『張遼』
『はい…』
『何か欲しい物はあるか』
『いえ…陛下がわざわざ御足をお運び下さっただけで…』
『陛下、とは呼ぶな』
『しかし…』

そこで咳き込む。病は軽くなく、もはや戦に出られる体ではなくなっていた。曹丕は、張遼の手を親しく
取り、死んではならん、卿なら大丈夫だ、と何度も繰り返す。

『二人にしてくれ』

曹丕に退出を命じられた医師や従者が出て行くと、部屋には薬湯を湧かす微かな音しか聞こえない。
曹丕は抑揚の少ない静かな声で話し掛ける。

『張遼』
『…はい』
『返事はよい。聞いていてくれ』

曹丕はこの時、他の者には決して見せない柔らかい面持ちを見せた。冷徹、鉄面皮と呼ばれ、自ずと
そう意識して振る舞う様になったのか、それとも生来そういう気質なのか。ただ、今はそうではない。
病の父を気遣う子の様な。
そう、今はまるで親子の様な。

『私は、卿を父と思ってきた。曹操は余りに大きすぎて、遠い人と感じていた。そして父とは思えない
 まま、もっと遠くへ逝ってしまったのだ』

初めて曹丕が張遼に見せた曹操の息子としての顔。長らく合肥方面に駐屯していた為、武将としての
曹丕の顔は余り知らないが、曹丕は曹操が亡くなった後も張遼を魏軍の要と頼っていた。

『私の今の歳…30歳を過ぎた頃、卿は官渡大戦の最中だったのだな。思い起こせば、その頃は中央で
 帝王学を学んでいたが、呂布の勇名も、そこから降った卿の武勇も聞いていた』
『恐れ…入ります…』

返事はよいと言われたが、魏王となった君主に対して無言では甚だ失礼だと認識する張遼の真面目さが、
涸れた喉から声を出させる。

『…今の私に気を遣うな。起きているだけで辛そうではないか。頼むから横になってくれ。
 私が見舞いたくて来たのだから、無礼で良い。私が話す事をただ聞いていてくれれば』

その声から、普段殿上にある魏王曹丕とは違う人柄を見てとった張遼は、では、遼の御無礼をお許し
下さい、とだけ告げ、関節の傷みを抑えながら横になった。

『だいぶ痩せた様に見える。食欲もないと医師から聞いた…私は、日々弱って行く卿を見るのが
 辛いのだ。戦場に往かなくても良いから、せめて健康を取り戻してくれ』

声には出さないが、「解っております、そのお心遣いだけで活力になります」と伝える。

『私がその背を追い、武勇を聞き、政略を学んで来た父の重臣達が次々と去って逝ってしまった。
 まだ逝くには早かった。そんな中でも卿を、張遼将軍を拠り所と思っていたのだ。それは今でもだ』

夏侯淵は昨年に逝き、曹操が薨去してすぐ、夏侯惇も病に伏した。

『曹仁も徐晃も張郤も卿と余り歳が変わらぬが、父は齢60を越えた。あと十年は居てもらえる筈では
 ないか』

曹丕の、曹丕らしからぬ言葉に、再び張遼は声を出した。

『陛下ともあろう御方が何を弱気になられておいでですか。我等の様な歳寄りを頼らず、若い臣達を
 お頼み下さいませ』
『そうではない。若い臣にはない卿らの貫禄と勇名が必要なのだ。だから、合肥の鬼神たる卿には
 健強であってもらわなくては困る』
『我等はもう名ばかりの引退者ゆえ、次代を担う御方々をお大事になさって下さいます様に』
『それは勿論、若者と言って蔑ろにはしていない。しかし、私は卿を、卿ら父の重臣達を心底から慕って
 いるのだ。例え武勇轟く猛将が現れても、卿等はその者にもまた他の者にも代えられない、この魏の
 かけがえのない宝なのだから』
『陛下…遼にとっては、これ以上の光栄がございましょうか…』

枕を濡らす程に涙を流した張遼の手を再び取った曹丕の手も、彼の涙で濡れていた。曹丕は、決して
冷徹などではない、暖かな心を持った青年だと言う事を知り、張遼は嬉しく思った。


終

※鼎りくこ様に捧ぐ曹丕&張遼 (曹操の死後、魏帝になった曹丕が病篤い張遼を見舞う設定です) 個人誌【遼伝】完売により全文掲載