経緯も事情も知らぬもう一人の高校生は、かわいそうなことに、
豹変した友人に怒鳴られ、逃げるようにその場を後にした。
怒鳴り、追い払った側の高校生は、頭を抱え、膝を地面に付けたまま暫く動かなかったが、
やがて、頭にやっていた手で口を覆った。
「……」
ああ、だがこちらの方が、余程かわいそうか。
そう思い直し、繰り返し嘔吐している高校生にゆっくりと近付いた。
砂利が靴に擦れる音で、高校生は反射的に顔を上げる。
化け物の時と同じような鋭い目でこちらを睨み付けるが、その視線の先に俺は映っていないだろう。
いや、あちらの世界の『伊達政宗』でも見ているのかもしれない。
更に一歩足を進めると、高校生は片膝を立て、刀も無いのにかつての頃のように抜刀の構えを取る。
殺気だったそれに呑まれ、自然足が止まった。
「……」
化け物の頃の名を呼び掛けてみようとしたが、口からは何も出てこない。
かつての化け物共には数多巡り会ったが、自分と同類であろう奴に会うのは初めてだ。
どう対処すればいいかが分からない。
 端から見れば、夜道で大学生と高校生が睨み合っているこの光景はどう取られるだろうか。
ただのケンカと思われるぐらいならマシだが、警察沙汰になれば、
母親の不安を増やすだろうし、父親の退院も延ばしかねない。
 呻き声が聞こえ、再び高校生に意識を向けると、
高校生は未だ化け物の世界に五感を持って行かれたままらしい。
苦悶に顔を歪め、時折かつて仕えた主の名を呟き、許しを請うている。
その奇行の理由を理解してくれる者は誰もいない。
初めて外から見る自分と同様の姿を、哀れむのも傍観しているのも嫌で、
意を決して、先程口にし損ねた名を呼び掛ける。
「……『石田三成』」
化け物の頃の名に、高校生が微かに身動いだ。
どうやら、こちらの声は届いているらしい。
少し安堵して続ける。
「アンタが今感じているのは、ただの幻だ。本物じゃねえ。こっちが現実だ」
引き摺り込まれた際に自分に言い聞かせていることを口にしながら、少しずつ相手に近付いていく。
引き戻すには離れるのが一番なのだが、漸く出会った同類だ、このまま終わりにしたくはない。
「そっちの音に耳を貸すな。聞くならこっちの音にしろ。
 そうして、戻って来い」
奴の正面まで辿り付いて、その刃のような目を見上げそう言い聞かせる。
やがて、憎悪にぎらついていた瞳の光がふっと和らぎ、そして漸く、正面にいる俺を認識した。
「……貴様は……」
冷や汗を滲ませ、まだ混乱している様子の高校生に手を差し出す。
「立てるか?」
「……必要ない」
差し出した手に一度目を遣るものの、無視して口元を拭うと高校生は立ち上がる。
が、覚束ない足取りで塀に背中をぶつけてしまう。
その塀に凭れたまま動かないので、相手の落とした学生鞄を拾い上げてから、再度近付いた。
「ムリすんな。その様子だと、アレを見るのは初めてなんだろう?」
言いながら、高校生の背中に手を回して肩を貸すと、
少し躊躇ったが高校生は諦めてこちらに体重を預けてきた。
相手の方が少し背が高いので、拍子に多少はふらついたが、ひとまず近くにある公園に向かうことを伝える。
「……貴様は、何者だ?」
その途中、半分引き摺られながら、高校生がそう尋ねてきたので、
やはり覚えていなかったかと思いながらも、高校生の顔を見ずに答える。
「……『伊達政宗』」
「……」
どこかの記憶を探っているのか、高校生がそのまま口を閉ざしてしまったので、
名乗った名が実は本名ではなかったことには、その時気付かなかった。




 辿り着いた公園のベンチに座って暫く経ってから、
政宗に問われ、取り留めも筋道もないものの、三成は自身の持つ記憶を話した。
降り始めの雨のように、ぽつりぽつりと、彼は自身の脳に刻まれた五感を言の葉に乗せて告白する。
憎しみに駆られ、その在処をはき違えたまま、ただ己が生きる為だけに、『家康』を殺した。
主君の遺志を盾に、復讐を隠れ蓑に、事もあろうに主君を利用するという、許し難い罪を犯した。
三成にはそこから先の記憶は無い。
自らの在りようも唯一の生きるべき意味も失ってしまった彼の、空虚となった心には、
刻まれる程の出来事など無かったのだろう。
 政宗には異なる結末の記憶が幾つかある。三成はただ一つの結末しか知らない。
殺し殺された数多の地獄と、殺した末に至った唯一の地獄。
どちらも地獄に変わりないが、唯一しか持ち得ぬからこそ、三成の方が余程哀れかもしれない。
と政宗は思う。
同時に、小田原で敗れてから抱き続けていたはずの怒りが薄れた気がした。
哀れみが優ったか、呆れや失望が上にきたかは分からない。
かと言って、『石田三成』の仕打ちを許すのかと問われれば答えは否であろうし、
第一、そこまで偉くなったつもりもない。
ああ、これは、かつて至り、右目に語った結論か。
だとすれば、『伊達政宗』は、疾うに『石田三成』への怒りなど収めてしまっていたのかも知れない。
それを確かめることは最早できないが。
 では、この男はどうなるのだろう。
ただ一つの記憶のみを呼び起こされ、ただ一つの地獄に突き落とされ、
『石田三成』を刻まれてしまったこの高校生は、この先どう生きていけばいいのだろう。
 声が途切れてからだいぶ経つ。
ベンチに座ったまま、顔を上に向けて近くの時計を確認してから、政宗は三成の方へと目を遣った。
三成は先程政宗が自販機で買ってきたペットボトルを握ったまま、呆けた様子でただ地面に目を注いでいる。
その瞳は、深くも透き通っているというのに、ひどく虚ろだった。
「……」
可哀相。同情。少し違うか。同類への親近感。それとも、ただの孤独。
胸の内に燻った感情の正体を探してみたが、どれも違う気がするし、全て合てはまるような気もする。
だが、それがどこの記憶に起因するかが分からない以上、どのみち答えは見つからないような気がした。
 自身の感情を探るのを止め、政宗は代わりに三成へと声を掛けた。目下の問題はこの高校生だ。
「……アンタ、明後日は時間あるか?」
その問いを政宗が口にして少し経ってから、三成はこちらに顔を向ける。
「……何故そんなことを聞く?」
「アンタに、会わせたい奴がいるからさ。
 俺やアンタの同類ではねえが、アンタの損にはならねえと思うぜ」
不審そうに眉を寄せる三成の目を見つめ返し、政宗はそう答える。
三成は暫く疑わしい目を政宗へと向けていたが、やがて了承した。








 待ち合わせ場所に指定した駅で、先に到着していた詰め襟の制服姿の三成を見つけた時、
二日前に、面倒臭がらずにもっと事細かに忠告しておけば良かったと政宗は少しだけ後悔した。
 この二日の間、『石田三成』が与えた影響は大きかったらしい。
まともに眠れなかったのか、遠目でも分かる程に顔色が悪い。
そのくせ、目だけは鋭さを増していて、しかも誰彼構わず射抜くように睨むものだから、はっきり言えば怖い。
それに長身が拍車をかけている。
政宗も決して低い方ではないが、そこまで差は無いとはいえ三成の方が更に上背がある。
全体的にこちらが萎縮してしまうような威圧感を放つあの目とあの長身があれば、
下手に絡まれることも無いかもしれない。
現に、決して人通りが少なくない駅の出入口にもかかわらず、三成の周りだけ空間ができているのだが、
気付いていないのか気付きながら気にしないのか、本人はどんな変化も見逃すかと言った風に辺りを監視している。
たぶん、こちらの姿を探しているのだろう。
その空間に足を踏み入れるのが嫌で、いっそこのまま何も無かったことにしようかと正直思ったが、
踵を返す前に、三成に発見されてしまい、その目論見も失敗に終わった。
諦めて近付いてきた政宗を、三成は件の眼光でギロリと睨み付け、口を開いた。
「遅い。何をしていた」
「ふざけんな、10分前だぞ、遅くねえ」
開口一番文句を言われるが、すぐに政宗もそう言って、負けじと睨み返す。
が、すぐにその視線を一旦周りへと向けてから、そのまま歩き出す。
「とりあえずついてこい」
それだけ言い捨て、人目を気にしてか振り向きもしない政宗を怪訝に見るが、
背中が遠くなるだけだったので、結局何も言わずに三成も後に続いた。
 駅から少し離れた場所にある雑居ビルで、政宗は漸く足を止め、後ろにいる三成の方へ振り返った。
「アンタ、影響されすぎだ。まさか家や学校でもそうじゃねえだろうな?」
険しい顔でいきなり咎められ、三成も眉を顰める。
「要らぬ世話だ。最低限のやり取りはしている。何の問題も無い」
憮然としつつ三成がそう言い捨てる。
つまり、必要以上のやり取りはしていないということだ。
多少の影響を受けるのは仕方ないと思っていたが、
この態度や口調から察するに、『石田三成』の融通の利かなさは予想以上だ。
こめかみを押さえながら、政宗は二日前の忠告を繰り返す。
「問題ありありじゃねえか。いいか、前にも言ったが、アレはただの幻覚だ。
 俺たちには何の関わりもねえ。アレにのまれるな」
そう言い含めるものの、三成は聞く耳を持たない。
「馬鹿か貴様は。アレは私の背徳への罰だ。それ以外の理由など無い」
「馬鹿はてめえだ馬鹿。そんなふざけた理由で結論づけられてたまるか」
この二日の間に三成が至ったらしい結論にそう返し、舌打ちしてから政宗はビルの中へ入っていく。
今の状態では、こちらが何を言ってとしても三成は聞く耳を持たないだろう。
「貴様ッ、逃げるつもりか!」
「じゃねえよ。ここの六階なんだ」
怒鳴りつつ追い掛けてくる三成を適当にあしらい、エレベーターのボタンを押す。
エレベーターが下りてくるのを黙って待っていたが、三成の方が口を開く。
「会わせたい奴とは誰のことだ?」
その問いで言っていなかったことに気付くが、どう説明すればいいか考えあぐね、
政宗は少し経ってから答えた。
「オレの主治医さ。だがまあ、アンタの方がよく知ってるだろうな」
「……それは、つまり――」
そこまで言いかけたところでエレベーターのドアが開き、中から人が降りてきたので会話が途切れる。
それからエレベーターに乗り込んだが、三成は黙ったまま何かを考え込んでいる。
言い損なったことを繰り返すつもりは無いらしい。
わざわざ聞き返すのも微妙な気がして、政宗も何も言わなかった。
 エレベーターを降りてすぐのところにあるガラス張りのドアを開け、政宗は受付へ向かう。
ドアの側で足を止めたまま、何か書いている様子の政宗へ一度目を向けてから、三成は辺りに目を移した。
開けた空間の奥に見えるやや大きめの窓から入る光と白い壁で室内は十分明るく、
他に人がいないせいもあり待合室は広く見える。
そこに一定の間隔でパイプ椅子が並べられており、学校や塾とどこか似ているが、
静まり返っているのでここだけ世俗と切り離されたような、異質な印象を受けた。
 その待合室に重なるようにして荒野が広がっている。
累々と横たわる屍の先には、まだ息のある者が残っていた。
仕損じていたかと思い、その瞬間にこれらの屍を作り出したのが自身であることに気付く。
それに伴い血肉の臭いが鼻をつき、数多の命を吸った刀の感触が戻ってくる。
秀吉様の下で存分に力を奮った、あの懐かしき日々。
だが、汚れたこの身では、戻ることは叶うまい。
 ちらつく世界に堪えかねて、三成は側のドアに視線を遣り、
そこに記されているクリニックの名前や時間を意味もなく眺める。
そこに受付を済ませた政宗が近付き、声を掛けてきた。
「どうした、大丈夫か?」
少し霞んだ視界の端で、政宗の姿があちらの世界の何者かと重なるのを捉えたが、
すぐにぼやけてしまい、判らなくなる。
政宗だけに限らず、この二日の間に擦れ違った者たちは全てそうだ。
あちらに意識を持っていかれはするが、そこにいるのが誰かまではいつも判らない。
「……吐きそうか?」
血の気の無い三成の顔を見て、眉間の皺を深くして政宗がそう尋ねてくる。
視界がぼやけがちなので確かに多少吐き気はするのだが、ひどいわけでもないので、
構う必要は無いと三成は首を横に振った。
「きつくなったらすぐに言えよ」
それだけ付け加えて、政宗は奥へ進み、一番後ろにあるパイプ椅子に座る。
何となくその二つ隣に三成も座ると、少ししてから誰かの名前が呼ばれた。
それに政宗が立ち上がり返事をして、行くぞと声を掛けてきたので三成は少し驚いた様子で政宗を見た。
「貴様、先日、ダテと名乗っていたではないか」
「そうだったか? 悪ぃな、さっきのが本名だ」
訂正した気はするし、そもそも同じ名であるはずが無いことなどすぐに思い至りそうなものだが、
三成の気性を考えれば通じていないとしても不思議はない。いや、そう思えるのもどうだろうか。
惑い始めた思考をそこで止め、改めて三成に本名を告げ、政宗は開けられたドアを抜け奥に進む。
その後ろに釈然としない様子の三成が続いた。
診察室より少し奥まったところにあるドアの前で止まると、
政宗がドアを軽く叩いてから開け、中にいる主治医に声を掛けた。
「先生、オレの同類連れてきたぜ」
どこか嬉しそうにそう報告し、部屋の中へと入る政宗の後に続き、三成も中を覗き込んだ。
 重なった視界に広がっている、砂塵舞う荒野から一転、晴天へと世界が変わる。
整然と並んだ者々が彼の御方を仰ぎ見て、誰もが彼の御方を称える。
それに応え、王たる威厳に満ち溢れた秀吉様が、皆へ御言葉を掛けられる。
その傍らに立ち、秀吉様の軍師であり右腕でもある御方が、微かな笑みをその顔へ浮かばせる。
その御方が、部屋の中にいる青年とピタリと重なった時初めて、ぼやけていた視界が鮮明になった。
「……半兵衛様……」
思い起こすのが苦しい程に幸福に満ちていた日々が色鮮やかに蘇り、
同時に、過去が罪に汚れたこの身を白日の下へと晒し出す。
誇り、断罪、幸福、絶望、そして虚無。
一挙に襲いかかるそれらを前に、三成が顔を歪めた。
「おい、大丈夫か?」
苦しげに呻く三成に、政宗が何度か声を掛けるが、彼の耳には届いてないらしく、
三成は部屋の中の青年を呆然と見つめている。
それを見つめ返し、青年は椅子から腰を上げると、政宗の横を通ってドアの前に立ち尽くす三成へと近付いた。
そして、反射的に後ずさってしまった三成に声を掛ける。
「……僕は、『竹中半兵衛』、らしいね」
ゆったりとした口調で問いかけられるに伴い、重なった世界の上と下が入れ替わっていく。
『竹中半兵衛』の姿が、柔和な笑みを浮かべる青年の後ろに遠ざかってしまい、
三成はそれを止めようと唇を弛緩させる。
「彼から話は聞いているよ。君の名前は?」
しかし三成が何か言う前に青年が口を開き、それを切っ掛けとして、
三成は一気に現実の世界へと引き戻されてしまう。
目を見開いたまま立ち尽くす三成に、青年はもう一度名前を尋ねる。
「……私を、お忘れですか……?」
呟き、三成は縋るような目を青年へと向けるが、
問いかけに対する答えが青年の口から述べられることこそが恐ろしかった。
同類ではないと、三成は政宗から既に聞いている。
本当は青年の答えなど聞かずとも分かっている。
それでも、何かの感情が三成を急き立て、三成をして言わしめる。
一縷の望み。微かな期待。無意識に抱いたそれらを、青年は三成の危惧した通り、打ち砕く。
「……僕には、君たちのような記憶は無いんだ」
優しく、それでいてはっきりと、青年は言い、首を横に振る。
そうして三成は思い出す。
そうだ、これは報いなのだ。
罪を犯したこの身で、救いを求めるなど、許されないことだ。
 少し鮮明になった視界に、三成へ視線を注ぐ青年と政宗の姿が映る。
ぶれる視界とぼやける視界で頭がぐらつき、三成の身体が大きく傾いだ。
「石田!」
咄嗟に横から手を伸ばした政宗に引っ張られ、三成はふらつきながら空いた椅子に座らされた。
隣の椅子に自身も座り、政宗は不安げに三成を覗き込んでいたが、
やがて顔を上げた三成に大丈夫だと言われ、その顔に安堵を浮かばせた。
それに逆に驚いて政宗を見つめ返す三成へ、青年は何かあればすぐに言うように念を押す。
硬い表情ではあるものの、頷いた三成に微笑を返し、青年は隣の政宗へと目を移した。
「では、診察に入ろうか」
名を呼ばれ、三成を気にしながらも政宗も青年へと向き直った。

























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