「どうして僕には翼がないんだろう」
あの日ぽつりとそう言った、あなたの言葉が忘れられなかった。
誰もいなくなった懐かしい場所に立ち、きっとあの頃と変わりない、青く広がった空を見上げながら。
たったそれだけ、その一言だけ。誰にも聞こえないくらい小さな声だった。
風に揺れて緑の髪の隙間からほんの一瞬覗いたその顔は、信じられないくらい、脆くて。
触れればそのまま崩れ落ちそうで……だから私は声もかけず、背に触れようとした手を静かに引いた。
すぐに笑顔に変わってしまったあの顔は、胸に突き刺さるような感覚さえあった。
そして、心の奥深くに刻まれて、ずっと忘れられずにいた。ずっと…――
失くした翼
ある時、夢を見た。
小さな子供の姿をした、あなたの夢。
その背には片方だけ、翼があった。真っ白な翼だった。
足元に白い羽根が散らばり、その中に幼い彼は泣きながら立っていた。
小さな手で、ひっきりなしに溢れて止まらない涙を拭いながら。
「…どうしたんですか?何か、悲しいことがあったんですか…?」
小さなあなたに目線を合わせるようにしゃがみこみ、そっと声をかける。
その声に、泣きじゃくっていた彼は顔を上げ、見上げるようにしながら言った。
涙で濡れた紫がかった…そう、例えて言うなら暁の空の色。
その輝きの強さは、やっぱり彼の、ユーリルさんのものに間違いない。
「……翼を、折られたんだ。…もう翔べない。翔べないんだ」
幼いあなたは私を見上げながら言った。大粒の涙を零し、しゃくりあげて泣きながら。
「……ねぇ」
嗚咽でかき消されそうになる声で、それでも懸命に何かを伝えようと涙を堪える。
その間私は声を出せず、動くこともできなかった。
できたことといえば目の前のユーリルさんが泣きやむのをただじっと待つだけ。
白く霧のかかった空間に二人きり、幼い少年の泣き声だけが遠く響き渡っていく。そして―――
「…ねぇ、僕は…――」
泣きはらした瞳が自分をじっと見つめる。その途端、動かすことのできなかった身体がふっと軽くなる。
そしてその透明な瞳に吸い込まれるようにして手を伸ばすと、言いかけた言葉をそのままに、彼の姿は霧の中に溶けるように消えていった。
そこで夢は途切れた。
不思議で、朧で、それでもはっきりと覚えている。
片翼の幼い少年の姿。
哀しいくらいに透明で、綺麗な涙。
そして最後の言葉の続きは、聞こえてこないままだった。
幼い彼は、一体何を言おうとしていたんだろう。他愛ない夢のはずなのに、小さな棘が刺さったように、何故だか胸がちくりと痛む。
現実の彼はすぐ隣にいるはずなのに。
いつものように静かに、隣のベッドで寝息をたてて―――
「――…ユーリル、さん……?」
暗闇に慣れた視界の先に見えたのは、震える彼の姿だった。
さっきのような幼い姿ではなかったけれど、だけどシーツを手繰り寄せ、声を殺すように顔を埋めるその姿は、まるで。
「どうしたんですか…?何か…何か、あったんですか…?」
―――まるで夢の続きを見ているようだった。
不思議で、朧な、あの片翼の少年の夢の―――
声には気付いていないようだった。
ベッドを降り、明かりは点けないまま、暗闇の中にある彼の背中にそっと触れてみる。
じっとりと汗ばんだ背中。…きっとまた、あの日の夢を見ていたんだろう。
自分が『勇者』と呼ばれるようになった、あの日のことを。
「クリフト。…ごめん、起こした?」
「…いえ…」
背に触れた手に気付いた彼が、変わらずシーツに顔を埋めたまま、くぐもった声で言った。
しばらく何も言わず、何も聞かず、彼のほうからの言葉を待つ。
さっきの夢と似ている、ぼんやりとそんなことを考えながら。
「………夢を見たんだ。
昔の夢なのに……止まらなくてさ、震えが。 変だよな。自分の体なのに、何で、こんな」
「ユーリルさん」
目を合わそうとはしてくれないけれど、声でわかる。…震えてる。
もしかしたら涙は流れていないのかもしれないけれど、さっきの夢と同じだ。泣いてるんだ。
辛くて、痛くて、どうしようもなくて……さっきの小さなあなたと同じように。
「―――クリフト、僕は」
落ち着いてください、大丈夫ですから。
…そう言おうとしたとき、彼が初めてゆっくりと顔を上げた。
「…僕は。……僕は一体、誰なんだろう……」
力なく零れ落ちた言葉は、きっと途切れた夢の続きだ。何故だか自然にそう思った。
―――翼が、あればいいのに。
天空に住まう仲間達のように、僕にも翼があったなら。
そうだったならきっと、分厚い雲も越えていける。
どんなところへでも翔んでいける。迷うことなく、真っ直ぐに―――
「……クリフト?」
さっきよりもはっきりした彼の声にはっとなる。
いつの間にかベッドから降りようとしてる姿に驚いて彼の方を見た。
「大丈夫?…ごめん、変なこと言って。寝ぼけてたんだ。
…もう、大丈夫だから。
ちょっと風あたってくるよ。起こしちゃってごめん。…おやすみ」
闇の中でもわかるくらい、悲しい瞳をしているのに。
それなのにまた、いつものように笑顔を見せるから。…笑ってみせたりするから。
すれ違いざまに軽く肩を叩かれた瞬間、言葉にならない感情が、涙になって溢れ出た。
ベランダの冷たく張った空気の中、夜空を見上げる彼の姿。 声はかけずにその背を見ていると、ふと彼の言葉が蘇った。
―――勇者なんかじゃなくて、鳥に生まれればよかった。
翼が、あればよかったのに。
そしたらきっと、空にだって手が届くと思うんだ。
こんな風に見上げてるだけじゃなくて、どこにでも行ける。
邪魔な雲なんかよりも、もっと上に。もっと高く。
…迷うこともなくて、どこまででも、自由に。
いつだったか空を見上げ、笑いながら言った言葉はきっと、冗談なんかじゃなかったんだ。
人間であって、天空人であって、そして何よりも『勇者』でなければならない。
どれくらいの人の命や、希望や、そして犠牲がその名前に圧し掛かっているんだろう。
時には自分自身さえ押し殺して、立ち止まることすらできずに、ただひたすらに前を見て。
悲しみも痛みも、その名と一緒にひとりで背負い込む。
例えばその重みに耐え切れなくて、翼が折れてしまったのだとしたら。
白くて大きな背中の翼を、失くしてしまったのだとしたら…――
「…クリフト。まだ寝てなかったんだ」
背後の気配に気付くと、眠れないならこっちにおいでよ、と彼は手招いた。
「見てよ、ほら。雲ひとつないんだ。空気が澄んでて、星も月もよく見える」
吐く息を白く染めながら、暁色の瞳は遥か遠くを眺めている。
この人は空が好きなんだと、こういうときいつも思う。
嬉しそうに、懐かしそうに、でも時折そこには寂しげな色が滲む。
飛べない鳥たちは、地上に立って、いつもこんな風に空を見上げているんだろうか。
何故だろう、そんな気持ちが湧き上がる。
「馬鹿馬鹿しいかもしれないけど、昔、空を飛ぶのが夢だったんだ。
いつも見てるのに、すぐに手が届きそうなのに、実は全然遠くにあるんだよなーって、最近ちょっとわかってきたんだけど」
白い吐息の向こうに、ほんの少しだけ寂しそうな笑顔が浮かぶ。そしてまた、空を見上げた。
飛べなくなった鳥たちが、失くした翼を思いながら空を見上げるときは、そんなときはきっと……きっとこんな瞳をしているんだろう。
「いつか、僕も翔べるかな。
…自分の思うままに、何も考えないで、そんなふうに、いつか…」
例えば白くて大きな翼を、失くして泣いているならば。
私たちが、あなたの翼になれないだろうか。
遠くまで、どこまででも自由に、いつかあなたが翔んでいけるように。
泣きじゃくっていた片翼の少年が、笑顔で空に舞えるように。
「……手、冷たくなってますよ。ほら、こんなに」
初めて出会った頃よりも、少し大きくなった手に掌を重ねると、少し驚いて、そして照れ笑いを浮かべた。
冷たい掌が、そっと手を握り返してくる。
「…素敵な夢だと思います。馬鹿馬鹿しくなんてない。…きっと、いつか」
どんなに空が遠くにあっても、今は見上げることしかできなくても。
見えなくてもいい、大きな翼を。どこまででも自由に翔べる、そんな翼を手にすることができるように。
あなたのそのまっすぐな瞳が、瞳に宿る強い光が。闇を切り裂き、分厚い雲をなぎ払い、一筋の光を見つけられますように。
そのあたたかな光に、優しく包まれますように。その日まで。
私たちが、散った羽根を拾い集めるから。
あなたが、折れてしまった翼を取り戻すことができるように。
いつの日か、あなたの願いが叶うように。
そんなことを考えながら、冷えた掌をぎゅっと握り締めた。
冷たい空に向けられた暁の色の瞳は、さっきよりも強い光を湛えているような、そんな気がした。
2003.12.16