ポケモン荘
「シュウ、わたし、わたし……!」
思い詰めた表情で、ハルカは言葉を詰まらせ、そのままシュウに抱き付いた。
「ハルカ…」
シュウは眉を寄せ、それを受け止める。
ふんわりとした甘い香は彼女が先程まで食べていた、ショートケーキの匂いだろうか。
シュウが彼女の背に腕を回すと、ハルカは彼の胸に顔を埋めた。
「あの人ではダメなの。
貴方しかダメなの」
縋るような瞳で、シュウを見上げ、ハルカは懇願した。
「だから逃げて。
わたしを連れて逃げて!」
そう出来れば、どんなに幸せだろうか。
しかし彼女の願いにすぐに応えられず、
シュウはハルカを抱き寄せたまま、立ち尽くす。
ちょっと待て、どこの昼ドラですか。
そうツッコミを入れると共に、シュウは目を開いた。
視界に飛び込んでくるのは、見慣れた天井。
まだぼんやりとした頭で、ぼんやりと呟いた。
「……何て夢を見てるんだ、僕は」
大体彼女とそうなるはずなど無いではないか。
シュウは深いため息をつき、起き上がった。
とある割と田舎な町に、ポケモン荘と呼ばれる古アパートがある。
入り口を箒で掃いているのは、緑の髪が美しいシュウ青年、高校生。
家を留守にしがちな両親に代わり、今日も管理人業に精を出している(出さざるを得ないので)。
「シゲル〜、今日の夕飯何が良い〜?」
その声に、シュウは髪と同じ色の瞳を玄関の方に向けた。
扉を開けて出て来たのは一組のカップル。
一人はスーツ姿で二割り増し格好良く見える茶髪の青年、
もう一人は大きめのTシャツにジャージを履き、寝癖で髪が跳ねている黒髪の青年だった。
「いや、僕が帰って作るから、何もしなくていい」
「何回も言わせるなよ。
仕事で疲れてんだろ?
オレが作ってやるから」
「何回も言わせないでくれ。
頼むから何もするな」
同じやり取りを毎日繰り返しているのに、よくも飽きないものだ、
と毎日飽きずに同じ感想を抱きながら、シュウは二人に声をかけた。
「お早うございます、サトシさん、シゲルさん」
シュウの声に二人は振り返る。
「おはよう、シュウ。
いっつも早起きだな」
「…毎日ご苦労様」
黒髪青年のサトシは笑顔で、茶髪青年のシゲルは表情を崩すこと無く、シュウに挨拶を返した。
「なあ、シュウ、聞いてくれよ」
「毎日聞いてるので、もう聞きません」
サトシが愚痴を零す前に、シュウはぴしゃりと言い放った。
「…それじゃ、サトシ。行ってくる」
口を尖らせるサトシに、シゲルが声をかける。
その声にサトシは再びシゲルの方に目を向けた。
「行ってらっしゃーい!」
ぶんぶんと手を振るサトシに、ひらひらと手を振り返し、シゲルは出て行った。
「でさ、シゲルの奴ってば、オレのこと全然信用してくれないんだぜ」
シゲルの姿が見えなくなってから、サトシは続けた。
「…信用できないのも無理ないと思うけど……」
彼は問題を起こす能力に秀でている。
しかも自覚無しだから、手に負えない。
シュウの呟きは、サトシにはあまり聞こえていなかった。
「でもな、今度あいつの誕生日だからさ、その日ぐらいは何か作ろうと思ってるんだ」
「……その時は、お友達の家でお願いしますね」
決して一人ではやるな、
やるならここではやるな、
と言外に含ませておいたが、たぶんサトシは気付いていないだろうな、と思う。
「それでは、僕もそろそろ出る時間ですので」
箒とチリトリを片付けながら、シュウはサトシに声をかけた。
「お、行ってらっしゃ〜い」
シュウの助言に従い、誰の家に行こうかと考えていたサトシは、シュウの声に手を振った。
管理人室、というかシュウの部屋は、慎ましい広さを持つ庭に面している。
その庭から、さっきから人の話し声が部屋にまで聞こえてくるのだ。
「なあ、シゲル」
「何?」
「そろそろ部屋に戻ろうぜ」
その通り。早く戻ってくれ。
「もう少しぐらい、いいじゃないか」
いや、もう勘弁してくれ。
「だってほら、風邪引いちゃうぜ」
「その時は、ほら、こうやって」
「ん…っ」
「サトシに移すから、大丈夫」
ああ、もう、頼むから、早く戻ってくれ。
ていうか、そんなことは部屋の中でやれ。
堪えきれずに、シュウは窓をガラリと開けた。
「お楽しみのところ、申し訳ないんですが……」
「うわあっ!」
サトシの仰天した声が響き、他の部屋の住人が窓から顔を覗かせた。
サトシが慌てて、彼らに向かって何でもない、と釈明した。
いつものことで慣れているので、住人たちは諦めた様子で顔を引っ込めた。
「…部屋でした方が良いと思いますよ」
慣れてるけど、はた迷惑であるのに変わりはない。
「そ、そうだな……」
サトシが真っ赤になってシゲルを睨み付けると、シゲルは涼しい顔で肩を竦めた。
「ほら、シゲル、だから言っただろ!」
「じゃ、続きは部屋で」
「オ、オレは明日は朝早いんだからな!」
「大丈夫だって。すぐその気になるし」
「お、お前…っ!」
「だからそういうのは、部屋でやって下さい!」
堪忍袋の緒が切れたシュウが怒鳴った。
あんな夢を見るのは、きっと、頻繁にこういう会話を聞いてるせいだ。
この迷惑カップルめ。
と心の中でシュウは毒づいた。
管理人(事実上)シュウの苦労は続く。