Many go for "butler" and come home shorn





 それは、ほんの少しの悪戯心。

「ねえ、リック」
「はい、何でしょうか、お嬢様」
 手にしたティーカップを下に置き、お嬢様が私を呼ぶ。
 雑事の合間に訪れた、寛ぎの一時。
 お嬢様と私、二人だけのティータイム。
 このように、ゆったりとお嬢様と他愛もない会話を交わすのは私にとって幸福な時間ではあるのだが、時にお嬢様の言葉は、そんな私のささやかな幸福を破壊してしまうことがある。
 続くお嬢様の言葉は、まさに平穏だった私の心を乱すものだった。
「私、今までリックに名前で呼ばれたことがないわ」
「そんなことはないと思いますが」
 確かに、普段は「お嬢様」と呼ぶ場合がほとんどで、お嬢様の名を口にした記憶は数えるほどしか無かったような気はするが。
「ですが、毎回のように”セルマお嬢様”とお呼びするというのも、いささかくどいのではないかと」
「そういう意味じゃなくて!」
 私の返答に、お嬢様はもどかしげに眉を顰める。
「と、仰いますと?」
「だから!名前“だけ”で呼ばれたことが一度も無いって言ってるの、私は」
「それは……確かに仰る通りではございますが……」
 当然といえば当然である。私は最初から使用人としてこの屋敷に来て、それから現在に至るまでずっとその立場は変わっていないのだから、主であるお嬢様に対して呼び捨てのできる機会などあろうはずもない。
「分かってるわよ。でも、二人きりの時くらい、呼んでくれてもいいじゃない。私達、何ていうか、一応、その…………なんだし」
 段々小さくなっていくお嬢様の声。ご自分でもかなり恥ずかしい台詞を口にしていると自覚されているのか、視線を外し、頬も紅く染めている。
 そんなお嬢様を、誰が可愛らしいと思わずにいられようか。
 とはいうものの、やはり私は第一に執事である訳で。
「主を呼び捨てにするなど、私にはできかねます」
 そう答えるしかないのだが、お嬢様にはその返答はお気に召さなかったらしい。
 先刻の恥じらいの表情は何処へやら、今度は一転、私を強く睨みつけてくる。
「じゃあ貴方は、四六時中いつどんな時でも主と執事っていう関係を崩したくないって言いたいの?」
 お嬢様の視線が怖い。怖いが、こればかりは譲る訳にはいかない。
「そういう訳ではありませんが……。何分、今までずっと“お嬢様”とお呼びしていますから、その呼び方を変えるにはかなりの抵抗が……」
「あ、そう。それなら私にも考えがあるわ」
 す、とお嬢様の目が細められる。口元に浮かぶ笑みに、毎度の事ながら覚える嫌な予感。
「リックがどうしても私を主としてしか扱いたくないっていうんだったら、私も貴方にそういう態度を取らせてもらうわ。そうね――
 びしりと私の目の前に指を突き出し、
「これから一生、貴方の事は“下僕(げぼく)”と呼ぶことにするわ。いいわね?」
「え」
 お嬢様は高らかに言い放った。
 日頃からお嬢様の無理難題には慣れているつもりだったが、今回の攻撃力は普段のそれとは格が違っていた。というか、ごっつクリティカルですお嬢様。
「え、じゃないわ。分かったかしら?下僕」
「お、お嬢様……」
「何か言いたいことでも?下僕」
 反論の余地すら与えるつもりはないらしい。
 万事休す。
「…………分かりました!分かりましたので、その呼び方だけはどうかお止めください!」
「分かってくれればいいのよ」
 がくりと項垂れる私。
 反対に、満面の笑みを浮かべるお嬢様。
「じゃあ、よろしく」
「……あの、今すぐに……でございますか?」
 私の発した疑問に、お嬢様は何を今更、といった表情になる。
「当たり前じゃない。貴方のことだから、今すぐに実行しておかないと、どうせ何だかんだと理屈をつけてかわすに決まってるんだから」
「う……」
 読まれていた。流石は長年私と共におられるだけはある。そこまで私の思考を読めるのならば、他の者に嫉妬するなどいい加減止めていただきたいものなのだが。
 しかしこうなれば、覚悟を決めるしかない。
「で、では……一度だけ、ということでよろしいのであれば」
「まあ、とりあえずそれでいいわ」
「そ、それでは……」
 コホンと咳払いをして、お嬢様に顔を近付ける。
 対するお嬢様の方も、どことなく緊張の面持ち。口は真一文字に結ばれ、両の拳はぎゅっと握りしめられている。
 私はお嬢様の耳元に口を寄せ――
 ――はむ。
 耳たぶを軽く噛んだ。
「な、な、なななっ――――!!」
 目を見開き、私を凝視するお嬢様。
「申し訳ございません、お嬢様。やはり執事たるもの、軽々しく主を呼び捨てにする訳には参りませんので」
「こっ、この嘘吐きーっ!」
 羞恥と怒りの入り混じった声を上げるお嬢様に、私はあくまで淡々と――
「嘘吐きと呼ばれるのは心外でございます。私は常に貴女には誠実でありたいと思っておりますよ、セルマ」
 微笑みで応えた。
 その時のお嬢様は。
 まず先刻以上に目を大きく見開き、一瞬遅れて瞳の色が移ったかと思うほどに真っ赤に頬を染め、表情はへにゃりと崩れて泣き笑いのものに――――そして、へなへなとその場にくずおれてしまった。
「お。お嬢様!どうかなさいましたか、お嬢様!」
 咄嗟に抱きとめる私にお嬢様が向けるのは、潤んだ紅い瞳。瞳の表面に湛えられた水分がぽろりと零れ落ちたかと思うと、
「ひ、卑怯者ぉっ……!」
 お嬢様は私の胸に顔を埋め、両腕でぽかぽかと私を叩く。
「不意打ちなんて、卑怯じゃ、ないのよ……っ!」
 言いながらも、なおも私を叩く腕の動きは止まらないが、腕に込められた力はとても弱かった。
「ご満足いただけたでしょうか、お嬢様?」
「うん……うん。どうしよう、すごく嬉しい……」
 お嬢様の両腕はいつの間にか私を叩くのを止め、代わりに私の背に回されていた。
 相変わらず潤んだままの瞳で私を見上げ、お嬢様は言う。
「リック。もっと、呼んで……。お願い……」
「先程、一度だけという約束でお呼びいたしました。これ以上はどうかご勘弁くださいませ、お嬢様」
 名前を呼ぶ代わりに、というように、私もお嬢様の背に両腕を回し、しっかりと抱きしめる。
 ――そうそう簡単に呼んでは勿体無い。ただ呼ぶだけで、こんなにもお嬢様の可愛らしい姿を見られるというならば。
 そんなことを思いながら。

 そして、もう一つ。

「で、お前いつまで部屋の隅っこでうずくまってんだ。あれから何時間経ったと思ってんだよ」
「……ほっといてください」
「まーったく、ただ名前呼び捨てにするくらいで、何でそんなに緊張するかねえ?そんなんよりよっぽど大胆なコト、いっくらでもやってる癖になあ?」
「は、初めてだったんだから仕方ないじゃないですか……!」
「……お前、実はすっげえバカだろ」
 その日の夜。
 昼間、自身が行ったことを思い出し、あまりの羞恥に頭を抱えてうずくまる私に、心の底から呆れたように辛辣な言葉を投げかけるベイル。
「嬢ちゃんがして欲しいって言ってんだ。女の悦ぶことをしてやるのが男ってもんじゃないのかねー?」
 ベイルの言葉はある意味間違ってはいない、と思う。お嬢様が私に望むことならば、出来うる限り叶えてさしあげたい。
 だが。
 ――申し訳ございません、お嬢様。
 気軽に呼ぶには、私の精神が耐えられそうにありません――







一歩踏み出すのに必要なのは、勇気ではなくノリと勢いと好奇心ではないか。