血を見るのは、嫌いだった。
何度も何度も目にしてきた、自らの手で葬った、命あるものの最期の姿。
死を賭して繰り広げられた闘いの後に残るのはいつも、寒気がするほどの静寂と、張り裂けそうな程に激しく打つ自分の胸の鼓動。
その後に襲ってくるのは押し潰されそうな程の罪悪感と、例えようのない虚無感。
それは自分が生きていることを、生き残ってしまったことを鋭く意識の中に刻み込ませるためのもののようにも思えた。
永遠なる痛み、永久の罪
幾度も目にしてきた、地面に染みた血の跡と、赤い雫の滴り落ちる、自分の手。
「――…どうか、この者たちに静かなる眠りを。
どうか…永遠なる安らぎを………」
真紅に染まった指先で十字を切り、空を見上げる。
忌々しい程青く澄み渡った空は、いつもその言葉に応える代わりに、私に声なき言葉を投げかけてきた。
少なくとも私には、そう思えた。
―――お前は、誰のために祈る?
「……私は。私は、私たちが奪った、尊き生命のために。その安らぎのために……」
どんなに洗っても落ちない血の匂い。
どんなに逃げてもまとわりついてくる、死の重み。命の、重さ。
何日も何日も、食事が喉を通らなかったことがある。
悪夢にうなされたことも、一体何度あっただろう。
散りゆく生命を目の前に、拳を握り締めながら、それでも堪えきれない涙が頬を濡らしたことも。
幾度となく繰り返してきた、そんな行為。だけどきっと、わかっていたんだ。
どんなに涙を流したって答えなんて見つからない。救いの歌は、聞こえてはこない。
だから私は力が欲しかった。強く、なりたかった。
目の前で消える生命の灯を、その魂を、少しでも安らげる場所へと導けるような、そんな力が。
だからあの力を手にしたとき、胸を抉られるような苦しさと共に、ふと思った。
最期を迎える生命の、死にゆく瞬間の苦痛を少しでも和らげることができるのではないか、と。
この禁呪を操る力が自分の中に眠っていたことへの絶望と共に浮かび上がったそんな思い。
もしかしたらそれは、希望と名づけるに相応しい感情だったのかもしれない。
血を流すこともなく、苦痛にさらされることもなく、眠るように最期を迎えられるように。
それが今の私にできる、最大限のことだとしたら。
そうだとしたら……禁呪と言われるこの力を、価値あるものに変えられるかもしれない。
そう思った。…いや、そう思わざるを得なかったのかもしれない。
そう考えるようになってから今、どれくらいの時間が流れたのだろう。
「神よ。………どうか、永遠なる安らぎを」
変わらず祈りの言葉を呟きながら、指先でそっと、十字を切った。
あの頃とただひとつ違うことがあるとするなら、今この指先が赤く染まっていないことだろう。いや、それだけじゃない。
涙を流すことも少なくなった。悪夢にうなされることも、食事が喉を通らず、吐き気に襲われることも。
今の自分はほんの少しかもしれないけれど…あの頃よりも、死にゆく者たちを優しい死へと導けるのだから。
あの力を手にしてからそれだけを思って、祈ってきた。ただそれだけを、支えにして。
…今、あの頃よりも安らかな眠りへと、永遠の安らぎへと。あの頃よりも少しは近づけたはずだ。
自分自身にそう言い聞かせているときだけは、名もない痛みから解放されるような気がしていた。
ただ祈ろう。彼らを少しでも安らかな眠りへと誘えるように。
ほんの少しでもいい。
少しでもそうすることができるなら、私は彼らのために祈り続けるんだ。
そう。……祈り続けるんだ、彼らのために。
―――思えばあの人が現れるまで、そう信じて疑わなかった。
「ピサロさん!」
私があの人の戦い方に疑問を抱いたのは、彼が私達と旅を共にすることになって間もなくのことだった。
戦意を失くした魔物をも逃さず、目を覆いたくなるような血飛沫と共に、命を死という闇へと葬り去る姿。
初めはただ呆然とするばかりだった。
次に、恐怖が湧いた。
そして最後に辿り着いたのは、怒りという名の感情だった。
日も暮れ、一面が夜の闇に覆われ始めた頃、宿の一室へと姿を消そうとする彼の背へと声を投げる。
彼は何も答えない。ただ、部屋へと向かう足を止めてはくれた。振り返りこそしなかったけれど。
私は声が震えるのを抑えながら続けた。
「ひとつだけ訊かせてください。…どうして、あんな戦い方をするんですか」
また答えは返ってこなかった。
そして、自分の声は確かに細かく震えていた。
怒りにも悲しみにも似て、けれどそれだけじゃない。
自分の中で渦巻いている言葉にできない感情が、ひとつになって声を震わせる。
「……戦意を失った魔物まで殺すなんて。それだけじゃない。あなたの戦い方はいつも……
敵とはいえ、あんなにたくさんの血を流させて。あんなに悲痛な叫びを上げさせて」
他にもやり方はあるはずだ。何もあんな戦い方をしなくとも。
…そう、彼だって「あの力」を持っているんだ。
彼の意思一つで死への痛みも苦しみも、最小限に食い止めることだってできるかもしれない。そんな考えが頭をよぎる。
……彼は何を言うだろう。
お前には関係ないと一蹴するだろうか。あるいは馬鹿馬鹿しいと鼻で哂うだろうか。
怯みかける自分を戒めるように拳を固める。
その気配を感じ取ったのか、彼は振り返らないまま、初めて言葉を発した。
「……お前は、随分と臆病な殺し方をするな」
意外すぎたその一言に、意識の奥に潜む何かがどくんと脈を打った。
目の前で銀糸が音もなく舞い、血のように紅い瞳が嘲り笑うように光を照り返す。
身に纏うもの、そして掌を染める色。指先から滴り落ちる、雫の色。頭の中に蘇るその光景は、何度も見てきた彼の姿。
―――そしてそこに重なったのは、紛れもない、自分の姿だった。
「血が、怖いのか」
僅かに靴音を立て一歩、また一歩とその姿が自分のほうへと近づいてくる。
その度に大きくなっていく心臓の音が身体中にはっきりと、重く響き渡る。
「確かにそうだ。お前のやり方をもってすれば、自らの手を血に染めることなく、一瞬で片が付く。
血を目の当たりにすることで焼き付けられる罪の意識も、あるいは薄らぐかもしれぬな」
どくん、どくんと次第に大きくなっていく心音。
「……違う……」
やっとのことで出た声は信じられない程怯えて、弱かった。
その言葉に反応するかのように、胸がきつく締め付けられるような痛みと共に息苦しさが襲う。
違う。……そうじゃない。違う。
私はただ、祈っていただけなんだ。
目の前で散る命が、少しでも救われるように。少しでも安らぎを得られるようにと。
その為にあの禁呪を口にしていたんだ。自分の中に宿る、禁じられた呪文を。
今まで信じ、何度も繰り返していたその言葉が、どうして今になって痛みに変わるんだ。
「……違う。私は」
気付かないうちに後退りをしていた身体が、不意に冷たい壁に当たる。
「私は……ただ…祈っていただけなんだ。…ただ、それだけで……」
半ば意識とは関係なく、うわ言のように呟く。
それはあの呪文を放つ度に、心のどこかで恐怖に震えていた、ずっと押し殺してきたもう一人の自分。
消えたと思っていた弱い心が、目の前の静かな声によって引きずり出される。
「違うのか。…ならば私も訊きたいことがある」
固く拳を握った手を、不意に彼の手が捉えた。
そのとき思った。匂いがする。
―――消えることない、血の匂いが。
「……私がしていることとお前がしていることの、一体どこに違いがある」
静かな瞳の裏には、怒りという名の感情が確かに潜んでいた。
かつて私も抱いていた、無力さと怒りと、そして哀しみ。
忘れようとしていた、誰に向けているのかすらわからない、痛くてたまらない感情。
同じだからわかった。…あの頃の自分と何も変わらない、どうしようもない怒りを湛えた瞳だったから。
「自分の手を赤に染めなければ、葬り去られた命は救われるのか」
「………ごめん…なさい……」
「私が戦意を喪失した魔物を殺すのが気に食わないのか。
…
それならお前は、魔物に逃走する機会も…その意志を示す暇すら与えずに相手を葬っていることになるな」
「……ごめ…なさっ……ごめんなさい。…ごめんなさい……!」
何を謝っているのか、何に対して謝っているかもわからないまま、取り乱したようにそれだけを口走る。
塞がりかけた傷を裂かれる痛みにいつしか頬が冷たく濡れ、子供のように嗚咽混じりの声を上げ続けた。
多分、悲鳴に近い声だったと思う。
「祈ることで死にゆく者達の魂とやらを救えるのなら、それ程容易いことはないな」
押し殺したような低い声が、心の奥深い、一番脆い部分に突き刺さる。
怖くて怖くて、顔を上げることもできないまま、でも逃げ出したくて同じ言葉を何度も叫んだ。
「気付かないのか。お前も…私と同じ匂いがする」
「―――やめ…ッ!」
「………血の、匂いだ」
―――強くなれたら。
力を手にすることができたなら。
そうすれば少しでも、死にゆく者たちに安らぎをもたらせると信じていたならば。
そうすることで少しでも、答えに近づけると思っていたならば。
……私は、どこまで愚かだったんだろう。
わかっていたはずなのに。
例えそこに血が流れなくとも、悲痛な叫びが聞こえなくても。
自分のしてきたことは昔も、今も……そしてきっと、この先に待っている未来でも変わらない。
「最後に、ひとつ訊く」
ぐっと力を込めて腕を引き寄せられ、すぐ目の前に、血を思わせる真紅の瞳が覗く。
そこにあるのは怒りだけではなかった。
死と向き合って、罪を背負って生きることを決めた者の苦しみ、そして哀しみ。
「―――お前は、誰のために祈る」
何のために祈っているのだろう。
誰のために、祈っていたのだろう。
私は、一体、何のために。
自分が踏み躙ってきた生命のため?
その生命が少しでも救われるように?
……いや、違う。
きっと、自分のためだったんだ。
消えない血の匂いを感じたくなくて、醒めることのない悪夢から、目を背けたくて。
だから願っていたんだ、救いの声を。救いの歌が、聞こえてくることを。
血に染まる自分の手を見るのが苦しくて、いつも暗闇の中でもがいていて。
そんな自分に、優しい歌を歌ってほしかった。救いの歌を、届けてほしかった。
だからいつも祈っていたんだ。
…他でもない、自分のために。
強くなったんじゃない。卑怯だっただけだ。
ただ怖くて、目を逸らしたくて……あの頃のように、そして今目の前にいるこの人のように、向き合おうともしなかった。
例えこの手を血に染めなくとも、自分の犯した罪に何の変わりもあるはずがないのに。
数え切れない命を踏みにじってここまで来た事実も、その重すぎる罪も、どうやったって消えたりしない。
そう思うのが怖かった。
……怖くて仕方なかったんだ。
手首を掴まれていた手の力が緩むと、彼の足音が彼方へと消えた。
同時に身体の全ての力が抜け落ちるのを感じた。
そのままずるずると崩れ落ちた床の上に、音もなく雫が落ちる。
それでやっと、自分が泣いていたことに気がついた。
力の入らない両手を落ちてきた涙で濡らしながら、気付けば小さく掠れた声で呟いていた。
「………神よ。…私は………」
―――私は一体、何のために祈り続けるのだろう。
どんなに問いかけても、答えは返ってはこない。
あの頃と同じ痛みだけが、身体の奥で渦を巻く。見えない出口を求めて彷徨いながら。
永遠なる痛み、永久の罪。
そしてそれから逃れようとした愚かな自分に下された、罰。
消えることのない血の匂いを、醒めることない悪夢を。
自分が吹き消してきた、生命の灯を。…死の、重みを。
……全て抱えて歩いていけば、いつか光は見えるのだろうか。
2004.01.06