その男曰く偉そうにほざく口を、ぽかんと開いたまま、
幸村は唖然として自分の上に乗っている男を凝視する。
思考は止まり、目をそらすことも忘れていた。
「……え?」
漸く声が出るが、その音は意味を為していない。
「…what?」
幸村の様子を楽しみながら、男は挑発的な瞳で幸村を見つめている。
「……え、あ…猫…え、人…?」
「…ああん?」
頭に浮かんできた単語を言うものの、やはりさして意味はなかった。
「…いーい反応だな、アンタ」
低く笑い、男は再び顔を近づけた。
瞳の中を覗き込まれると、幸村の胸が何故か跳ね上がった。
「ここまで頭働かないで混乱しまくってる奴は、アンタが初めてだ」
ぺろりと自分の唇を舐め、男はもう一度幸村に口付けた。
舌が入れられ、一瞬心臓が止まった気がした。
「は、は、は、破廉恥であるーっ!!」
そう叫び、男の肩を掴んで引き剥がす。
男は掴まれた肩を竦め、笑みを浮かべたまま、もう一度唇を舐めた。
「五月蠅ぇな、こんな近くで騒ぐんじゃねぇよ」
低く笑いながら、男はまた顔を近づける。
また口付けられると思ったのか、短く叫んで、幸村は部屋の隅まで後ずさった。
「お、お、お主、何者だ!?」
「てめぇは自分で拾ってきた猫のことも忘れる程、頭悪いのか?」
からかう混じりの口調で言いながら、男は幸村の方ににじり寄る。
「猫…で、ではやはりあの黒猫なのか?
しかし…」
信じがたいこと甚だしい。
「目の前で見ておきながら、信じられねぇか?」
見透かしたように言われ、幸村は言葉に詰まる。
「まあ、アンタ頭固そうだもんな。信じられねぇのも無理ねぇか」
部屋の隅まで幸村を追い詰めた男は、ニヤリと妖しく笑って、また幸村の瞳を覗き込む。
「…お、お主、物の怪の類なのか?」
動悸は一向に収まっていないが、どうやら頭の方は少しは落ち着いてきた。
「…物の怪ねぇ…まあ、否定はしねぇけど」
少し不満そうだが、男は頷いた。
幸村は更に尋ねる。
「では物の怪、こちらの世界に何用か?」
「……」
瞳を鋭くさせ、男は幸村を睨み付けた。
やや気圧されるものの、その鋭さは経験済みなので、幸村は怯まなかった。
「何用かあって、参ったのであろう」
「Ha、てめぇが勝手に連れてきたんだろうが」
何かが気に障ったらしく、先程までの笑みが消え、男は眉を顰めてそう吐き捨てた。
「…まあ、それはそうなのだが……」
「哀れみ深い人間様は、
片眼の潰れた見窄らしい猫だろうが放っておかないってとこか?」
苛立った様子でそう言い捨てる男に、幸村は眉を寄せた。
「それとも、アンタは見窄らしい方が好みなのかい?」
「…某をどう言おうと構わぬが、己をそう卑下するものではない」
「Ha、ご立派な心意気だぜ、涙が出らぁ」
「……」
幸村は、見下したように睨み付けてくる男の瞳を見返していたが、不意に立ち上がった。
敵意を剥き出しにしてきた今は、これ以上言い争っていても仕方がない。
「兎も角、今日は天気が悪い。
気に入らぬだろうが、一晩の辛抱故、我慢致せ」
「……」
男は無言のまま未だ睨み付けてくる。
ふと男がまだ裸のままであることに気が付いた。
その裸体に妙な艶めかしさを覚え、
幸村は慌ててその男に着ていた上着を放った。
「そこの箪笥に服が入っている。
好きなのを使え」
更に眠くなったらベッドで休むように言い、
シャワーを浴び直そうと、幸村は慌てて部屋を出た。
「……」
あのギラギラ睨み付けてくる瞳も、
馬鹿にした笑みも、
触れてきた唇も肌も、
頭の隅から消えない。
「破廉恥なのは俺の方だ…」
顔が熱い。
しかし明日にはいなくなろうことを思うと、
何やら寂しさを覚え、頭が冷えてくる。
矛盾した状態にため息をつき、幸村は浴室へ急いだ。
朝、鳥のさえずりに起こされ、幸村は目を開けた。
寝ていた床から半身を起こし、ベッドを見上げるが、
昨晩使用する者がいたベッドの上は今は無人となっていた。
「……」
人の気配は特にしない。
知らぬ内に、ため息がこぼれた。
「やはり、あの物の怪はもうおらぬか…」
「その呼び方止めろ」
答えなど期待せずに呟いた言葉に、背後から不機嫌そうな返事があった。
幸村は慌てて振り返る。
誰もいないが、今度はすぐに視線を下に向けた。
黒猫が相変わらずの鋭い目つきでこちらを睨んでいた。
「…まだ、居たのか……」
何故か安堵した。しかし黒猫の方はそうは捉えなかったらしい。
「悪かったな、まだ居て」
「いや、そういう意味ではなく…」
ますます不機嫌になる黒猫に焦ってしまうが、ふと気が付く。
「…物の怪、その姿でも人の言葉が喋れるのか?」
「その呼び方止めろって言ってんだろうが」
いっそう怒らせてしまい、そっぽを向かれた。
拍子に長い尻尾が、ぺちり、と幸村の膝に当たった。
「妖殿、」
これ以上怒らせないように、せめてと殿を加え、もう一度呼んでみるが、
言い方変えようが同じことだと、にべもなく言われた。
黒猫の機嫌は良くならない。
「……では、何と呼べばよいのだ?」
「…人にもの尋ねる時は、尋ね方ってもんがあるんじゃねぇか?」
「……」
人ではなかろう、少なくとも今は、
と心の中でだけ思っておいた。
尊大な態度なのだが、何故だろう、腹は立たなかった。
もう慣れてしまったのだろうか。
「そなたの名、某に教えて頂けませぬか?」
そっぽを向いたままの黒猫に向かって、幸村は声をかける。
ピクリと耳と尻尾が動き、黒猫は漸く振り返った。
「…アンタ、変わってんな」
呆れた声音でポツリと呟き、黒猫は幸村に近付いていく。
「…教えてやってもいいぜ、その代わり……」
昨晩のように、幸村の上に乗っかり、黒猫は身体を伸ばして幸村に口付けた。
またざらりとした舌の感触がした。
二回目とはいえ突然の黒猫の行動に幸村は目を見開く。
その間に、黒猫はまた男へと姿を変えた。
やっぱり裸だ。
直視できずに、幸村は慌てて顔を背けるが、
顎を掴まれ、乱暴に再び男の方へと向かされた。
首の痛みを感じる前に男と目が合い、幸村の頬が赤くなる。
「…アンタみたいな奴、嫌いじゃないぜ。
体力も無駄にありそうだしな」
笑みを浮かべ、もう一度口付ける。
今度は触れるだけですぐに唇を離すが、幸村は既に耳まで真っ赤だ。
それを見て、男が声に出して笑い出した。
「ただの単細胞だと思ってたが、可愛げあるじゃねぇか」
「か、からかっておるのか!?」
「からかってねぇよ、遊んでるだけだ」
目を細め、低く喉で笑い、男は幸村をそのまま押し倒した。
困惑で揺れる幸村の瞳を眺めた後、不意に男は幸村に笑いかけた。
初めて見た屈託のない笑顔に、幸村は思わず見惚れる。
「決めた、暫くの間アンタと一緒にいてやるよ」
「な、え…!?」
「その代わり、俺に協力してもらうからな」
「な、何の…!?」
「なーに、毎日俺に精気を分けてくれりゃ、それでいいさ」
「…は……?」
男は一人で勝手にどんどん決めていくが、
ただでさえ混乱している幸村の頭では、口を挟む間を窺うこともできない。
「そういや、名前まだ教えてなかったな」
思い出したように、再び男は幸村に目を向けた。
知りたいんだろ、と言われ、幸村は思わず頷いてしまう。
男は満足そうに笑った。
「俺は政宗、伊達政宗だ。
アンタは?」
「…真田、幸村にござる……」
笑顔にまたも見惚れ、気付けば幸村もまた名乗っていた。
物の怪の類には無闇に名乗るな、
と常日頃言われていたことも、忘れていた。
まずい、と思った。
何よりまずいのは、例えそのことで己がこの男に取り込まれたとしても、
構わぬと一瞬でも思ったことだ。
幸村は気が付いた。
気付いてしまった。
判らなかった疑問の答えに、気付いてしまったのだ。
何と言うことだ。
未だ正体の判らぬこの男に、
この御方に、惚れてしまった。