そこのけもののけ





 雨が降っている。
梅雨と言うに相応しい程の雨。
雨に濡れ、草木は潤っているが、こちらとしてはジメジメと暑苦しいだけだった。
思わずため息がこぼれそうになるが、信玄の言葉を思い出し、幸村は慌てて首を振った。
「いかん、如何に心地よいものでなくとも、この世に意味を為さぬものなど無い」
己にそう言い聞かせ、気を取り直し、幸村は家路を急いだ。
 角を曲がったところで鋭い視線を感じた。
「何奴!?」
大声でそう言い、幸村は素早く振り返った。
しかし、背後に人影はない。
「む、気のせいか。まだまだ未熟だな」
思い直し、再び前を向いたとき、左側から視線を感じた。
殺気と間違えるかの鋭い視線に、幸村は身構えながら左に目を向けた。左は壁だった。
「むむ、確かに視線を感じたのだが…」
訝りながら、それでもやはり気のせいかと、もう一度前を向きかけた時、
何気なく地面に目がいった。
そこに視線の主はいた。
「……」
幸村は目を疑った。
まさか。
これが鋭い視線の正体とは信じがたかった。
「………猫…?」
フタの開いた段ボールの中に、一匹の黒猫がいた。
片眼が潰れやせ細った姿は、同情を誘うというよりもただ見窄らしかった。
もう子猫という大きさではなかったが、
雨に濡れていたせいか、体毛が倒れ、身体を小さく細く見せており、
それが見窄らしさに尚拍車をかけていた。
しかし残った左眼だけは射抜くように鋭い光を放っていた。
「……お主、捨て猫か?」
その場にしゃがみ、無意識に傘を段ボールの方にややずらす。
黒猫は鳴きもせずに変わることなく、鋭い瞳で幸村を睨み付けていた。
人を必要としないような、
拒絶しているような、
しかし生き抜いていけるような。
扱いにくさとふてぶてしさを持ち合わせた瞳の光だった。
 幸村が黒猫に手を伸ばすと、すかさず瞳に負けず劣らず鋭い爪で引っ掻いてきた。
「…お主、なかなか強いようだ」
血を滲ませる手に目をやった後、幸村は苦笑した。
「一人でも十分に生きていけるようだな」
にゃあ。
当たり前だ、
とでも答えたようなタイミングで、黒猫は威嚇するように一鳴きした。
「…しかし、今日は夜からまた雨足が強くなるということだ」
このような気性ならば、大丈夫だとは思うが。
しかし気になる。
そう思っていたところ、ふと、黒猫の前足に傷を見つけた。
「怪我をしておるではないか」
慌てて抱きかかえようと手を伸ばすと、すぐに爪で引っ掻かれた。
「大人しくしておれ。
怪我の手当だけでもしておかねば、この先辛くなるぞ」
引っ掻いてくる爪に構わず、幸村は黒猫を抱え上げた。
黒猫はますます暴れ出す。
「別に取って食おうなどとは思っておらぬ。
雨露を凌げる場所でも見つかったと思えば良かろう」
そう言い聞かせるが、黒猫は暴れるのを止めようとはしなかった。
「…他人の世話にはなる気はないか、誇り高いな、お主は」
引っ掻かれる手は痛みを訴えているが、
それに構わず幸村は黒猫を抱えたまま、再び家路についた。
首元を撫でると、噛み付かれた。








 まるで戦のようだった、と幸村は独りごちた。
暴れる黒猫を何とか連れて帰り、傷の手当てをする前に風呂に入れたのがまずかった。
傷に染みたのと、猫にありがちな濡れることを嫌う性格だったのだろう、
黒猫はますます暴れ出した。
それを何とか押さえつけて洗い、傷の消毒と包帯巻きを終えた頃には、
黒猫も幸村も疲労困憊で、居間の床に倒れ込むように横になり、
しばらくの間は動く気力がなかった。
 カッチコッチと時計の音が聞こえてくる。
漸く思考が働いてきた。
そうだ、ずっとこうしている訳にもいくまい。
何か食べさせないといけないし、
食べないといけない。
大儀そうに幸村が起き上がると、
それと同時に、甚だ不愉快そうに黒猫も身体を起こして毛繕いをし始めた。
最早苦笑するしかない。
「無用のお節介だったな、すまぬ…」
素直に謝って黒猫の頭を撫で、幸村は立ち上がった。
「せめてもの詫びだ、
今食べるものを用意する故、お主はゆっくりとしておれ」
一瞬だけ黒猫は動きを止め、幸村の方を見たが、
すぐに毛繕いを再開した。




 食事後、黒猫は好きなようにさせておき、
片付けを終えた幸村も漸く腰を下ろし、ソファに寄りかかった。
満腹で落ち着いたのか、黒猫は部屋の隅で丸くなっていた。
「…漸く落ち着いたか」
幸村の呟きにピクリと耳が動き、黒猫は身を起こした。
「どうした?
お主も疲れたであろう、休んでいて構わぬぞ」
そう言ってやるが、幸村の好意に従うわけもなく、
黒猫は幸村の方にそろそろと近付いてきた。
「……お主、他人には決して従わぬな」
半分感心しつつ苦笑して、近付いてきた黒猫の首を撫でた。
また引っ掻かれるかと思ったが、
少し嫌そうに一鳴きしただけで、黒猫は動かなかった。
「…その自尊心の強さには感心するぞ。しかし…」
幸村は窓に目をやった。
窓に当たる雨の音が、その強さを表していた。
「程々にな」
この黒猫は、これからもこのように生きていくのだろうか。
その生涯を己のみを頼りとして生きていくのだろうか。
それが身を滅ぼすことにならねば良いが。
 そんな思いに耽っていると、
気が付けば黒猫が幸村の身体の上に乗っていた。
「どうしたのだ?」
そう言いながら、足場が悪かろうと思って、黒猫の身体を抱えてやる。
 片眼が笑ったように見えた。
黒猫は後ろ足を伸ばし、前足は幸村の胸を踏みつけて、
伸びをするように幸村に近づき、口を幸村の口にくっつけた。
「!!?」
ぎょっとしたが、更にざらついた舌が口の中に入り込んできたので、ますます驚いた。
まさか猫に舌を入れられるなどと誰が思うだろう。
しかし、次に起こった出来事に、幸村は今度は仰天した。
 片方だけだが、鋭い瞳と目が合う。
同時にその瞳は皮肉げに細められた。
「Ha、随分と偉そうな口聞いてんじゃねぇか」
自分以外に人はいないはずのこの部屋に、自分以外の声がした。
頭が真っ白でまともに働いてくれない。


何故に自分の上に男が乗っているのだろう。
しかも裸の男が。


唯一生じた思考はそれだけだった。

























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