―――神様。もしも私の声が届くのなら…―――


ずっと、いつまでも


晴れ渡った空の下で、新緑が日の光を浴びて風になびく。
やわらかな、春の風。
透き通った青空に高く上った太陽が、ひとり木陰に佇む少女の目に眩しく映った。
昼時になるといつも決まって自分のもとにやって来る幼い少年を待ちながら、彼女は村の外れに目を向けた。
今日もいつもと変わらずにお腹を空かせて走ってくるはずの、まだ幼いその姿を思い浮かべると、少女の口元は自然と綻ぶ。
風に揺れて舞う木々の緑。一瞬少女の視界を遮ったそれは次の瞬間、自分と同じ色をした少年の髪を隙間から覗かせた。
「………ユーリル…?」
少女の表情が曇る。彼女の想像していたものとは別の表情が、自分のほうへと走ってくるその顔に浮かんでいたのだ。
いつもなら笑顔で自分のもとへ駆けてくるはずの少年は、俯きながらゆっくりと近づいてくる。
少女は手にしていた本を置き少年のほうへ歩み寄ると、彼に目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
ふわりと柔らかい新緑のような色をした髪を撫でながら、彼女は彼に微笑みかける。
「お疲れ様、ユーリル。今日はお昼まで剣のお稽古だったのよね」
「…………」
返事が返ってくる様子はない。少女は俯いたままの少年の顔を覗き込んだ。
「ねぇ、お腹空いたでしょ?  今日はね、私がお弁当作ってきたの。ユーリルと一緒に食べようって思って。
ユーリルの好きなものもいっぱい入れてきたのよ。さ、一緒に食べましょ! そしたらまたお昼から、魔法のお勉強頑張ら……」
「――やだ」
「え?」
初めて口を開いた少年の顔を、少女は戸惑いながら見つめた。
頬にかすり傷を作り、小さな手に力を込めながら、少年の肩は震えていた。――泣いている。
「……ユーリル…」
「…もういやだ。行きたくない。
けんなんてできなくてもいいよ。まほうなんて、僕……使えなくてもいい」
「……………。
……うん…。ねぇユーリル。どうしたの?何か嫌なことがあったの?」
まだ幼いけれど、彼が弱音を吐くようなことは今までなかった。だからこそ少女の胸は痛んだ。
頬に零れ落ちた涙をそっと拭ってやると、下を向いていたその顔が自分のほうへと向けられた。
「…ねぇ、シンシア……僕ね…僕、けんも…まほうも一生懸命やったんだよ。
……なのにっ、何でみんな…いつも僕のこと怒るの…?
何でっ…いつも、おまえは弱いから、強くなれって…ばっかり言うの?
何で、僕だけ…いつもけんとか、まほうとか…しなきゃいけないの……?」
ちいさな瞳から溢れる大粒の涙を両手で拭いながら、堪えきれなくなったかのように嗚咽を漏らす。
「みんな…僕のこと……嫌い…なんだ。 だから、いつも…僕だけみんなに怒られるんだっ……
強くなんて、なりたくない…のに……けんも、まほうも…使えなくていい…のにっ……」
とめどなく流れる涙に会話が途切れる。もう言葉を続けることができなかった。
噛み殺そうとしていた嗚咽は泣き声に変わり、紅く染まった頬を幾筋もの涙が伝い落ちる。
「……ユーリル……」
静かに新緑を照らす日の光を受けて、涙はきらきらと光の粒を散らす。それはまるで、透き通ったガラスの欠片のようだった。
透明で穢れのない光が、彼女の瞳に眩しいほどに輝いて映った。
―――悲しいくらい、綺麗に映った。


―――違うの。 ごめんね。
……ごめんね、ユーリル……

大好きなの。
みんな、あなたを愛してる。

……ごめんね。
伝説の勇者だから。私たちの希望だから。
だからみんな、口を揃えてあなたに言うの。

―――強くなれ、って。
誰にも負けないくらい、どんなことにも、負けないくらい。
だけど。だけど、本当は…本当はね…―――


「………シン…シア…?」
ふわりと自分に覆い被さる温かい感触に、ユーリルは涙で濡れた目を開いた。
薄い、桜の花弁のような桃色の髪と、優しい、甘い香りが彼を包む。
自分を抱きしめるその腕が微かに震えている。彼は戸惑った。
「…シンシア………シンシア、どうしたの…?」
ちいさな手がそっと、彼女の背に触れる。優しい温もりが掌を介して伝わる。
「…ごめんね。………ごめんね、ユーリル………」
「……シンシア、……泣いてるの…?
ねぇ、泣かないで。…どうしたの、シンシア。…何で泣いてるの…?」


―――本当は、強くなんてなってほしくない。
誰もがきっと、そう願ってる。

時が流れて、あなたが「強く」なったとき。
あなたが立派な「勇者」になったとき。

それはきっと、私たちの別れのときだから。


――…神様。 もしも私の声が届くなら。
ひとつだけ、願いを叶えてくれるのだとしたら。
このまま、時を止めてください。ずっとこのままで、いさせてください。
ずっと一緒に、いつまでも一緒に。


「…シンシア、お願い、泣かないで。
ごめんね、僕が泣いたからだよね。僕が泣いたから、シンシアも悲しくなっちゃったんだよね。 
……僕、もう泣かないから。
強くなるから。けんも、まほうも一生懸命頑張るから。
だから泣かないで。…泣かないで、シンシア…」
「……ユーリル………」

強くなんて、ならないで。
ずっと、今のままでいて。
こんなにも優しいあなたの笑顔を奪う、そんな時が来るくらいなら。

「…うん。強く……強く、なってね。
どんなことにも負けないくらい、誰にも負けないくらい……強くなって、ユーリル」


――…「勇者」になんて、ならないで。いつまでも、ずっと、このままで…―――


きっと、叶うはずのない願い。
いつの日か必ず、きっとやってくるはずの運命。

「強くなってね。誰よりも…誰よりも立派な、勇者になってね」


それでもいつも、願い続ける。
言葉とは、違う願いを。

どうかいつまでも、このちいさな幸せが、壊れてしまうことのないように、と。