一人よりも、一緒に その日、江戸の町には雪が深々と降り白銀に染まっていた。 外気の冷えは同心部屋にも篭っていて、普段あるはずの体温が無い同心部屋で一人仏田八兵衛は書き物をしていた。 夜は既に深く、音が一切しない静かな空間で囲炉裏の炭と茶だけが自分の近くにあった。 筆を一旦休めふぅ、と一息つくとそれを置きお茶で息抜き。だが、温かかった茶は既に温く、舌に纏わりつくと体の中に流れていく。 「もう温くなってら」 余計体が冷えた気がする。殆ど飲んでいなかったので勿体無いと思いながらそれを一気に飲み込み、立ち上がって囲炉裏へと足を進めた。 やはり火がある場所は暖かい。日中お役目中にも関わらず磯貝達が此処で群れている意味が分かる。湯呑みを床に置くと、先に手を温める。両手をかざして表裏。だんだん温まっていく体。 冷えた体が温まれば自然と重たくなってくる瞼。無理も無い。時刻は夜八ツ、丑の刻である。 暖まった両手を顔に寄せ、目頭をぐっと押さえる。ふと出てしまった欠伸。 「だめだ、だめだ」 両手を離すと顔を左右に振り、息を吐き出してから急須を出す。元の場所に戻って、茶を呑んでから続きを明けまでに終わらせなければ。 湯を注げば顔を覆う湯気にまた瞼が下がるがそこは必死に堪える。急須を回し茶を注ぐと、湯呑みを持って囲炉裏の傍から立ち上がった。 自分の卓に戻る直前。扉の向こうから足音がした気がして八兵衛は其方に視線を向けた。すると横にスっと開く障子扉。そこには帰っているはずの青山久蔵の姿があった。 「青山様。まだ帰られてなかったんですか」 「おう、調べ物があってな」 「こんな時間まで。珍しいですね」 会話を交わしながら八兵衛は自分の卓の前に座り、茶を置いた。ふと、気付いてすぐに立ち上がる。そして囲炉裏の傍へ。 「青山様も飲みますか?」 「んん?」 「お茶です」 先程使ったばかりの急須を引っ張り出して、やかんに手を伸ばす。すると、己を一瞬覆う影。 上を向いた八兵衛を見ながら一気に近づく距離。青山が屈んで、八兵衛の隣に座った。 顔の距離は三寸程。 重なる瞳、それに一瞬貫かれそうになって八兵衛の大きな目は揺れた。 「要らねぇ」 「あ、の…」 目を先に逸らしたのは八兵衛。青山の布が擦れる音が聞こえた。目の前の影。 そして濁酒。 「どうでぇ、一杯やらねぇか?」 何の躊躇いも無くさらっと出た青山の言葉。眉間に皺を寄せ、目を閉じてはぁぁぁと深い溜息を八兵衛はついた。 「青山様! 私は役目中です。呑むんだったら一人でやってください!」 「ちょっとぐれぇ良いだろ」 「駄目です! 青山様ッ」 青山と一歩距離を置いた八兵衛は座り直し、正座をして青山に向き合う。 「与力の青山様が、役目中の同心に酒を勧める等、おかしいと思いませんか!?」 「一杯くらい呑んだって酔いはしねぇよ」 しれっと答える青山は、眉を上げて元気に叫ぶ八兵衛の前で猪口に酒を注ぎ始めた。此処で酒盛りをするつもりである。 「青山様! もう、此処で呑まないでください!」 そんな八兵衛を尻目に、注いだ酒をぐいっと一気に飲んだ青山は再び空になった猪口に酒を注ぎながらちらりと彼を見る。 本気で怒っているのか分からないが、目が三角だ。 「どうせ誰も来やしねぇよ」 「分からないじゃないですか! そもそもね、青山様、此処はそういう所じゃないんですよ?」 優しく語り掛けるように青山に投げかける言葉。 青山の手元で酒が注がれていく猪口がゆらりと揺れる。それは真っ直ぐ己に向けられて。嫌な予感がした。 「まぁ呑めよ」 「青山様? 今、私が言った事聞いてました?」 「ん? 何か言ったかい?」 「………」 むすっと膨れる頬。その仕草にふっと笑いが零れた。ほれ、と小さく言って猪口を念押しのように八兵衛に押し付ける。すると、受け取らない訳にいかない八兵衛はそれを手に取り薄い唇につけた。 「茶よりこっちの方が、暖まるんだよ」 少し呑んで、その声が聞こえて、そして飲み干した。 顔を元に戻せば何故か増えている猪口。一つ青山から貰ったはずなのに、何故か青山も自分の分を持っている。 元々そのつもりだったのか。口内に残っている酒はとても良い香りだ。思わず口元が緩んでしまった。 その八兵衛の表情に応えるように青山の表情も和らぐ。自分と、八兵衛の猪口に酒を注いだ。 「少しだけですよ」 「これだけで十分でぇ」 「…青山様は飲み足りないんじゃないですか?」 いつもの飲酒量を考えれば、濁酒一本で足りるような青山では無い。注がれた酒をもう一杯呑めば体の中心から熱が上がってくるのが分かる。 だが、きっとこれは酒だけの効果では無い。 青山は濁酒お持ち上げ、中の酒をちゃぽんと揺らした。視線は八兵衛だけに。 「おめぇとこいつとで丁度良いってこった」 「私と? …良く分かりませんが」 咄嗟の嘘。 その言葉を聞くなり、二杯目の酒を飲み込んだ体は一気に熱っぽくなる。もしかして顔も赤くなってきているのかも知れない。 目を逸らした八兵衛は、少し俯いて猪口を両手でぎゅっと掴んだ。 一人では酔えない。 ならば、酒は少量であとは一緒に居れば良い。 深々と積もっていく雪。その雪をも溶かしてしまいそうな程の熱情が、八兵衛の胸を焦がしていた。 |