「両親」という存在がかつて自分にもあったということだけは、わかっていた。
ただ、その記憶の全ては朧で、声はおろか、顔さえも思い出すことができない。
『お前はここに残るんだ』
ただ、ひとつだけ。サランの町に一人残された時、最後にかけられた言葉だけは、未だに耳から離れない。
クリフトがまだ物心つく前に、彼の両親は幼いクリフトをサランの町の教会に預け、そのまま姿を消した。
彼の最初の記憶は、遠くなっていく両親の背中を追いながら泣く自分の声と、振り返らない二人の姿。



まって。
どうしておいていくの?
わるいことしたならあやまるから。
だからいかないで。ひとりにしないで――



追憶



その後教会で彼を育ててくれたのは、優しい目をした神父たちだった。
捨てられたも同然のクリフトに神の道を説き、泣きやまない時には膝に乗せてあやしてくれた。
泣きじゃくるばかりだったクリフトに少しずつ笑顔が戻ってきたのは、教会に来てから一年ほど経った頃。
しかしそれと同時に、教会には人が不在になることが多くなった。
近隣諸国で勃発する戦争の負傷者を癒すため、教会の人間は朝早くから夜遅く、時には何日もかけて、ほとんどが手伝いに借り出されることになったのだ。
それでも、すぐに戻ってきてくれると信じて疑わなかったクリフトは、ある夜、聞いてはいけないことを聞いてしまった。

その夜は、悪夢に目が覚めた。
顔も声も思い出せないが、夢に見たのは、ある家庭での出来事だった。


――あんたなんか、生まれてこなければよかったのに!
ヒステリックな声と同時に響いた、頬を張る掌の音。
――ごめんなさい、おねがい、やめて。
子供の声。泣き声。たどたどしい声で何度も許しを請うていた。
黙らせてよ、と甲高い声がわめくと、大きな手に身体をひょいと担がれて、子供は外へ放り出された。
ドンドンとドアを叩く音。しゃくり上げながら泣き喚く子供の声。

――ごめんなさい。おねがい、なかにいれて、ゆるして――


夢はそこで途切れた。
夢の中での、自分には関係ない出来事のはずなのに、クリフトの身体は震え、服には汗がびっしょりと滲んでいた。

夢が頭にこびりつき、眠れなくなったクリフトは、久し振りに早く戻ってきてくれた神父の隣で寝せてもらおうと考えた。
暗い廊下を歩き、明かりの洩れる窓の傍へと駆け寄る。
神父さま、そう声をかけようとした時だ。
「…クリフトのことだが」
唐突に自分の名前を聞いたクリフトは、咄嗟に言葉を飲み込んで部屋の中を覗き込んだ。
何やら深刻な表情で話している神父たち。その表情は普段自分に見せてくれるものとはあまりにかけ離れていた。
怖い、と、幼いクリフトは咄嗟に思った。寝巻きの裾をぎゅっと掴み、息をひそめて耳をすませた。
「これ以上、私たちではとても面倒を見ることはできない」
「神学校に出すのはどうだろう。それなら国の援助もあるし、クリフトは聡明な子だ。きっと入学も叶う」
「だが、あの子はまた一人になるんだな…」
「…やむを得ないだろう。…言いたくないが、元は捨てられた子ども。我々の子ではないのだ」

――すてられた、こども。

眩暈がした。手が、身体が、滑稽なほどガクガク震えた。
足が震えてもつれそうになるのを必死で堪え、何とか自分の部屋まで戻ると、クリフトは力なく床に座り込んでしまった。
自分は神父様たちの子になれたと信じていた。
いや、錯覚していたに過ぎなかったのだと、その時気がついた。
捨てられた子ども。
教会に置き去りにされていたから、皆、仕方なく面倒を見ていただけだったのだ。
そして今また、ここを追い出されようとしている。

いらないの?
…ぼくは いらないこどもなの?

部屋の隅で膝を抱え、誰にも気づかれないよう、声を殺して泣き続けた。
これが、鮮明に残る二つ目の記憶。




神学校の入学試験には、驚くほどあっさりと合格してしまった。このあたりは、教会の神父たちの見込み通りだったと言える。
新入生の中では最年少。
しかも本来なら五年かかるはずの課程を、入学から三年でこなしてしまった。
教会で基礎的なことを一通り教わったとはいえ、快挙と言わざるを得ない出来事である。
いつの頃からか、クリフトは周囲の子どもたちから一目おかれる存在となった。
「すごいな、お前」
「入学が七歳で、たった三年で初等課程終えたって言うんだから…うわ、まだ十歳になったばっかりか!」
「すっげぇ!お前、天才か!?」
初等課程修了式で投げかけられた言葉に、クリフトは頬を染めながら照れくさそうに笑った。
「天才なんかじゃないよ」
照れはしたが、嬉しかった。称賛の言葉を貰える機会など、これまで数える程しかなかったのだ。
同期入学の生徒に冗談交じりに祝いの言葉を投げかけられ、クリフトは戸惑いながらも嬉しそうな表情を浮かべていた。

神学校の生活は楽ではないと、周囲の生徒は口を揃えて言うが、クリフトにとっては別段苦になるものではなかった。
寮と学校の往復を繰り返す。傍から見れば窮屈な生活に違いない。
だが立派な神官になりたいという願いを持ちながら、クリフトは毎日、喜々として朝から晩まで勉強した。
一人前の神官になったら、サランに戻って教会で働く。
それが、幼いクリフトが抱く夢だった。

立派な神官になりたい。
…そうすれば今度こそ、誰かに必要とされる人間になれるはずだから。




願いを胸に、呪文の勉強に熱心になっていたある日のことだった。
夜遅くまで学校の図書館で勉強していたクリフトは、人気のない教室に呼び出された。
月が高く上る時分。
神を象った彫像と机、そして月明かり以外は何もない教室で待っていたのは、三人の少年たちだった。
彼らはクリフトを取り囲むようにして立つと、周囲に誰もいないことを確認して、部屋の鍵をかけた。

「…生意気なんだよな、お前」

暗い表情で見下してくる上級生。背はクリフトよりも幾分か高い。
何のことかわからずにいると、別の少年がクリフトの顎を掴み持ち上げた。
「お前、自分が何て言われてるか知ってるか?」
「…天才、神童。何でも一度で覚えるし、要求されたことは何でもできるって、もっぱら評判だ。
 頭くるよな。俺らなんてもう何年ここにいるかわからないのに」
「俺らに対する当てつけか?」
「そんなことっ…」
バン、と大きな衝撃音に思わず目を閉じる。耳のすぐ脇を掠めるようにして、目の前の生徒の掌が壁を思い切り叩いた。
「…ムカつくんだよ。
 お前みたいに生まれつき能力があって、何も苦労せず生きてきたみたいな顔してる人間が、そうやっていい目ばっか見てるってのは」
違う、と反論しようとして、その言葉を飲み込んだ。
自分が親に捨てられた子であること。
預けられた教会からも、一人前になるまでは勉学に励めと言われ、不本意な形で送り出されたこと。
――いらない子。
口にしたら、自分がその事実を認めることになる。
「…………」
クリフトは俯いて唇を噛んだ。
一人前になったら、サランに戻る。
追い出されたわけじゃない。一人前の神官になったら、きっと皆、優しく出迎えてくれるに違いない。
そうすれば自分を置いて去った両親も、きっと戻ってきてくれる。そう思うことで自分を励ましていた。
認めるわけにはいかない。例え、人にどう思われようとも。
「僕は…ただ神の道に進みたくて、ここで学ばせていただいているだけです。
 特別に能力があるとも思ってないし、あなたたちに当てつけようだなんて気持ちも全くありません」
動揺を悟られまいとした態度が裏目に出たのか。きっぱりとそう言い切ったクリフトを見る少年たちの目が、きつく鋭くなった。
「生意気言うなよ。そういう態度が人を見下してるって言ってんだよ」
「…なぁ、ちょっとこいつ…」
一人が、隣の少年に耳打ちする。内容を聞いた少年はクリフトを一瞥すると突然掴みかかり、机のほうへと引っ張った。
何が起こったかを理解するより先に、身体が反射的に逃げようと動いた。手を引き剥がそうとすると、少年が怒鳴った。
「おい、押さえろ!」
「…や…ッ」
持ちうる力の全てを出して身を捩ったが、相手はいくつも年上の男、結果など火を見るより明らかだ。
ばたつかせる手足も抑え込まれ、あっという間に机の上に寝かされて押さえつけられてしまった。
ぐるりと視界が回転し、少年たちの表情が見上げられるようになった。
なんだろう、この体勢は。
「放してください」
怖くなり、必死に声を絞り出したが、その声は既に震えていた。
少年は顔を見合せて笑うだけで、手を緩めようとはしない。
「…放して。…いやだ、放してぇっ!」
何とか逃れようとわめくと、頬をパシンと叩かれた。
「…っ」
恐怖に固まる身体。喉が詰まる、声が出ない。逃げたいのに、叫びたいのに。
震え始めてしまった身体は、この状況で何の役にも立ちはしない。それどころか、目の前の少年たちの歪んだ欲を煽るに違いなかった。
自分よりもずっと大きい手が衣服を乱し、肌を曝け出させる。
「…や…、めて…」
音にならないくらいの声で、クリフトは懇願した。
神学校に通う生徒のみが袖を通すことを許された制服。
神にまみえる為に身につける神聖な衣服が乱れる。それだけでもクリフトにとっては酷い屈辱だった。
ベルトを放るような音が聞こえた後はどうなったかよくわからなかったが、いともあっさりと足を開かされてしまった。
「ひ…!」
空気が喉の奥から漏れる。瞬きをすると、突然頬が濡れた。
その先に見えた少年の顔が、醜く歪んで見える。
「怖いのか?ならそのいい頭使って考えてみろよ。どうやったらこの状態から抜け出せるのか」
「ひっ…」
肌蹴た衣服の間に手を入れられ、首筋や胸や腹部を無造作に撫でまわされた。
上下する胸の上にある小さな突起を指先で抓まれ、くりくりと捏ね回され。
開いたままの口の中には舌を入れられた。
「…んっ、…ん、…んくっ…」
上顎の裏を撫でるように舐められたり、舌を絡められたりしたが、クリフトは目を見開いたまま、動くことができなかった。
複数の少年が自分の周りに群がっているということだけしか理解できず、されるままでいる外ない。
足を押さえていろという声が聞こえると同時に、下半身に伸びた手が、まだ幼い性器を撫で始めた。
制止を乞うことも抵抗することもできずに、クリフトはただ真っ直ぐに天井を眺めていた。
「…はぁ、はっ、はぁっ」
途方もない恐怖に息が乱れ、カタカタと身体が震える。
何故こんな場所に触れられるのか、何の目的で触れられるのか。頭の中が真っ白で、何も考えられない。
もしかすると、頭が理解することを拒んでいたのかもしれない。
「何だよ、全然反応しないじゃないか」
「まだ子供だからじゃないか?」
「つまんねぇなぁ」
次から次へと、自分の上のほうで言葉が流れていく。
何を言っているのかはよくわからなかったが、彼らが興奮しているらしいことだけは何となくわかる。
彼らがいくつか言葉を交わすと、押さえつけられた腕はそのままに、突然、腰が浮くほど深く足を折られた。
見下ろす少年たち。その先に、神を象った彫像が見える。
神が見ている。こんな格好で神にまみえるなど、冒涜以外の何物でもない。耐えきれずにクリフトは固く目を閉じた。
「…や、…めて…っ、…か、神のっ…御前で…!」
泣きながら身を捩るクリフトを見下ろしながら、少年は目を細め、自分の指を舐めた。
「さすが優等生は違うなぁ。こんな状況でも、考えるのは神のことか」
――神を背にしている彼らには、あの蔑むような目が見えないのだろうか。
濡れた指が、入口に触れる。ぴくんと反応した身体を見て薄く笑うと、少年はそこを数度撫で、濡れた指の先を差し込んだ。
「う…っ」
痛みに思わず委縮する身体を、無理にこじ開けられる。
「い、…痛いっ……やめて、痛いよぉ…っ」
指で中を広げながら、行為の中止を懇願するクリフトに向かい、少年は言った。
「確かにお前は優等生かもしれないが、例え人より早く勉強が進んでも、…穢れのある身体じゃ神に仕えることはできないよなぁ」
一際大きく身体が跳ね、閉じられていた瞳が大きく見開かれる。
「…やめて…、それ、だけは…」
神官になってサランに戻り、教会で働く。
それだけが今の自分にできる唯一のことであり希望なのだ。
その道を断たれたら、今度こそ自分の存在意義はなくなってしまう。

誰も自分を必要としてくれなかった。
その上、神にまで必要ないと言われたら、もう。

「…お前みたいなのがここにいると、苛ついて仕方ないんだよ」
「いいだろ?神に仕える資格を失ったって、家に帰ればどうせ家族がなんとかしてくれるんだから」
もう言葉を探せなかった。しゃくり上げながら、クリフトは必死に首を横に振った。
帰る家なんてない。まして家族なんて―――
「力抜いてろよ」
言われた直後、凄まじい痛みが身体を貫いた。
その行為は、幼い身体が耐え得るものではなかった。身を捩って逃れようとするのを押さえつけられ、閉じようとする足を広げられ、奥へ奥へと打ち込まれる楔。
「…ぅあ…っ、…ッ!」
悲鳴を上げることもできずに、ただ身体を強張らせ、息を詰めるしかなかった。
熱した刃物で抉られているのかと錯覚する程の痛みに、冷たい滴が頬を流れる。
痛いのは身体なのか、それとも別の何かだろうか。
視界に歪んだ笑みを認めた次の瞬間、目の前にもやがかかったようになり
後はもう、何を見たのか、何をされたのかすらも、クリフトの記憶の中には残らなかった。




「…ッ、……ぅうっ…、…ひっ…く…」

次に思い起こせるのは、全てが終わり、倦怠感と痛みと絶望の中で床に横たわっている記憶。
身体中が軋むように痛んだことは覚えているのに、何をされてそうなったのかは思い出せない。
ぷつりと記憶が途切れてしまっている。それが、幸か不幸かはわからないが。

『お前みたいなのがここにいると、苛ついて仕方ないんだよ』

いるだけでも、許されないのだろうか。
どこにも行く場所がなくて、ここに来たのに。
誰かに必要とされる人になりたくて、ただその一心で、ここで勉強していただけなのに。
「…う、…うぇ…っ、…うぅ…」
クリフトは誰もいない部屋の床の上に身を投げ出したまま、震えの止まらない身体を、自らの腕で抱きしめた。
誰も抱きしめてくれない、汚れた身体。
せめて自分で抱いていないと、崩れてしまうような気がした。

天才?神童?
何でも一度で覚えるし、要求されたことは何でもできる?

…いらない。
そんな力なんていらない。
大事なことを一度で覚えられたり、人より早く、何かができたりしなくたっていい。
ただ一度だけでいい。
自分を抱きしめて、心の底から、必要だと言ってほしかった。
たった一人だけでいいのに。
誰か、たった、たった一人だけでも。

「…たす、けて…」

――いらない、こ。

どうしてだれも ぼくのことを ひつようだって いってくれないの?
どうしてみんな ぼくのことを いらないこだって いうの?
ぼくは そんなにわるいこと したの?

胸が痛くて、苦しくて、息ができない。

「……苦しい、…くるしい…よぉ…」

人を愛せよ。神は言うけれど、そのやり方を教えてはくれない。
どんなにたくさん本を読んでも、どんなに一生懸命勉強しても、わからないんだ。

ねぇ、教えてよ。誰か。誰か――




「――…う…」

目を開けた時、真っ先に感じたのはじっとりとした服の感触だった。
次いで、伝い落ちた涙の冷たさ。
この夢を見るときは、決まって涙を流している。
もう慣れてしまったが、目覚めたときに感じるこの冷たさは、あまり心地いいものとは言えない。

自分の魘される声で目覚めることは、ここしばらくなかったのに。
こんな夢を見てしまったのは、今日の出来事のせいだろうか。

――何不自由なく生きてきたアンタに何がわかるんだよ。

「…何不自由なく…」
額に張り付いた前髪をかき上げながら、クリフトは息をついた。
幼い頃、望むものを何一つ満足に与えてもらえなかった自分がそう思われるのは、おそらく悪いことではないのだろう。
そう思ってもらえる程度には、笑顔を作れるようになったということなのだから。

泣いても喚いても、叫んだって、誰も助けてはくれない。
運命を嘆いたところで、自分の境遇が変わるわけでもない。
だから受け入れるしかない。
結局のところ人はみな、そうして生きていくしかないのだ。
それをあの若き勇者様はまだ、わかっていないのかもしれない。
だから苦しむ。受け入れてしまえば楽なのに、未だ過去を引きずり、運命を憎んでいる。
あれでは苦しみは増すばかりで、いつか背負うものの重さに耐えきれなくなってしまうだろう。

村中の人々に心から愛され、世界中の人々に必要とされ、そして生かされた「天空の勇者」。
彼にとって、それは限りなく重い肩書きに違いない。それこそ、押しつぶされてもおかしくないくらいに。
けれど、何とかして彼を重圧から救いたいと思うのと同時に、その境遇に妬みにも似た羨望を抱いている自分がいることに、クリフトは気づいていた。
神官としてあるまじき感情だとわかっていても、彼を守りたいと思う気持ちと、彼への羨望とは複雑に絡んだまま、胸の中にある。

彼は、大切なものを失う悲しみを知っている。
口にはしなかったが、それ程羨ましいことがあるだろうかと、胸の内で思っていた。


クリフトはベッドに入ったまま、膝を抱えて身を小さくし、自分の身体を抱いた。
目を閉じ、ゆっくりと息を吐いて、そして自らの掌で身体を擦る。
神童、と、そういえば言われた頃があったな。ふと思い出し、口の端を持ち上げた。
それにしては、随分愚かな大人に育ったと思う。いい大人になってもまだ、この癖が抜けないのだから。
自分で自分の身体をかき抱く癖。
心は子供のまま、身体だけが大人になってしまったような、あまりに幼い癖。
自分で自分を抱きながら、今でも心の奥底で、自分をこうして抱きしめてくれる誰かが一人でもいたらと、そう思ってしまうのだ。
心から自分を必要とし、愛してくれる、そんな誰かが。
本当に、愚かだ。

「…そんな人、いるはず、ないのに…」

現実を受け入れられていないのは、あの人ばかりではないのかもしれない。
こうして己を抱きしめている自分は、陵辱を受けては独り泣いていた、あの幼い頃と変わらない。
自分の腕で自分を抱きながら、いつかきっと自分を愛してくれる人が現れるはずだと、心の片隅で思ってしまうのだから。
過去や運命を受け入れられていないところは、きっとあの人と同じだ。
「ソロさん……天空の勇者、か」
今頃、もう深い眠りの底にいるのだろうか。
不幸な運命を背負わされた、皆に待ち望まれた勇者。
今頃は、どんな夢の中にいるのだろう
願わくば…皆に愛された日々の夢の中、穏やかに笑っていますように。
そう思いながら、指先で小さく十字を切った。

窓の外にはもう、光が戻りつつある。恐らく、夜明けは近いだろう。
間もなく、またいつもと変わらない一日がやってくる。
それまであと少しだけ、こうして自分を抱きしめていることは許されるだろうか。
夜明け前の薄い闇の中、クリフトはベッドに潜り込むと、再びゆっくりと目を閉じた。


「星の見えない夜に」のクリフトの幼少期の話です。重さ&暗さMAX。
最初は「幼少期のクリフトが神学校時代に、先輩の妬みを受けていやがらせを受ける(未遂)」程度だったはずなのに、えらい長く重い話になりました…。
2008/5/24