をするのだと少し眉を顰めた八兵衛だが、頬の辺りを赤く染められて赤面しているように見える芸者の絵を見て、青山に顔を向ける。

「おめぇの顔だよ」


「私の顔?」

「こんな目してやがるのに、今はこんなに真っ赤だぜ」
「えっ、何言ってるんですか。別に赤くなんてなってませんよっ」


青山に見つめられて、笑みを向けられると体中の体温が一気に上昇する。慌てて立ち上がろうとする八兵衛の腕を掴み、己の方へと引き戻す青山。笑い声すら漏れる。

「逃げんじゃねぇよ」
「違います、逃げてなんかいません! 自分で確認してきます!」
「まぁそう焦んなよ」
「私はそんな顔してません!」

「ったく」

短く言葉を切ると緩く引っ張って楽しんでいた腕に急に力を篭める。すると簡単に青山に倒れる軽い体。必然的に合う瞳。

「ハチ」

「な、…なんですか」

走る緊張。朝から妙だと感じていた気持ちは最高潮に膨れ上がる。何故青山に見つめられるだけでこんなに息が上がるのか。
この言葉の向こうに何があるのか、想像をするだけで頭が熱い。見つめられる、視線が痛い。
呼吸が出来ない。


「うるせぇんだよ。少し大人しくしてろい」

ぴしゃり、と、そう言われてしまった。

 


そして、何の抵抗も無くなった八兵衛の体。直ぐに離れられるはずなのに、青山の腕が触れているだけで体中が痺れて動けなかった。
きっとこの体温を欲している。熱い瞳を、気持ちを、青山自身を。

何もかもが欲しいのだ。
それが自分を苦しめ続ける原因だと、八兵衛は少しだけ分かった気がしていた。




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