あなたと見た初めての雪は、音もなく静かに舞い落ちる……白い、花のようだった。
雪の華
「ロザリー」
窓辺に佇む人影に向かい、ピサロはそっと声をかけた。
冷たい空気の中、振り返りざまに息を白く染めながら、彼女はふわりと長い髪を揺らした。
「ピサロ様。…見てください」
彼女の隣に歩み寄り、窓の外を眺める。
鉛色の空の中を、小さく白い雪の粒が穏やかに揺れていた。
空に手を翳し、ゆっくりと散る雪を見上げる彼女の姿に彼はふっと口元を緩める。
「ほう……雪か。
ロザリーがここに来てから見る初めての雪だな。雪を見るのはこれが初めてか?」
「……いいえ」
窓の外から隣のピサロに視線を移すと、彼女は嬉しそうに笑いながら言った。
「森で暮らしていて、今まで何度も雪は見てきました。
けれど、ここから見る雪はとても綺麗。…天空に近い、この場所から見る雪は。
まるで空から白い花びらが降っているみたい」
「そうだな」
あどけない笑みを見せるロザリーに頷きながら、彼は彼女の肩を抱き寄せると、自分の羽織っていたマントで彼女の体を包み込んだ。
「……寒くはないか?」
凛とした冬の空気を遮るように、彼の温もりが体を包み込む。その優しい温度に彼女は彼の顔を見上げ、ゆっくりと頷いた。
そして次の瞬間、思い出したようにピサロに向かって問う。
「そういえば、ピサロさま。今日は、確か…お仕事が」
心配そうに自分を見上げるその顔に、ピサロはふっと噴出すように笑い出した。
突然のことに戸惑いながらも、ロザリーは彼の顔を眺め続ける。
彼は柔らかな彼女の髪を梳くように撫でると、窓の外をちらりと眺めて、再びロザリーに笑いかけた。
「ははっ、今日は寒くなってきたから止めだ。
こうしていれば、ここにいても寒くないだろう。…これで、好きなだけ雪を眺めていられるだろう?」
窓の外にあるまだ君の知らない世界を、君に見せてやりたいんだ。
―――あの人はいつもそう言っていた。
まるで口癖のように、けれどどんなときよりも優しく微笑いながら。
「私が行ってしまえば、寒くなってしまうだろう?」
どんな言葉よりも優しいその響きは、静かにこころに染み入っていく。 優しい、あなたの温もりといっしょに。
初めてふたりで見る雪が大地を白く染めていくのを、ずっと一緒に、眺めていた。
音もなく舞い落ちる白い華は、時が経つことさえ忘れさせて。
きっと、永遠を願っていた。
このままでいられたら、そう祈っていた。
あなたと眺める雪の結晶は、どんなものよりも、何よりも綺麗に思えたから。
「ロザリー。いつの日か必ず、この世界を変えてみせる。
いつか必ず、君にもっと広い世界を見せてやるからな」
雪の散る寒い夜はいつも、そう言って隣で笑ってくれていた。
微笑みながら名前を呼んでくれた。そこに、たくさんのぬくもりを詰め込んで。
名もなかったあの頃の私に、名前をくれた人。
欲にかられた人間に追われるしかなかった私に、あたたかなぬくもりをくれた人。
あなたが傍にいて、名前を呼んでくれるだけでよかったんです。
空に遊ぶ雪を眺めながら、隣で微笑んでいてくれていれば。
あの頃のように、優しい瞳をして傍にいてくれれば。
―――私は、それだけで………
何があなたを変えてしまったのですか?
どうしてたった一人、そんな顔で窓の外を眺めているのですか?
……優しかったその瞳に今静かに湛えているのは怒り、そして、憎悪。
「私は人間を滅ぼすことに決めた。君が人間に怯えることなく暮らせるように。もう少しの辛抱だ。
………いい子にしているんだぞ、ロザリー」
―――私が聞きたかったのは、そんな言葉じゃなかったのに。
天空から舞う雪の華を最後に二人で見てから、もうどれくらい経っただろう。
静かに降り注いできた白い花びらを、今は一人で、見つめている。
傍に、いて下さい。
昔のように二人、窓辺に立って。
寒くないか、と笑ってください。
広い世界なんて見られなくてもいい。
昔のようにふたり笑っていられたら、私はただ、それだけで…――
「―――ロザリー…!」
その日も空に広がっていたのは、あのときと同じ、鉛の色をした雪空だった。
彼女の身体が横たわっていたそこに広がっていたのは、一面の雪。
彼が目にしたそれは―――一面に広がる真っ白な、闇だった。
霞んでいく意識の中、悲痛な彼の叫び声だけが聞こえた。
名前を呼ぶその声。耳に届いた自分の名前。彼が授けてくれた、名前。
「……ロザリー…。ロザリー、しっかりしろ…!」
冬の空気に冷たくなった肌が、抱き起こしてくれた腕のぬくもりに包まれる。
あの頃と変わらないぬくもりに、彼女は重い瞼を持ち上げた。
「………ピ…サロ、さま……」
半ばぼやけている視界の中に、それでも間違いなくそこにあるピサロの頬に、震える手を差し伸べる。
「…嬉しい…。…来て、下さったん……ですね……」
そっと触れた掌からは、じんと染み入るような優しい温度が伝わってくる。
彼女がずっと望み続けた、あの日と同じぬくもりが。
「…ロザリー…。……人間ども……!!」
冷え切った彼女の身体を、包み込むように抱きしめる。
頬に触れる冷たい手を握り締めながら低く唸るような声で呟く魔王に、彼女は声を振り絞った。
「ピサロさま…。私の、最後の…わがまま…聞いて……ください。
…人間を滅ぼすなんて……やめてください…。…どうか…そんな、恐ろしい…こと……」
「……………」
今にも消えてしまいそうな声に、ピサロの紅い瞳から静かに雫が落ち、ロザリーの頬を濡らす。
ただその身体を抱きしめることしかできない自分に、ピサロは声を殺して泣いた。
「……ピサロさま……」
雫を零す彼の瞳を見上げたとき、彼女の頬に、涙とは違う別のものがふわりと舞い降りた。
涙とは別の、冷たい感触。
いつか手に触れた、いつからか彼女が待ち望んでいた、冷たくも優しい、真っ白な冬の結晶。
「……雪………」
遠い空を見上げ呟く彼女の視線を追うように、ピサロが顔を上げる。
空いっぱいに広がる鉛色の空から、数え切れないほどの白が、風に吹かれながら降り注いでいた。
落ちては消えるその雪に、彼女は愛しげに掌を翳した。
あの日と変わらない微笑みを、その頬に、そして瞳に湛えながら。
「ピサロさま。……私、もう一度……あなたと、一緒に……見た…かった…。
白い、花びらみたいな……雪を。
…あの頃の、ように……二人で…一緒に………」
「ロザリー……。…もういい、もう…喋らないでくれ……」
空に翳した手を握り締め、強く抱きしめる。
彼女のかすかな胸の鼓動を、呼吸の音を確かめるように。
「……ロザ…リー……」
不意にあの日、隣で笑いながら雪を眺めていた彼女の姿が蘇る。
屈託なく笑う、誰よりも大切な人の姿が。
誰よりも、守りたかった人の笑顔が。
「よかった…。最後に……最後に、あなたと…こうやって……雪、見ること…できて……」
弱々しく紡がれる言葉に、彼女が今にも消えてしまいそうな、そんな気がした。
―――自分を見つめ小さく笑うその顔は、あの頃と何も変わらないのに。
「あなたと見る雪は……何よりも、綺麗…なんです。綺麗で…そして、どんなものよりも優しい…」
舞い落ちてきた、雪の華。
ずっと小さく願い続けてきた。……二人で見る、雪の花びら。
「よかった。…最後に、あなたに会えて……よかった」
待ち望んでいた冷たい華を見上げながら、彼女の瞳から真紅の涙が零れ落ちる。
最後の涙は音もなく崩れ、銀色に染まった大地に吸い込まれるように消えていった。
いつの日からか祈り続けていた、小さな願い。
もう一度、二人一緒に見たかったんです。
あなたの優しい笑顔の隣で、何よりも綺麗な、真っ白な雪の華を―――
二人で見た最後の雪は、冷たい冬の匂いと一緒にいつまでも大地に降り注いでいた。
音もなく、止むことを忘れてしまったかのように、いつまでも―――
2003.10.29