両親共に大学教授とその助手、加えて学者である祖父を持つシゲルは、
非科学的な要素が欠如しがちな環境の中で育ってきた。
それゆえに、否定などはしないが、神様も仏様も信仰もシゲルにとっては、
あくまでも学問上のものだけであったし、運命は偶然やある種の必然の結果に過ぎなかった。
勿論、彼の分野から言えば、その結果と過程を紐解くことに意味があるのだから、興味や関心は尽きないが、
それはやはり研究としてのものだった。
そんなシゲル研究員の価値観に一石を投じるきっかけとなったのは、
同じ研究所に所属する一人の研究員の、シゲルに対する羨望と妬みと劣等感が暴発した一つの事件だった。
その頃、表向きは協力という形でシゲル主導の下行われていた研究をまとめた論文や資料が、
発表も間近の日のある朝、無惨にも全て裂かれ、破壊されていたのだ。
昨晩最後に研究室を出た人物とその際の様子を思い返し、
誰がこの事件をやらかしたかはおおよそ推測できたが、
それとは別に、シゲルは呆然としていた。いや、不思議でたまらなかった。
結局、シゲルの推測した通り、犯人はその研究員だったことはすぐに判明したのだが、
その行動の理由がシゲルには全く理解できなかったのだ。
期日に追い詰められ、彼が極度の緊張状態だったことは分かる。
しかし、彼やシゲルも含めたチームとしての研究成果を破壊し尽くす理由がどう考えても分からなかった。
どのみち、この有様では今回の学会には間に合わない。
欠席の連絡はチームリーダーに任せることとして、室内の簡単な掃除だけ済ませ、
今日はそのまま帰宅することとなった。
とはいえ、途方もない虚脱感にすぐに自宅に帰る気にもならなかったので、
シゲルはいつもの公園のベンチに腰を下ろし、暫く時間を潰すことにした。
昼休みによくするように、頬杖をついてぼんやりと辺りを眺めていたが、
流石にまだ朝早いので、公園にいる人の数はまばらだ。
時折お子様たちに紛れて広場を走り回っている謎の少年――恐らく不登校なのだろう――の姿も見えなかった。
どうしてあの少年の姿を探したのかと少し考え、心を落ち着けようと普段の景色を求めたのだろうと思い至る。
木陰を狙って座ったベンチは、爽やかに吹いてくる風が殊更に心地良く、逆に寝不足の身には辛かった。
心中で燻ったままの、言葉に成り得なかった嫌な感情を一時忘れ去りたいという気持ちもあったのか、
次第にうつらうつらとし始め、これはマズイと立ち上がろうとは思うものの、身体がついていかない。
すとんと暗闇に落ちるように、シゲルの意識はそこで途切れた。
舟を漕いでいた頭がかくんと頬杖の枕からずれて、シゲルは目を開いた。
思考が定まらずに少しの間ぼんやりとしていたが、ああ、と、うたた寝てしまったことに気付き、
顔を上げるついでに伸びをすると、伸ばした手が何か柔らかいものにぶつかった。
「あ、すいません」
どうやら人がいたらしい。
すぐに謝りながらシゲルがそちらに顔を向けると、寝ぼけ眼の相手もこちらに顔を向けた。
「あ」
そこに居たのは、例の不登校少年だった。
目を擦りながら欠伸をしているところを見る限り、
うたた寝ていたシゲルの隣にやって来て自分も寝ていたのだろう。
何でわざわざそんなことを、と疑問が浮かぶが、覚醒したらしい少年は、シゲルに笑いかけた。
「こんにちは」
素直な笑顔を向ける少年に、少しだけ面食らって、シゲルは束の間言葉に詰まった。
「……こんにちは」
それでも持ち直して挨拶を返すと、それが嬉しかったのか少年の口から笑いが零れた。
その幼さすら感じる笑顔を見ながら、
同年代と思っていたが、ともすればずっと年下なのかもしれないとシゲルは思い直す。
そんなシゲルの思考など当然知るはずもなく、少年は自分も背伸びをしてから口を開いた。
「この町名物の研究者さん、こんなところで寝てたらネッチュウショウになっちゃうぜ」
自分も寝ていたことを棚に上げる少年に呆れるものの、
少年の言葉でシゲルはようやく木陰がだいぶ少なくなっていることに気付いた。
少しの間だけかと思っていたのに、随分と長い間居眠りをしてしまっていたらしい。
しかし陰だけで言えば、現時点でこの少年の方がよっぽど日に当たっているではないか。
「……お気遣いどうも。でも、それは君にも言えることだと思うよ」
それを指摘すると、それもそうだなと少年は笑いながらベンチから勢いよく立ち上がった。
その拍子に日陰が更に無くなったので、シゲルはふと思った。
「それじゃあな、研究者さん。睡眠はちゃんと取るんだぞ」
しかし、それをシゲルが確認する前に、
少年はそう言い残して、その場から走り去ってしまった。
「……まさか、ねぇ」
居眠りしている者の為に日陰を作ってやるなどと、
まさか赤の他人がそんなことをするはずもない。
そう思い直して、シゲルもベンチから立ち上がった。
と、拍子に何かがベンチから転げ落ちる。
それを追い掛けて拾い上げ、シゲルは小首を傾げた。
「……ぬいぐるみ?」
もしかしてあの少年の持ち物だろうか。
でも白いウサギのぬいぐるみって。
「……」
片手で持てる程の大きさのそのぬいぐるみは、妙に触り心地が良かった。
そのおかげか、いや少し休んだおかげだろうが、
朝の事件での嫌な気分も多少は晴れたようなので、
シゲルはせっかくだからとその白ウサギを持ち帰ることにした。
近い内にまた公園で会うこともあるだろうし、その時に返せばいいだろう。
「えっ、どこに行ったんですか!?」
思わずそう叫んでから、タケシは管理人に詫びる。
そうして改めて尋ねたのだが、その問いに管理人も言葉を濁した。
暫く留守にするからとサトシが払っていったのは向こう2年分の家賃。
たまに連絡は入れますとは言っていたそうだが、それだけの情報にタケシは言葉もない。
あと、留守にしている間に部屋は自由に出入りしてくれて構わない
という管理人の追加情報もとい追い打ちに、タケシは二の句を継げない。
とりあえずお礼だけ言ってから、よろよろと件の部屋に向かう途中で、
タケシは管理人の一人息子と擦れ違った。
「……シュウはサトシから何か聞いていないか?行き先とか」
それ程期待もしていなかったが、もののついでにタケシは一応そう尋ねてみる。
するとシュウは少し遠い目をしながら独り言のように答えた。
「さあ……モンゴルに寄ってからヨーロッパ経由でアメリカに渡るとか何とか、
僕のような一般人には想像もつかないことを言われましたけど……」
「……そうか……」
それ以上何も言えずに、ぽんとシュウの肩を軽く叩いてから彼と別れ、
タケシは再びサトシの部屋に向かい、先程のサトシの伝言に甘えて、遠慮無くドアを開けた。
元々物が少なかったその部屋は、部屋のど真ん中におざなりに置かれた書き置き以外は、
見事なまでに何も無くなっていた。
その書き置きを拾い上げてざっと目を通し、タケシはため息をついた。
「サトシ、せめてアルファベットにしてくれ……」
慌てて書き殴ったのであろうどこかの国(?)の文字を見て、タケシはそれしか言えなかった。