―――初めからわかっていたはずだった。
どれだけ手を伸ばしたって、届かないものもあるということくらい。
どれだけ強く願ったって、叶わない想いもあるということくらい。
それくらい…初めから、知っていたはずだったんだ。


Power of Love?


「…クリフト!」
遠くのほうから向かってくる足音に気付く様子もなく
街の中央にある噴水の淵に腰掛けたまま、名前を呼ばれた青年は目の前を通り過ぎる光景をぼうっと眺めていた。
「お待たせ。…ねぇクリフト、あのさぁ、さっきあそこで面白いもの売って……」
駆け寄ってきた少年は興奮気味にクリフトに話しかける。
しかし彼が自分の声に気付いていないことに気付くと、少年は不思議そうな顔をしながら一点に留まっている彼の視線の先を眺めた。
そこにあったのは笑いながら通り過ぎていく若い男女二人の姿。年の頃は自分たちと変わらないくらいだろうか。
「…仲よさそうだよね。いいよね。あーゆーの」
「……え?…あ…ユーリルさん」
少し離れた場所を歩く男女の姿から視線を離し、彼は自分の隣の声の主にそれを移した。
やっとのことで自分の声に気付いた彼を上から見下ろしながら、ユーリルは半分呆れたような笑顔を向けた。
暖かな昼の光に緑の波が揺れる。クリフトは彼を見上げるとその眩しさに僅かに目を細めた。
「あ、あの…すみません、気付かなくて……いつからそこに?」
「ついさっき。けどほんっとに僕のこと気付いてなかったね。それもちょっと寂しいよなぁ」
「……すみません」
申し訳なさそうな顔を向けるクリフトに、ユーリルは「冗談だよ」と笑って返した。
「ま、いいや。それよりさ、先に宿に戻っててくれる?
せっかく買い物付き合ってくれたのに悪いんだけど、ちょっと寄りたいところがあるんだ」
「えっ、ちょっ…」
立ち上がろうとしたときは既に隣に彼の姿はなく、代わりに少し離れた場所から大きく手を振って駆け出そうとする彼が目に映った。
「ごめん、夕飯までには戻るから!」
それだけ言い残すと、少年の姿は人影の中に消えていった。
「……何だったんだろう、一体」
ぽかんとして立ち尽くす神官のすぐ隣では、小さな水の粒がきらきらと飛沫を輝かせていた。


『仲よさそうだよね。いいよね、あーゆーの』
少しずつ傾き始めた日の光の差し込む窓辺で頬杖をつきながら、クリフトは先程のユーリルの言葉を思い出していた。
あのとき自分の目にしていた光景を頭の中に蘇らせると、自然に溜息が漏れる。
目の前を笑いながら通り過ぎていった二人、そしてその屈託のない笑顔を見せていた少女に、亜麻色の髪をした見慣れた顔が重なる。

(…比べても仕方ないだろう)
頭の中の光景をかき消すべく、クリフトは小さく頭を振った。
理屈としては理解できているのだ。充分すぎるほどに。
それでも、昼間見た光景がこんなにも苦々しく心の奥にわだかまっている。
それが何故であるかは、クリフト自身、十分に理解していた。

―――惹かれたのは、陽の光ですら霞んでしまいそうなほどのその笑顔。

傍にいられるだけでよかった。
傍で、笑っていてくれるだけでよかった。
それ以上、何も望むものなんてなかったはずだった。
…それ以上、何も望んだりしてはいけないんだ。


再び溜息が零れそうになったとき、勢いよく扉の開く音が響いた。
「ただいま。…うわぁ、この部屋夕陽が綺麗だね」
はっとして声のしたほうに目をやると、部屋の中を染めるオレンジの陽の光に見惚れる少年の姿。クリフトの口元が思わずふっと緩む。
「お帰りなさい、ユーリルさん。今、お茶でも入れますね」
荷物をおろし窓辺に駆け寄る彼から離れようとするかのように、クリフトは微笑みながらお茶の用意を始めた。
どこかぎくしゃくしたその動きは、ユーリルの心の奥をくすぐるような可笑しさがあった。
「うん。ありがとう。ところでクリフト、何浮かない顔してたの。…なーんて。そんなこと聞くまでもないか。
…あれからずっと考えてたんだろ、アリーナのこと」
突然図星を突かれ、クリフトの動きが一瞬止まった。
「…えっ…な、ち、違いますよっ。何でそんなことっ…」
部屋の中の小さなテーブルにつきながらそう言う彼に、クリフトはあからさまにうろたえながらも精一杯否定して見せる。
用意したお茶を注ぐ手が微かに震えている。…当の本人は気付いていないようだったが。
そんな彼を横目で見ながら、ユーリルは身に着けていた兜を外して大きく息を吐くと、クリフトの方に向き直った。
彼の頬が赤く染まっているのは夕陽のせいなどではないことを、彼は十分すぎるほどに知っていたのだ。
心の奥からこみ上げてくる可笑しさを堪えながら、ユーリルは彼の動きを目で追った。
目の前に出されたティーカップを口元に運び、クリフトが席に着くのを待ち、彼は続ける。
「またそんなこと言って。…クリフト、さっきのカップル見て溜息ついてたよ。気付いてた?」
「…っ…!」
湯気の立っているそれをぎこちなく喉に通す彼を、ユーリルは楽しそうに眺める。
「アリーナと恋人同士になりたいんでしょ」
瞬間、目の前で思いっきりむせ出すクリフト。
その予想以上のリアクションに驚きながら、ユーリルは涙目になる彼の背をさすってやった。
「だ…大丈夫?クリフト」
顔を赤くし咳き込みながら、やっとのことで反論が始まる。それこそ泣きそうになりながら。
「…な…何でそんな唐突なんですかっ!せめて、もう少しこう、前置きくらい…」
「だって、回りくどく言ったってクリフト絶対認めないだろ」
「でっ、でも、それにしたって!」
「…好きなんでしょ?アリーナのこと。何で言わないの?アリーナに自分の気持ち」
「…………」
突然、部屋の中が沈黙に包まれる。
自分の椅子に座り直したユーリルは言葉を待ちながらティーカップの中身を流し込むと、小さく喉を鳴らした。
まだ俯いたままのクリフトを時折ちらちらと見ながら、窓の外の夕焼けを眺める。

「…姫様は」
カップの中身がなくなりかけた頃、クリフトの静かな声が耳に届いた。
「…姫様には、私など」
テーブルの上に視線を落としたまま言うクリフトに、勇者は言葉を返す。
「…クリフトさぁ、もうちょっと自分に自信持ちなよ。
クリフト、背高いし、頭いいし、顔つきだっていいし。それに何より優しい」
「ほ…褒め殺しじゃないですか」
落とした視線を上げると恥ずかしそうに言う。ユーリルはそんな彼に笑いかけた。
「別にお世辞じゃないよ。僕は本当にそう思うから。
 だからさ、クリフトもそんなに自分を否定しなくてもいいと思うんだけどなぁ」
「…そういうことじゃないんです」
僅かに残っていたお茶を飲み干し、カップをテーブルに下ろすと、目の前のクリフトの顔には寂しそうな微笑が浮かんでいた。
「じゃあ、どういうこと?」
再び、静かな時間が流れる。
窓の外のオレンジが次第に紫色に変わり始め、夜の訪れを告げようとしていた。
ほんの少し薄暗くなり始めた部屋に流れる沈黙の中、クリフトの穏やかな声が響いた。
「…姫様と私では、あまりに違いすぎるんです。
 あの方は、今でこそ…そう、私たちが運命に導かれた今だからこそ、こうして旅の中で一緒にいることはできる。
 …だけど…この旅が終われば、また」

――手の届かない人。
誰よりも近くにいながら。…誰よりも、遠い。

「…私などが、そのようなことを望めるはずがないんです」
その穏やかな笑顔の裏には、どこか悲しげな色があった。

初めから、知っていた。
これ以上、望むことなんてできない。
傍にいられるだけで、傍で笑顔を見られるだけで、それだけでよかったはずなんだ。
…これ以上のことを、望んだりしてはいけないんだ。


「…何、逃げてんの」
さっきよりも静かな、トーンの変わった声に驚いて顔を上げた。
目の前で、さっきまでとは違う、真剣な表情を浮かべた少年がじっと自分を見ている。クリフトは無意識に息を呑んだ。
「私など、とかさぁ。
何それ。『身分』を盾にとって、クリフト、ただ逃げてるだけじゃないか。
もっともらしい言い訳作ってさ。かっこ悪っ」
僅かに笑って言う彼の表情に頭にかっと血が上る。
目の前のその笑みは、自分を見下すかのように見えた。それが気のせいであるとも思えない。
気がついたときには震える声が口をついていた。
「…あなたに何がわかるんです」
言ってしまってから自分の言葉に驚いた。けれど言いかけてしまった以上、もう後には退けない。
普段とは違う表情で自分を睨むクリフトにも動じる様子はなく、ユーリルは頬杖をついたまま目の前の彼の言葉を待った。
「あなたに何がわかるって言うんですか。
 はじめから結果が見えていることだってあるんです。それがどれだけ苦しいか、あなたにわかるんですか。
 どんなに手を伸ばしたって届かないものだってある。どれだけ望んでもっ」
語気を強めてそこまで言った瞬間、バン、と机を叩く音と共にユーリルがその場に立ち上がった。
「何言ってんだよ、弱虫!」
「…よっ…!」
「クリフトは自分が傷つくのが怖いだけだ。
 手が届かない…?手ぇ伸ばす前から何決めつけてんだよ。届くじゃないか、すぐにっ」
そこまで言うとクリフトに背を向ける。その背中に向かって彼もまた言葉を放った。
「だから、あなたに何がっ…」
「――クリフトは!」
言葉を遮るような大声。クリフトは怯んだ。
「クリフトは、手ぇ伸ばせばすぐにアリーナに届くじゃないかっ。
 話したければいつだって話せる。笑いかければ笑い返してくれる。
 自分の気持ちぶつけることだってできる!!」

―――しまった。
そう心の中で呟いた。身体の熱が一気に引いていく。
しんと静まり返った空間の中で、クリフトは背を向けたままの少年を見つめた。
拳を固めたまま、その背は小さく震えている。一点を見つめたままで。

「…贅沢だよ、クリフトは。
すぐ傍に大好きな人がいて、すぐ傍で笑ってくれて。
 自分さえ望めば、すぐ気持ち伝えることだってできて」
「…ユーリル…さん」
さっきとは全く違う、静かで穏やかな声。
それが涙を堪えているかのようにも思えて、ぎゅっと胸が苦しくなる。
かけがえのない人を失った目の前の少年。それも、突然。……自分の身代わりとなって、殺された。
自分の浅はかな言葉に、後悔の気持ちが止まらない。

「…僕みたいになってからじゃ、遅いんだぞ…?」
「…………」

カタン、と音がして、静かにクリフトが腰を上げる。
それに気付いたのか、ユーリルは拳で顔を拭った。振り返ったその顔には既に笑顔が浮かんでいる。
その姿に再び、胸が締め付けられるように痛んだ。

「……なんて。…へへ、びっくりした?
…ごめん、自分のこと言うつもりじゃなかったんだ。
だけど、クリフトには僕と同じような思いしてほしくなかった。
…本当に…本当に何も届かなくなってから後悔したって遅いんだ」
暗くなりかけた部屋に差し込む最後の陽が、僅かにその顔を照らし出していた。
目を伏せて呟いた最後の一言に胸が熱くなる。

「……ありがとうございます、ユーリルさん」
自分よりも少し低いところにある少年の頭を軽く抱き寄せた。
すぐにその手を離すと、彼はいつものように穏やかな口調で話し出す。
「確かに、あなたの言うとおりかもしれない。
私は…傷つくのが怖くて逃げていただけなのかもしれません」
その言葉にユーリルはぱっと表情を明るくさせた。
「クリフト。…じゃあ、言うの?アリーナに」
明らかに期待しているといった少年の言葉に、神官はぐっと言葉に詰まった。知らないうちにまた顔が熱くなる。
苦笑いを浮かべながら視線を少しずらすと、苦し紛れに言葉を並べた。
「えっ…い、いえ、そんな。すぐには…何か、きっかけがないと」
「きっかけ…うーん。それもそうか。……あっ、そうだ!」
思い出したように言うと、自分の荷物の中に何かを探しガサガサと音を立てた。
しばらくたって戻ってきた彼の手の中には、小さな瓶がひとつ。
透明な液体の入ったそれを、彼はクリフトの前に差し出した。
「はい。これ、クリフトにあげる。要はきっかけができればいいんだろ?」
「え?…これは…中身は何なんですか?」
「惚れ薬」
「ほっ、惚れっ…!?」
思わず声を裏返しながら、クリフトは目の前の顔と、自分の手の中で光っている小瓶を何度も見比べた。
「そう、さっき街の中の道具屋で見つけたんだ。珍しかったから買っちゃった」
「…珍しかったから、って。で、でも…これを、どうすれば」
うろたえながら尋ねる彼ににっとひとつ笑みを見せると、ユーリルは瓶を手に取り、小さな音を立てて蓋を開けた。
「これを、こうやって…さ」
テーブルの上に残されたままになっているカップに中身を注ぎ、更にそこにお茶を注ぐ。
ユーリルからクリフトに手渡されたそれは、何の変化もなくただ目の前で静かに湯気をたてていた。
「これをアリーナに飲ませればいいんだよ。飲んで最初に見た人を好きになるんだって」
そんなうまい話があるんだろうか。半信半疑ながらカップの中を覗く。
…確かに、これなら怪しまれることもなく簡単に薬を飲んでくれるに違いない。
一瞬頭の中にそんな考えが浮かび、クリフトはそれをかき消すかのようにぶんぶんと首を振った。
「でっ、ですが、こんなこと…。…そう、万が一、姫様の身に何かあったら!」
「大丈夫、効果は一日しか続かないって言ってた。だから、その一日の間に頑張るんだよ。
 これはあくまでもきっかけにすぎないから。あとはクリフトの頑張り次第ってこと。
 …欲しかったんでしょ?きっかけが」
その言葉に思わずごくりと唾を呑む。カップの中で一瞬きらりと水面が光ったような気がした。
「頑張って。応援してるから」
ポンと軽く背を叩かれ、そのままその背を押されてドアの外へと出される。
水面を見つめたまま、心臓が派手に音を立てた。
「アリーナの部屋はここの三つ隣だよ」
その言葉に促されるように、クリフトは緊張と不安の入り混じった顔で目の前の顔に頷くと、ゆっくりと歩を進めた。

「頑張れ、クリフト。上手くいくといいね。
まぁ…あの薬渡したのは、あの薬がどれだけの効果があるのか見てみたかったってのもあるんだけどね。
…どうなるのかな。アリーナのほうから腕組んできたりしたら、クリフト失神しちゃうんじゃないのかな」

――クリフトの姿がアリーナの部屋に消えてからユーリルがそんなことを呟いていたことを、彼は知らない。


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