「姫様!姫様―――!!姫様はどこじゃ!見つかったか!?」

―――遠い、遠い記憶。
まだ何もわからず、何も知らず、ただただその現実に泣くしかなかった、あの頃の記憶。
下のほうで自分の名が呼ばれている。聞きなれた声。いつも聞いている、声。
……でも、戻りたくなかったの。戻りたくなんて、なかったの。
大事なひとが、いなくなったの。
わたしを置いて、どこかへ行ってしまったの。

―――怖いの
……怖くて、悲しくて、寂しくて、泣きたくて。
だから、戻りたくなかったの。……戻れなかったの。

誰にも、代わりはできやしない。
ずっと、この気持ちを抱えて生きていかなきゃいけない。

―――そう思っていたころの、遠い、遠い記憶―――


ある晴れた春の日に


「きゃっ!」
突然頬に冷たい感触を覚えて、アリーナは跳ね起きた。
その途端目の中に飛び込んできたのは、穏やかな春の光と、そして……

「ミーちゃん。…そっか、あなただったのね」
傍らで自分の頬をなめた白猫を抱き上げ立ち上がると、彼女に向かって言う。
「夢…。…わたし、いつの間にか寝ちゃってたんだ。
でも、しょうがないよね!こんなにいい天気なんだもの。
……あ、ねぇ、喉渇かない?下に行って何か飲み物もらおうよ、ミーちゃん。ね!」
そしてその二つの影は、光に包まれたテラスから城の中へと消えていった。

城の中で彼女が一番に気がついたこと。
「ねぇミーちゃん、今日ってやけにお花をいっぱい見ると思わない?」
城の廊下を歩くメイドたちの手に見えるのは、名前も知らない花たちだった。
最初はアリーナや王の部屋に飾られるものだと思っていたが、どうも違うらしい。
そういえば、去年もその前の年も今ごろになるとこの花を見かけることが多いな、とふと思う。
細かいことは気にしないアリーナだが、今どうしてもこの花のわけを知りたいと、何故かそう思った。
丁度今自分の方へと向かってくるメイドを捕まえて、彼女はは尋ねた。
「ねぇ、ちょっと聞いてもいい?」
「アリーナ姫様、ご機嫌麗しゅう。…ええ、よろしいですとも。何でしょうか?」
そう言われると彼女は楽しそうな表情を作り、腕に抱いた猫を下ろしてやりながら言った。
「今日ね、城の中でよくこのお花を見かけるんだけど、今日って何かあるの?」
「今日…ですか?ああ、これはその……娘からの母の日の贈り物なんですよ」
―――母の日。
「母の日って、なあに?」
初めて聞いた言葉だった。その言葉も、その花のことも。彼女は何も知らなかった。
聞き返されたメイドのほうはといえば、目を泳がせ視線を合わせまいとしながらあからさまに慌てた様子である。
「えー…そう、ですね…何とご説明さしあげればよいのか…
あっ!アリーナ様、申し訳ございません!私、急ぎの仕事が残っていますので、これで…」
早口でそう言うと、彼女は足早に去ってしまった。

「……変なの」
何だか面白くなかった。自分だけが仲間外れにされたような気がしたのだ。
それに、こういうことは隠されれば隠される程、知りたくなってしまうのが人というもの。それはアリーナも例外ではなかった。
「………あ!そうだ!!」
言うが早いか。彼女は広い廊下を全速力で駆け抜けた。
―――思いついたのだ。こんなとき、一番に誰の元へ行くべきなのかを。



「クリフト、いる〜?」
サントハイム城内にある教会の礼拝堂。 アリーナが真っ先に思いついたのはこの場所だった。
小さい頃からこういうことがあると、彼女はいつも真っ先にここへ駆け込む。
何故かって?―――それはもちろん、彼に会うために。

「これは姫様。どうなさいましたか?」
アリーナはこの場所が大好きだった。
こうしていつも変わらない笑顔で自分を迎え入れてくれる彼のいるこの場所が、大好きだった。
じいやのブライに「もう少しおしとやかに」と注意されたときも、自慢のキックで城内の柱を壊して父王に叱られたときも。
ここに来れば、いつも変わらない、あたたかい笑顔があるから。自分も笑顔になれるから。
だから―――窮屈な城の中で彼女が最も好きな場所。それがここだった。
彼の微笑みに応えるように、自分も彼に満面の笑顔を返す。
ただこうすると彼が必ず顔を赤くすることだけが、アリーナには未だにわからないのだけれども。
「ねぇクリフト、ちょっと聞きたいことがあるの。今、時間ある?」
「はっ、はい!…ええと、今ですか?今は……」
「クリフト。アリーナ様直々のご指名です。行ってさしあげなさい」
言いかけた言葉を遮って、二人の様子を見ていた神父が言う。
これくらいのことはこの城では日常茶飯事とでも言うべきこと。
この王女がどれほどこの神官のことを頼りにしているかくらい、城中の誰もがわかっている。
「ありがとう神父さま!さ、クリフト、行きましょう!」
王女に腕を引っ張られるようにして教会を後にする神官の顔は、輪をかけて赤くなっていた。



「母の日、ですか…?」
「うん。…ほら見て!さっきからあのお花を持ってるメイドたちがいっぱいいるの。でもわたしには何も教えてくれないのよ。
……ねえクリフト、あなたなら教えてくれるわよね?」
どうして誰も彼女に本当のことを言わなかったのか、彼にはすぐにわかった。
アリーナには母親がいない。彼女がまだ幼いうちにこの世を去ったのだ。
きっと彼女に何も言わないのは、母親のいない彼女を悲しませないようにしようという配慮なのだろう。
しかし、本当のことを隠し通すよりも、皆に嘘をつかれることの方が彼女にとっては辛いことだということも、彼はまた知っていた。
「アリーナ様。……母の日というのは、いつも自分にたくさんの愛情を注いでくれる母親に、自分の感謝の気持ちを伝える日なんですよ。
その時に贈り物としてよく選ばれるのがあのカーネーションという花なんです」
ためらいはあったけれど、わざと何でもないことのようにそう言う。
その言葉を聞いたアリーナはほんの、ほんの一瞬だけ寂しそうな顔になったが、すぐにまた笑顔を作って彼のほうを見た。
「……そっか。なーんだ!だからみんなわたしには本当のこと教えてくれなかったのね。
わたしはお母様にありがとうって言うこと、できないもん」
「……姫様……」
「でも、別にいいのにな。そんなに気を遣ってくれなくても。わたしは平気なのに。
あ。ありがとう、クリフト!本当のこと教えてくれて。じゃあ私、行くね!」
そう言って早足で立ち去る彼女は、まるでその場から逃げ出すようにも見えて。
彼女を傷つけてしまったのかもしれない。そんな思いが彼の胸にちくりと刺さった。
―――もう、日はだいぶ傾いて。少しだけ切ない色に変わった日の光がそこに差し込んでいた。



城内がやけに騒がしい。
クリフトがふとそう思ったのは、それからしばらくたってからのことだった。
そしてそれに気づいて間もなく、彼の部屋の扉を乱暴に開ける音が耳に入った。
「クリフト!!ここにおったか……!」
「あ、ブライ様。あの、何だか城の中が騒がしいような気がしますが…何かあったんですか?」
部屋に飛び込んできたのは、アリーナの教育係のブライだった。
彼がこんなふうに自分のところへやってくる時はまずアリーナが絡んでいるとみて間違いない。
「姫様が、また!!壁を蹴破って外へ抜け出したらしいのじゃ!
おぬし、先程姫と喋っておったというではないか。何か心当たりはないのか!?」
心当たり。
……思い当たることといえば、ひとつしかない。
「姫様……。やっぱりあの時、あなたは……」
「ええい!こうなったらおぬしも姫探しに協力せい!」
「は、はい!!」

―――やっぱり自分が姫を傷つけてしまったのだろうか。
いつもは平気そうな顔をしていても、心の中ではまだ、その傷は癒えてはいなかったんだろうか。
ブライがあわただしく部屋を出て行ったあとで、そんな考えが浮かんできた。
そんなつもりじゃなかった。自分はただ、彼女を傷つけたくなかっただけだったのに。

「姫様………私は…―――」


「――――クリフト!!」
勢いよく扉の開く音と、そして―――聞きなれた、高い声。
はっとして振り返ると、そこには肩で息をしながらも、その顔には笑顔をたたえた少女がひとり。
―――手には、ちいさな花束を持って。
「…アリーナ…様……!?」
驚く彼に、へへっと悪戯っぽく微笑みかける。 そしてそのまま、手にしていた花束を彼の目の前に差し出した。
「―――…え?」
突然のことで状況が理解できなかった彼は、そのまま言葉を失った。
そしてアリーナは、そのちいさな花のついたちいさな花束の向こうから、彼に言う。
「最初はね、カーネーションにしようかなって思ってサランにあるお店に行ったの。
でもクリフトにはあんまり似合わないかなって思って、街の外に自分でお花、探しに行っちゃった。
ほら見て!ね!絶対こっちのほうがクリフトに似合うでしょ?」
薄い青みのかかったちいさな白い花の向こうに、笑顔が覗く。
「―――いつもありがとう、クリフト!…これ、受け取って」
「……え…!?私にですか…!?
いっ、いえ、でも……どうして……」
その花束を受け取りながらもまだ理解できないといった彼の胸に、アリーナは顔を埋めた。
「………!!…ひっ、ひ、ひ、姫様っ!?」
「……ふふっ、あったかい。
…ねぇクリフト、覚えてる?…お母様が亡くなったとき。
わたし、すごく寂しくて、悲しくて…もう一度お母様に会いたいって思ったの。
ずっと前にね、誰かが、死んだ人はお星様になるんだよって言ってた。
だからわたし、城中で一番高い木に登ったの。そしたらきっと星に手が届いて、もう一度お母様に会えると思ったんだ」
言いながらアリーナはクリフトの腰に腕を回す。 また、彼は心から心配だった。自分の鼓動が彼女に聞こえはしまいかと。
「でも、そうやって登っちゃってから怖くなって、降りれなくなっちゃって…。
そのとき一番に来てくれたのがクリフトだったよね。……星に手が届いてももうお母様には会えないんだって言われて、わたし、泣いちゃったのよね」
「……ひめさ……アリーナ…様……」
「でも、クリフトはそうやって泣いてるわたしをぎゅって抱きしめて、頭を撫でてくれて……私はいつでもあなたの側にいますって言ってくれた。
すごく………嬉しかったんだよ」
窓から差し込む夕暮れの光が二人を包み込む。それは、とてもあたたかい、光。
彼女は顔を上げ、微笑んだ。その顔がいつもよりも綺麗に見えるのは、この夕陽のせいだろうか。
「クリフト、わたしね。
お母様が亡くなって、最初はすごく寂しかった。でも……クリフト、わたしがそういう顔してると、いつも一緒に寝てくれて…。
あ!そうそう、寝る前に本も読んでくれたよね!えへへ、懐かしいな。
それで…寂しくなくなったの、わたし。クリフトがいてくれたから……。
クリフトは、あの頃のわたしにとってお母様でもあったんだよ。もちろん、今でも――
……だから。受け取ってね。わたしの感謝の気持ち……」
そう言うと、再びアリーナは彼の胸に身を委ねる。
「……アリーナ様……」
おそるおそる、目の前の少女の背に手を回そうと腕を伸ばす。 腕を伸ばして、彼女の背にそっと触れ、そして――――


「姫様!!ここにいらしたのですか!!全く今までどこへ行っておられたのです!!
……ん?クリフト。おぬしは何をやっとるんじゃい」
「じい!」
「ブ、ブライ様っ!!…あいたたた……。」
荒々しい音と共に飛び込んできた、今日二度目の怒声。
その音がしたと同時に一瞬にしてクリフトは部屋の隅まであとずさりし、壁に思いっきり身体をぶつけた。
…もちろん、彼女のくれた花束は手放すことなく。
「あ〜…じい、もしかして怒ってる?ごめんなさい、あのね……」
「姫様!!ああ嘆かわしい!どうしてもう少しおしとやかにしていただけないのですか!
亡くなったお妃様はたいそうしとやかであられましたのに……ん?これは?」
お約束のお小言を遮って、アリーナはブライの目の前にちいさな紙切れを差し出した。
「ごめんね、じい。いつも怒らせてばっかりで。
でも、いつもわたしのこと心配してくれてありがとう!これ、受け取ってね。」
「これは……何ですかな?紙…?」
「サランにいた女の子に教えてもらったの!
あのね、肩がこったときはこれをわたしに渡してね。そしたらわたし、じいに心を込めて肩叩きしてあげるから!
…あ、もちろん手加減するから大丈夫だからね?」
「……姫様。……なんともったいない!このわしにこのようなお心遣いを…
い、いや!ですがそれと今回の脱走の件は別ですからな!」
そう言い背を向ける老魔法使いの目に光るものがあったことに二人は気づいていた。
けれど何も言わずただ二人顔を見合わせて、どちらからともなく微笑みあった。


―――ああ、神よ。 この心優しき王女に祝福を。
願わくばどうぞこの彼女の笑顔を、あなたのもとにおられる彼女の母親にお届けください。
そして、いつの日にかもう一度…二人が笑顔で出逢えますよう


――― それは、ある晴れた春の日の物語。

「…そして、願わくば…彼女が……いつの日にか、私に………」
「クリフト?何?お祈りしてるの?」
「うわわわ!!なっ、何でもありませんっ!!」


あたたかな光と笑顔に包まれた、平凡で、幸せな春の日の物語―――