ソロさんという青年がいる。
またの名を、勇者。
どちらかというと、この名前のほうが知れ渡りすぎてしまった。
彼としては、不本意に違いない。
その名前さえなければ、彼はきっと、今のような暗い瞳をもつことはなかっただろうから。




星の見えない夜に  -Another Side-


今日は、彼の村が滅んで、一年になるという。


暗く冷たい夜だった。
月の光は重く垂れた雲に遮られ、星の一つも見えていない。
静かだったはずの外で、風が木々を揺らす音を立て始めている。
今夜は、嵐になるのだろうか。

階段を上がり、私はソロさんの部屋の扉を叩いた。返事はない。
「…お邪魔しても、構いませんか?」
多分また返事はないだろう。そう思って、扉を開けた。
ソロさんはベッドに寝そべっていた。こちらに背を向けているため、表情はわからない。
「お腹、空きませんか。食堂から少し頂いてきました。よかったら食べてください」
「…ごめん。悪いけど、今はいい」
この答えも想像の範囲内だった。気が向いたら、とだけ言って、持ってきた食事は、とりあえずテーブルの上に置かせてもらうことにした。
食事も喉を通らない状況。
恐らく、あの日のことを思っているのだろう。
彼が愛し愛された人々すべてを奪われた、あの日を。

「私には…大切な人たちを失った、あなたの気持ちを察することは到底できませんが」

前置きして、背を向けたままの彼に言葉をかけた。
余計なお世話だ。そう言われることは覚悟していた。
そうに違いないし、こういう時は、そっとしておくほうがいいのかもしれない。
それでも、何故か言葉を続けずにはいられなかった。
「……あなた一人で背負うには、あまりに重すぎると思うんです。
 いつかあなたがその重みに耐えきれなくなるのではないかと思うと、私は…」
彼はようやくベッドから身を起こし、私のほうを振り返った。
「先ほども申した通り、私にはあなたの痛みを知ることはできません。
 でも、…そうやって自分一人で何もかもを背負い込むなら、私にもその痛みを分けてはくださいませんか」

その瞬間、彼を取り巻く気配が変わった。
殺気、とでも言うのは大袈裟だろうか。否、それ以外の言葉が思い浮かばない。

ドスンという重い音と共に、後頭部を衝撃と軽い痛みが襲った。
起き上がろうとしたが、動けない。
身体の上から、乾いた笑い声と、吐き捨てるような声が聞こえた。
「綺麗ごとばっか言うなよ」
「…っ」
彼の口元はかろうじて笑みを浮かべていたが、目は恐ろしく冷たい。
冷や汗が背を伝って流れる。
ばくん、と心臓がおかしな音を立てて脈打った。
「…何不自由なく生きてきたアンタに何がわかるんだよ。
 大切なものを失う恐怖も、痛みも、何も知らないアンタに」
――ばくん。
また大きな音が身体中に響いた。ひからびた喉から彼の名前を絞り出したが、彼は鋭い目で私を射続けた。

見下ろされる体勢。
見上げるしかできない自分。

「…ムカつくんだよ」

私は目を見開いた。
ばくっ、ばく、ばく、ばく…――


―――足、押さえてろよ。暴れられたら面倒だ。


「アンタみたいに自分だけ真っ白で、何もかも持ち合わせてるくせに、同情だけはしてくる人間って」
「…真っ、白…?」

―――穢れた身じゃ、神に仕えることなんてできないよな?

呼吸が荒く、短くなる。
その直後、耳元で乾いた音がした。
頬を平手で殴られた。
青年の頬が僅かに紅潮している。瞳に暗い興奮の色を宿し、彼は私を見下ろしていた。

初めてじゃない。
そうだ、あの時だ、この瞳は。

私は喉の奥で悲鳴を上げ、咄嗟に逃げだそうとベッドを這った。
しかし、力ではこの青年に敵わない。
彼は逃げようとする私の身体を押さえ、無理やり服を剥がしにかかった。
「…や、嫌です、…嫌だ、嫌だ…!」
発する声があまりに怯えていたのに、自分自身驚いた。
だが耳を貸そうとしない彼は、私を背中から押さえたまま、耳元で低く囁いた。
「…あんた、ムカつく。汚してやりたくなるよ」

感情が追いつかないうちに、条件反射のように涙が大きな粒を作って、頬を滑った。

――なんで? どうして? まだ、ぼくは いらない こ の ままなの…?

「う…! くぅ…ッ」
背後から腰を掴まれ、彼は無理やり自分のものを捻じ込んできた。
さっと全身に冷や汗が滲み、その後で身を裂くようなあの独特の痛みが走る。
とにかくここから逃れたい一心でシーツを引っ掻いたが、腰を抱えて膝を立たされ、頭をベッドに押さえつけられた。
固く閉じたままの場所に突き刺さったものを、奥へ奥へと無理に進められるから、痛みも半端ではない。
声も上げられないような苦しい体勢のまま、強引に腰を振られる。
私は手を固く握りしめ、何とか荒い息を繰り返すばかりだった。
「…痛みがわからないなら、簡単に近づくなよ。
 何も知らないアンタに、大切な人を失くす悲しみも知らないアンタに、何がわかるんだ…!」
感情に任せて身体を打ちつけられる。しばらくすると、身体の奥に生温いものが注がれるのを感じた。
「……!!」
酷い眩暈と吐き気を覚え、それをやり過ごすために、握った拳に更に力を込める。
奥歯を噛みしめても足りず、口元のシーツを思い切り噛んで、痛みと声を耐えた。
彼からは見えるはずもなかったが、嗚咽が漏れなかったのが不思議なくらい、涙が止め処なく溢れていた。

――オマエ、カミニツカエルヨリモ、コウヤッテイキテイクホウガ ニアッテルンジャナイカ?

消えない少年たちの声が、また胸を抉る。
服を裂かれ、床に押さえつけられて、泣き喚く私を何度も犯した、あの少年たちの声。




さらさらと、雨の流れていく音がかすかに聞こえる。
空が静かに泣いている、ように思えた。


吐き気も眩暈もとっくにおさまっているのに、私はしばらく立ち上がることができなかった。
彼も何も言わない。
身体中が痛いはずなのに、痛みを感じないのが不思議だった。涙も、もう溢れてはこなかった。
こうしていても仕方ない。しばらくして、ふと思った。
…とにかく、ここを出よう。
「…申し訳ありませんでした」
声が震えないように。できる限り、何事もなかったように話せ。私の中のもう一人の自分が、どこかでそう命じていた。
「あなたの傷を抉ってしまったのなら、本当に、お詫びのしようもありません。
 何度も言うように…残念ながら、私にはあなたの気持ちを察する術がありません。
 …ただ、ひとりで抱え込むことの辛さだけは、私にも少しは理解できるつもりでいましたが…浅はかでしたね」
…そう、浅はかだったのだ。
私のような人間が、人の気持ちを察することなど、できるはずがないのに。
彼に自分を重ねてしまった。…ひとりで抱え込み嘆いている彼が、幼い自分と重なったんだ。
結局のところ、私は彼ではなく、自分を救いたかっただけなのかもしれない。
「…今夜は冷えるようですから、暖かくして休んでください」
「…クリフトは」
「今日はまだふた部屋程、空きがあったように思います。
 …二人では心も静まらないでしょう。今夜は、お一人でゆっくり休んでください」
そう言って振り返ったとき、彼は唖然として私を見ていた。
自分でもおかしなくらい、いつも通りに笑えていたと思う。
取り繕うことばかりが上手くなってしまった自分をどこかで蔑みながら、私は部屋を出た。



一人で別室へ移った瞬間、強烈な吐き気に襲われた。何とかトイレへ駆け込み、私は胃の中のものを全て吐き出してしまった。
しばらく経って吐き気が収まると、這うように浴室へ行き、服の上から何度も水を浴びた。
「…う…っ、うぅ…、…汚い…、きたない…っ」
嗚咽を漏らしながら、ずぶ濡れになった髪をぐしゃぐしゃと掻き毟る。
自分の身体がとてつもなく汚らわしく思えた。
このまま溶けてなくなってしまえばいいのに。もう、いっそのこと消えてしまえばいいのに…。
「……僕が、いけないんだ…。……いらない人間のくせに、…余計なこと、するから…」
うわごとのようだった。本当に自分が言葉を発しているのだろうか。よくわからなかった。
立ち上がろうとしたとき、体内でグチュ、という水音が響いた。
「…!」
残っている。
まだ身体の中に、汚いものが、残ってる…。
「…ッ、うっ、…ううっ…」
出て行ってほしい。頼むから、もう、消えてほしい。
指を突き立て、何度も中で掻き回した。幼い頃から、何度もこうして自分で自分の中を抉っては泣いていた。
こんなことが、いつまで続くのだろうか。
「なんで、どうして僕だけ!…もう、…もう嫌だ…!!」
そんなことを、今さら喚いたって仕方ないだろう。
自分の中で、自分が冷めた声で呟いていた。
「……もう無理だよ、僕、…壊れちゃうよ…」
今もたまに顔を出す、自分の中の誰かがそう言った。
未だ解放されないままの、子どもの自分なのだろうか。
自分の腕で、自分の身体を抱きしめた。強く抱いた身体は、泣いているせいなのか、酷く震えていた。
ああ、…確かに壊れるかもしれないな。

「……助けて…、お願い……。…誰でもいいから、…誰か…」

大人になってから、いや、違う。
子どもの頃からずっと封印し続けていた言葉が、ぽろぽろと零れてしまった。

…無駄なんだ。
誰も助けてなんかくれない。祈ったって、叫んだって、無理なものは無理だ。
叫ぶだけ空しくなることも、自分をかえって傷つけることも、わかってるから、もう口にしないことにした。
それでも押しとどめられなかった言葉は、思った通り自分の心に傷をつけただけで、雨音の中へと消えていった。

しとしとと、降り続ける雨。
夜明けまでには、上がるのだろうか。
そうしたらまた何事もなかったかのように、星の光が空を満たすのだろう。
何度でも、美しく。

星の見えない夜に、星たちは何を思い、その身を隠しているんだろう。
再び輝けることを知っているから、胸を躍らせて、その時を待っているのだろうか。


窓から外を眺めてみる。
空を覆う雨雲の隙間から、ほんの少し見えた夜空は、いつまでも不規則に揺れていた。



「星の見えない夜に」のクリフト視点バージョンです。
こっち視点にすると、更に重くなることはわかっていたのに、やっちまいました…。
本当はこの後ブライが出てくるところもあったんですが、まとまらなかったので却下したら、更に重くなりました。
2009/9/1