大切なものを奪われる痛みと
大切なものを知らずに生きていく虚無感。
不幸なのは、どちらだろう。


星の見えない夜に



旅をしている仲間の中に、若い神官のクリフトという男がいる。
サントハイムという国に仕える城付きの神官。
まだ二十とそこそこという若さで、王族にも謁見を許されているという。
頭の回転が早く、回復呪文を数多く使いこなし、器用なことに剣まで振るう。
この、自分とそう年の変わらない神官は、何故か事あるごとに俺に話しかけてきた。

「大丈夫ですか?ソロさん」

いつもその顔に柔和な笑顔を浮かべ、そんな言葉を寄越してくる。
姫の護衛なんて、さぞ気疲れもするだろうに。俺を見るたびに、何か言葉をかけなければ気が済まないらしい。
優しい笑みを浮かべ、誰とでも穏やかに接する、優秀な神官。
けれども俺は、どうしてもこの男のことを好きになれなかった。

能力も地位もあり、守るべきものが傍にある。
何一つ不自由なく生きている、こんな奴に心配される筋合いなんてない。


クリフトのことを快く思っていなかった俺の怒りが頂点に達したのは
ある時、宿で同室になった夜のことだった。


村を滅ぼされた日からちょうど一年になる日、その日まで村であったあの場所へと向かった。
あの日、血と炎で染まった焼け野原は、ほんの僅かに雑草が芽吹いただけで、後はあの日と変わらない、荒れ果てた地面が残っているだけだった。
勇者が生きていることを悟られてはいけないと皆に諭され、俺は墓すら建てることのできない荒地に、一輪の花を供えることしかできなかった。

大切な人たち全ての命と引き換えに生かされた自分には、まだ、死ぬことすら許されていない。
この地に立つときに自分の中に在るのはいつも、不気味な程に乾いた感情だけだった。


あの日の焼けた匂いが喉の奥に蘇るようで、その夜は食事がどうしても喉を通らなかった。
窓の外に目を遣ったが、雲の垂れこめた空には月も星も見えない。
宿のベッドに寝転んで天井を眺めていると、平和だった頃の村の声が頭に響いてきた。
振り払おうと目を閉じれば、焼け焦げた村の残骸が瞼の裏に蘇る。
そこにやってきたのがクリフトだった。
彼は食事を運んできてくれたらしかったが、俺は「悪いけど」と付け足して断った。
しばらく彼は無言のままでいたが、やがて食事の載ったトレイを置くと、小さく俺の名を呼び、それからためらいがちに話し始めた。

「私には…大切な人たちを失った、あなたの気持ちを察することは到底できませんが」

前置きして、背を向けたままの俺に言葉をかける。
その声はいつもに増して柔らかく優しく、神官が迷える人間を諭すときのそれだった。
「……あなた一人で背負うには、あまりに重すぎると思うんです。
 いつかあなたがその重みに耐えきれなくなるのではないかと思うと、私は…」
俺はベッドに横たえた身体を起こし、言葉を続けようとするクリフトを見た。
「先ほども申した通り、私にはあなたの痛みを知ることはできません。
 でも、…そうやって自分一人で何もかもを背負い込むなら、私にもその痛みを分けてはくださいませんか」

殺していた感情が弾けたのはその瞬間だ。
俺は殴りかかりそうになるのをようやく押しとどめたが、その代わりに彼の身体に掴みかかってベッドに押し倒していた。

「綺麗ごとばっか言うなよ」
乾いた笑いと共に、俺はクリフトを見下ろした。
「…何不自由なく生きてきたアンタに何がわかるんだよ。
 大切なものを失う恐怖も、痛みも、何も知らないアンタに」
「ソロさん…」
「ムカつくんだよ。アンタみたいに自分だけ真っ白で、何もかも持ち合わせてるくせに、同情だけはしてくる人間って」
「…真っ、白…?」
クリフトの表情が僅かだが悲しげに歪んだ。
その目にさえ苛ついた俺は、まるで本能のように湧き上がってきた衝動に従い、彼の頬を叩いた。
「ッ!」
驚きに固まる彼の身体。ゾクゾクした。後から思うとこれは快感という名の感情だったのかもしれない。
真っ白なものを汚すことへの、暗い悦び。

そこから先は、まるで何かに取り憑かれたかのように、彼を穢した。
怯えきった目で逃げようとする彼の衣服を剥ぎ、ろくに慣らしもせずに、背後から突っ込んだ。
貫かれる痛みに声を上げるかと思ったけれど、苦痛に耐えるような声を一瞬だけ漏らした後は、言葉もなく、ただ耐えるように拳を握り締めていた。
「…痛みがわからないなら、簡単に近づくなよ。
 何も知らないアンタに、大切な人を失くす悲しみも知らないアンタに、何がわかるんだ…!」
感情に任せて身体を打ちつけ、そのまま中に注ぎ込んだ。
穢れないものを汚す快感はもうそこにはなく、無言で耐えるだけのクリフトを見て、胸にわだかまるのは虚無感でしかなかった。


クリフトはしばらく黙ったまま身体を横たえていたが、少しするとよろよろと身体を持ち上げ、震える指で乱された服を直し始めた。
「…申し訳ありませんでした」
何を言うかと思ったら、彼の口から出てきたのはそんな言葉だった。
「あなたの傷を抉ってしまったのなら、本当に、お詫びのしようもありません。
 何度も言うように…残念ながら、私にはあなたの気持ちを察する術がありません。
 …ただ、ひとりで抱え込むことの辛さだけは、私にも少しは理解できるつもりでいましたが…浅はかでしたね」
クリフトの声は、意外にも淡々と、冷静だった。
「…今夜は冷えるようですから、暖かくして休んでください」
「…クリフトは」
「今日はまだふた部屋程、空きがあったように思います。
 …二人では心も静まらないでしょう。今夜は、お一人でゆっくり休んでください」
呆気に取られて見上げたが、クリフトは何事もなかったかのように、あの笑顔を浮かべているだけだった。
穢したはずの彼は、今までと何ら変わらない表情で俺を見ていた。
やっぱりこの人は理解できない。俺は閉じられた扉を眺め、無感情にそう思った。


「やはり、喉を通りませんでしたか」
食べ残した食事を下げに行った時、声をかけてきたのはブライだった。
「…クリフトめが、ソロ殿のことを酷く心配しておりました。
 よせというのに、全く…元来世話焼きということもあるが、自分とソロ殿を重ねて見てしまったんでしょうな。あやつの悪いクセじゃ」
「…何不自由なく生きてきた人間に、同情されても腹が立つだけだ」
「……ふむ」
…沈黙。
俺は部屋に戻ろうと歩を進めたが、引き留めるかのようにブライが口を開いた。

「サントハイムに来た頃、クリフトは全く笑わん子だったんじゃ」

足を止めた俺に向かい、彼は続ける。
「何不自由なく。…確かに今のあやつを見れば、誰もがそう思うでしょうな。
 クリフトには大切なものを失くした経験はない。…それは、大切なものを得た経験がないからじゃ」

そこから先は、何故だかぼんやりとしたまま、ただ流れていく彼の言葉を聞いていた。

クリフトは幼い頃、ほとんど親に捨てられる形でサランの教会に預けられたこと。
物心つくかつかないかのうちに預けられたせいで、彼には両親の記憶があまりないらしい。
その後、その聡明さを見込まれて、幼くして神学校に入れられたこと。

「クリフトは幼い頃から頭の回転が速く、幼かったが周りの上級生よりも早く進級してしまったそうでな。
 妬みというのは恐ろしい。…そのことであやつを憎んだ連中が、寄ってたかってあやつを性の捌け口にしてしておったそうじゃ。
 男色は神官にとっての禁忌。神を冒涜する行為。…どんな手段よりも容易く、あやつを傷つけることができると考えたんじゃろう」

『真っ白』だと言ったときに歪んだ表情は、恐らく彼の中の傷を抉ったせいだと、この時気づいた。
俺が今さら汚す必要などないくらい、とっくの昔に汚されていたのか。
真っ白なんかじゃないと、あの目は訴えていたのかもしれない。

「後から聞いた話によれば、誰にも訴えることのできなかったクリフトは、しばらくは毎朝、泣きはらした目を隠しながら教義を受けていたそうじゃ。
 誰にも言えない、誰も助けてくれない環境の中で、日に日にあやつの表情はなくなっていった。
 神学校を早くに卒業したのも、逃げ場を求めていたんじゃろう。
 ろくに寝もせず勉強しておったらしい。早くに首席で卒業したあやつは、まぁ、だからこそ城付きの神官になれたわけじゃが」

さっきのクリフトと同じように、淡々と流れていく言葉。そのひとつひとつが重い。
俺が勝手に想像していたような、何不自由なく生きてきた、優秀な神官の過去などどこにも見当たらなかった。
その代わりに明かされるのは、耳を塞ぎたくなるような悲惨な出来事ばかりだ。

「神官見習いとしてこの城に来た時、あやつはまだ十歳そこそこじゃったが…驚く程表情のない子供じゃった。
 全く、本当に全く笑わんのです」

――…ひとりで抱え込むことの辛さだけは、私にも少しは理解できるつもりでいました。

ひとりで抱え込むことの辛さを、少しどころじゃない、恐らく彼は誰よりも知っていたんだ。
俺が重さに耐えきれずにどうにかなってしまったら、そんなことを言ったのは、他ならぬ自分がそれを身をもって知っていたからだ。
耐えがたい痛みをたった一人で抱え込んで、ついには表情すら失ってしまった。
…そんなこと、今のクリフトから想像なんてできるかよ。

ああ。
……浅はかだったのは、俺の方か。



その夜は、滅んだ村を想い眠れないだろうと踏んでいたのに、結局一晩中考えていたのは、あの理解できない神官のことばかりだった。

ブライのあの話が真実だとするならば、彼は簡単に「可哀想だ」などと言えないような、陰惨な過去を背負っている。
人間になど、とっくに愛想を尽かしてもおかしくないくらいに。
それなのに何故、あんなにも他人を気に掛けることができる?
俺が、背負った過去の重さに潰されようが、そんなことがあの人に関係あるとは思えない。放っておけばいい。
それとも…一旦は表情すら失いかけた彼の、あの柔らかな笑みは、実は上辺だけの仮面でしかないのだろうか。
彼の奥底に燻らせた、憎悪の念を隠すための。

やっぱり、あの男はわからない。
そしてそのわからない男のことを、こうしていろいろと考えている俺も、大概物好きだと思う。

夜はそろそろ終わりを迎えそうだ。
否も応もなく、新しい日が訪れる。クリフトはどんな顔をして俺の前に現れるのだろう。

徐々に広がる明け方の気配を感じながら、俺は半ば無理矢理に瞼を落とした。

唐突に思いついた、影のあるクリフトバージョン(?)の勇クリです。
いつも書いてるクリフトが、あまりにもニコニコふわふわなので、こんな極端なのが出てきたんだろうか…。
2008/4/24