得たものがあり、失うものがある。失ったものもある。
そして失ったものは、簡単には戻ってこない。
佐助はあれ以来決して口を聞かないし、幸村の側に近付くことも無くなった。
普段通りに笑い、その笑みが不自然であることに気付くのは、おそらく幸村と政宗だけだ。
「…お久しぶりです、お館様」
寺を訪れた幸村は、出迎えに現れた信玄に頭を下げる。
「おお、幸村か。息災のようじゃな」
屈託無く笑い、信玄は幸村の背中をバシバシと叩いた。
その勢いに、幸村は前のめりになるが、信玄は気にしない。
「今日はどうしたのじゃ?」
信玄の問いに、体勢を立て直しながら、浮かべていた笑みを消し、幸村は神妙な顔つきになった。
「…お館様、佐助は、おりますか?」
拙い願いであっても、残された時間が僅かであっても、例え元通りにはなれずとも。
それは彼との時間もまた真実であるから。彼がくれたものも偽りではないから。
「……佐助」
障子の前で、部屋の中にいる佐助に声を掛けた。
中からの返事はない。
「…お主に聞いて欲しいことがある」
「……」
部屋の外に佇んだまま、幸村は口を開く。
「…某は、化け物ではないぞ」
「……」
「お主も、化け物ではない」
「……」
「政宗殿が言ってくれた。無力ではないと」
「……」
「この見える目も、触れることの出来る手も、否定しないでくれた」
「……」
「だから某はそれで十分だ」
「……」
「…お主は、それでは駄目なのか…?」
「……」
返事は、無い。
「アンタいい加減にしろ!」
傍らで黙っていた政宗が、我慢しきれずに声を荒げた。
「アンタ本気でコイツへの優越感だけで、今まで付き合ってこれたと思ってんのか!」
「……」
「そんなくだらねぇ理由で、
ずっとこんなバカと付き合えるわけねぇだろうがっ!!」
「政宗殿…」
幾分複雑そうな視線を送る幸村だが、当の本人は気付いていない。
「いつまでもウジウジしやがって、
この障子ぶち破って引き摺り出すぞ、コラァッ!!」
「ま、政宗殿、落ち着いて下され…」
本気でぶち破りそうな勢いなので、幸村は政宗を後ろから抱き締めて止める。
しかし政宗は暴れながら怒鳴りつけた。
「出て来やがれ、佐助ぇっっ!!」
「……」
やはり、返事はなかった。
「この…っ!」
政宗が障子を蹴破ろうと、足を振り上げる。
幸村が慌てて政宗を後方に引っ張った。
「ま、政宗殿!」
「離せ幸村っ、このバカ殴ってやらねぇと気が済まねぇ!」
「……どうせバカだよ」
ぼそりと、部屋の中から声がした。
政宗の動きも声も止まり、幸村も声に耳をすませた。
「…でもあんたらだって、相当なバカじゃんか。俺なんか…」
俺なんか、放っときゃいいのに。
続けようとして、止めた。
こいつらはバカだから、
俺の気持ちも構わずに、
俺の矮小な理由付けなんか、ぶち壊してしまうんだ。
「…お前が何と言おうとも、
お前と過ごした時間は、某にとってかけがえのないものだ」
静かに言う幸村の言葉は、
まるで、小波の立っていない湖面の一瞬の姿のような、
儚くて頼りなくて、凛としていた。
「……ホントにバカだよ、あんた」
そう呟き、佐助はもう何も言わなかった。
二人が立ち去りしばらくしてから、再び佐助の部屋の前に誰かが立った。
彼に向かって佐助は最後の不満を漏らした。
「……はた迷惑な奴らだよね、あいつら」
「わざわざ仲良く二人で来てさ、
しかも惚気てんだよ、勝手にやってろっての」
「俺なんか放っておいてさ、いちゃいちゃしてればいいんだよ」
「こんな俺なんかさ……」
「ホントにバカだよ、バカな奴らだよ」
「俺もバカだよね、あんなのに絆されちゃってさ」
佐助の言葉が途切れた後、信玄が呟いた。
「バカで、良かったのう」
苦笑が漏れた。
こんなバカがいてくれて、
俺もこんなバカで、
良かった。
静かに時は流れていった。
共にいることが自然のような、
出逢ったことが必然のような、
そんな時を過ごしていた。
このままでいられるのなら、どんなに良かろうか。
そう思ったのは、おそらく幸村だけではなかっただろう。
いや、政宗こそがその思いは強かったかもしれない。
だから二人とも何も言わなかった。
言葉に出してしまうのが、恐ろしかった。
最近、妙にだるい。そして夢をよく見る。
夢は全て悪夢で、うなされて目覚めると、そこに闇はある。
今は恐れはあまりない。
「……だが、まだ呑まれるわけにはいかねぇよ……」
もう少し、後もう少しだけでいい。
もう少しだけ、アイツと共に…
自分の願いを、嘲笑った。
彼らは長い間は留まれない。
器を失った彼らはひどく頼りない状態だった。
彼らを留めるのは、未練だけに過ぎず、しかしそれだけでは、留まる力が弱すぎた。
だからこそ、幸村は――
「落ち着いて下され。ゆっくりで、思い出せる限りで構わぬ。
某に話して下され」
ずっと暗いところにいて、
怖いものが追いかけてきたから逃げて、
灯りが見えたから、こっちに来た、
と少年は言う。
それが彼らにとっての、幸村の意味なのだ。
「…そうでござるか。
……暗いところにいる前は、どうでござったか?」
少年は長い時間をかけ、しかし言われた通りに、ぽつりぽつりと話していく。
この少年は、思ったよりもずっと、落ち着いている。
幸村は切り出した。
それもまた、幸村の意味であるから。
「……自分が、どうなったか、思い出せるでござるか?」
少年は暫く黙った後、頷いた。
ぼく、死んだんだね。
透けた身体が微かに揺れた。
また暫く黙り、不安を隠しきれないような声で、再び口を開く。
どこに行けばいいのかなぁ?
「……某には分からぬのだ。
その道は、己自身が見つけねばならぬ。
だが、お主ならば、きっと大丈夫だ」
…本当に?
「…ああ、本当だ。お主は強い」
力強く頷く幸村の言葉に、少年は微笑み、頷いた。
透けた身体が、更に薄くなっていく。
「……どうか、」
消えた少年を見送り、
以前に呑まれてしまった女と、
未だ留まる彼らを悼んだ。
そして幸村は、彼を想う。