春陰
道の先から歩いてきた人物と擦れ違う。
あ、と気付いて振り返りその背中を見る。
途端、聞こえていた周りの喧噪が遠ざかり、
幻の景色や音や臭いが白昼夢のように現実を塗りつぶしていく。
幻と重なったその人物に声を掛けようかと逡巡し、
遠ざかっていくその人物の後を追うかと迷う内に、
その背中は見えなくなってしまう。
反比例して、再び耳に入り始めた周りの雑音に今度は幻の方が引く潮のように遠のいていく。
そうして漸く息を吐き顔を顰め、名残を振り払うように、振り返った身体を元の方向へと戻した。
そう在るのが至極当然であるかの如く、コレは常に脳の片隅に在る。
この脳に記憶として刻まれたその世界は、教科書で学んだものと似ているのに、ひどく現実離れしている。
何しろ、一つだけでも持つのに苦労しそうな武器を幾つも持つ者もいれば、
武器になり得ぬ物すら武器としている者もいて、あまつさえ炎や氷や風、
それに光や闇さえ操るという、非常識極まりない世界なのだ。
そんな世界で、そんな化け物共の一つとして、化け物共と殺し合っていた記憶が、五感を伴って自分にはある。
切っ掛けは、物心が付き始める頃に出した高熱だろうか。
両親曰く生死の境を彷徨う程の重症だったらしいし、
どうにか峠を越し、退院した後ぐらいから映像が見え始めていたような気もする。
だからその話を聞いてからは、この化け物の世界の記憶は、
全身に広がったウイルスが脳にまで回って、どこかの神経を壊してしまったせいだとよく考えていたものだ。
脳は生物の核のようなものだから、この記憶もその一部が壊れた影響なのだろう。
どの医者もまず後遺症がどうとか言い出したし、
そのせいで在りもしない世界の在りもしない化け物共の幻覚を見ているのだと結論付けた。
いや、それは少し違うか。
口に出す名前だけは現実の世界でも知られたものである分、余計に空想だと思われてしまうのだ。
かわいそうに。お気の毒。馬鹿馬鹿しい。妄言だ。虚言だ。全部嘘に違いない。
それらは、誰に言われたのだったか。
そしてそれは、たぶん、正しいのだろう。
在り得ない世界での在り得ない化け物共の殺し合いの記憶が、組み合わせを替えて幾つも有って、
だが他の化け物共は、誰一人としてそれに気付くこともなく、只の人として現実の世界を生きている。
ただ自分だけが、数多の人の中からかつての化け物を見出し、化け物共とその世界に気付く。
自分のみが、現実の世界と化け物の世界が重なってしまう。
だが、そんなこと誰が信じられるというのだ。変人や気狂い扱いするのも無理はない。
だというのに、どうにか信じてもらおうと、勝手に期待しては失望し、飽きもせずにそれを繰り返す。
当時の自分には、愚か者という言葉がいかにも相応しかろう。
他人にとって虚言にしかならぬことを繰り返す愚か者は、
しかしか漸くか次第に諦めを知り始める。無為を知り、無駄に気付き始める。
現実の世界に順応できるように、輪から外れてしまわぬように、
いまだささやかな期待を密かに抱きながらも、化け物の世界をやり過ごそうする。
血肉が飛び散る光景も、鼻を付く臭いも、断末魔の叫びも、人を殺す感触も、
およそ日常に関わらぬであろうものは全て嘘であると、そう思い込もうとする。
でなければ、この異常に堪えられるはずもなかった。
そうして愚か者は、とうとう現実の世界から、
かつての化け物であった自身すら見つけてしまう。気付いてしまう。
愚か者は、愚か故にどこかで信じていた。
在り得ない世界の記憶であるならば、いつかは在り得ない力が働いて、
自分と同様の、化け物の世界を記憶した誰かを見つけられるのではないかと、
そう願い続けていた。
だが、根本から違っていたのだ。コレは正しく嘘であり夢であり幻だ。
自分そのものが異分子なのか、もしくは自分の脳のどこかに異分子が入り込んでしまっただけだ。
己が、異端だったのだ。
家を出ようとしたところで、携帯の呼び出し音が鳴り響く。
画面の表示を確認してから、通話ボタンを押す。
スニーカーを履きながら、耳に押し当てた携帯から聞こえてくる母親の声に相槌を返す。
「……いや、今行くところ……ああ、分かってる」
一人で暮らす息子が余程心配なのか、母親の言うことは家を出たばかりの頃とあまり変わらない。
もう一年以上経っているというのに相変わらずだ、と苦笑する。
「……病院は明後日だ……いや、少しは安定してきた。
そっちこそ、こっちばかり構っていて大丈夫なのか?」
それとも、実家から離れてしまった息子への不満だろうか。
いや、父親が家にいない今、不安と寂しさもあるのだろう。
腕の時計に目を遣ってから、側に置いてあるショルダーバッグを掴んで立ち上がり、掛けてあった鍵を取る。
「……分かった、帰りに病院にも寄っていくから……そっち? 週末でいいだろ」
ドアを開け、鍵穴に鍵を押し込んで回す。ガチャリという音と携帯からの音が重なった。
聞き損ねた母親の話に適当に相槌を打ちながら通路を歩いてエレベーターのボタンを押した。
「……心配ないって。そろそろエレベーターが来るんだ。切るからな」
まだ言い足りない様子の母親の話を打ち切り、それから一言二言交わしてから漸く電話を切る。
ため息を一度だけついたところで、丁度エレベーターのドアが開いた。
一階に下りてエレベーターを出て、エントランスを通り抜ける。
外に出て空を見上げ、日差しの強さに思わず目をつぶった。
確か昨日、今日は雨が降るとか言っていたはずだったが、傘は必要ないかもしれない。
ただ、身体にまとわりついてくるような湿気に、
念のため、傘はこのまま持って行こうと思い直し、駅へ向かって歩き出した。
歩きながら帰りのことを考える。
今日は五限までだからそれから父親の病院に寄るとしたら、夕飯はどこかで済ませた方が良さそうだ。
レポートもまだ余裕がある。いや、今日あたり、また追加されるかもしれない。
今週末までが一つ、あと二つは再来週。
そろそろ片付けていかないと面倒か。
ふと耳に入ってきた音に、目だけ動かして周りを確認する。
ランドセルを背負った子どもの姿とその賑やかな声で、漸く道を間違えてしまったことに気付く。
数週間前までは通っていた道だ。油断すると無意識に足が向いてしまう。
踵を返し、周りを見ないように気をつけながら、来た道を駆け戻る。
角を曲がり、小学生の姿が無いことを確認してから、やっと息をついた。
走ったせいか脅えたせいか、冷や汗が服に染み込み、呼吸が荒くなっている。
思い出しただけでこれだ。やはりもう、あそこには近付かない方が良い。
首を伝う汗を乱暴に腕で拭い、ついでに時計を確認してから、急ぎ足で駅へと向かった。
駅へ着き、丁度到着していた電車に駆け込んだ。
ラッシュは過ぎていたので、席は埋まっているものの電車の中はそれ程多くない。
出入口の角に立ち、はめ込みの窓からぼんやりと外を眺めながら、
他人の会話を耳に入れぬよう、イヤホンから流れてくる音に耳を澄ませる。
しかし、三つ目の駅に止まりドアが開き、途切れ途切れに入ってきた音に眉を顰める。
目線だけ上げて、斜め前に立っているサラリーマンの姿を窺い見て、
微かにちらついた視界にやはりそうかと確認してから、音楽プレーヤーの音量を少しだけ上げた。
騒々しいロックバンドの音に集中してどうにか平静を保とうと努めるが、
耳に入る音の種類が変わると同時に、触覚と嗅覚も反転する。
ショルダーバッグの紐を握っていたはずの手は、今や血と脂で汚れた刀を握り締め、
火薬と土埃に混じって流れてくる血と踏み荒らされた草の臭いが鼻を付く。
それ以上を視界に入れるのが恐ろしく、顔が上げられない。
自分を呼ぶ声に耳を塞ぎたくなる。
込み上げてくる吐き気に息が詰まる。
違う。此処は、電車の中だ。
コレは、全て、ただの幻覚だ。
――間もなく、……駅。
唐突に耳に入った車内アナウンスと共に、ぱっと視界が開け、
足下も土が剥き出しの地面から電車の床へと戻る。
鼻を付いていた臭いも握っていた感触も、馴染んだものに戻っていく。
漸く顔を上げ、視界の隅から化け物の世界が消えていくのを見送ると同時に、電車のドアが開く。
ふらつきつつ車内から出て、柱に凭れながらうずくまった。
電車が発車して、周りにいた人々が遠ざかっていく音を聞きながら、喘ぎと吐き気をどうにか堪える。
それに気付いた駅員が話しかけてきたので、大丈夫だからと適当にあしらおうとしたが、
食い下がる相手に半ば引き摺られるようにしてベンチに座らされた。
ぐらぐらと揺れる頭で、少し休めば大丈夫だと駅員へ伝えると、漸く立ち去っていった。
朧気な視界で、先程のサラリーマンを思い出す。
あの者とは、化け物の世界でもそれ程やり取りがあった訳ではない。
ましてこちらでは、当然ながら面識すらない。
だとすれば、ここまで引き摺り込まれたのは駅に行くまでの件の小学校の影響が大きかったのだろう。
あそこにいる化け物共とは、浅からぬ因縁がある。
だから避けていたのだが、先生曰く、これが無意識の意識というものなのだろうか。
などと適当に考えながら気を紛らわせる。
脳が落ち着いてきたらしいので、腕の時計を確認する。
今から急いだところで、どのみち講義開始には間に合わないが、出席日数が心許ない。
仕方がないとサボリを諦め、一度深呼吸して、最後に二、三度首を振って立ち上がった。
父親の術後の経過は良好で、思っていたよりも早めに退院できそうだということだった。
疲れが溜まっていたせいもあるのだろう。
たぶん、その原因の一つに自分も入っているだろうとは思ったが、
どのみち何を言っても父親の新たなストレスになりそうだったので、
思うだけにしておいた。父親まで虚しくさせても仕方がない。
病院を出てから一度空を見上げたが、雲は厚いが雨は降りそうに無い。
傘はやはり置いてくれば良かったと思いながら駅へと向かっていると、
道の先から学ラン姿の男が二人、こちらへと歩いてくるのが見えた。
この先の角を曲がったところに塾があったので、たぶん高校生だろう。
そう思った直後、気が付いた。
いつものように化け物と現実の世界とが重なって見えたが、
視界にちらつく程度で、朝よりかは余程マシだった。
例えば擦れ違う瞬間に気付くような不意打ちの発見の場合では、
気構えていないせいか、現実の世界が霞んでしまう程に強く化け物側へ引き摺り込まれてしまうのだが、
今回は化け物の方が朧気だ。
何度も痛い目を見ているので、話しかける気はもう起きない。
ちらちらと見え隠れする幻覚は煩わしかったが、気にしないようにしながら、彼らの横を通り過ぎた。
だが、擦れ違った後、ふと違和感に襲われる。
奴は、以前に見たことがなかったか。
数週間前に見つけそのまま失神してしまってから、避けるようになったあの通学路で、
『家康』がいるあの学校で、オレは奴を見つけなかったか。
「……」
ぐるぐると思考が混迷していき、歩いていた足が止まる。
冷や汗が身体から噴き出し、混乱が大きくなる。
期待するだけ無駄だと、頭では分かっているが、止められない。
諦めてしまえる程に、孤独には慣れていない。
後のことなど何も考えていなかった。どうすればいいかも分からなかったが、ただ、確かめたいとだけ思った。
ごくりと生唾を飲み込み、恐る恐る背後を振り返る。
高校生が二人、共に立ち止まっている。
一人は呆然と立ち尽くし、もう一人はそれを訝しげに見て、どうしたと声を掛けている。
しかし相手は答えぬまま、こちらをただ、愕然とした様子で凝視している。
現実が遠ざかり、化け物の世界が顔を出す。
ある時は大坂城、ある時は関ヶ原、そうして殺し、殺された、他と同様の、ただそれだけの間柄。
邂逅は小田原。結果は敗北。結末だけが、幾通り。
主を殺され、憎悪と狂気に取り憑かれ、自身の先を捨てた男。
銀の髪に、刃のように鋭い瞳を持つ、凶王と恐れられた化け物の一人。
その姿が立ち尽くす高校生と重なった。
『石田三成』は、頭を抱え、崩れ落ちるようにその場に膝を折る。
それを眺める自分の両目の内、右目だけが今になって疼いた気がした。