新しい月
夜空に浮かぶ、月を見るのが好きだ。
昼間は控えめな月が、この間だけは静かに輝きを見せる。
優しい光が、なんだかすごく好きなのだ。
その輝きが自分自身のものではなくても、夜の主役は、間違いなく、月だと思う。
でも、ここからじゃ月は見えない。
角度が悪いのか、それとも別方向か。
「そんなに気になるんだったら、外に行こうぜ」
シゲルが窓からずっと夜空を見ているので、サトシはそう提案してみた。
「……いや、いいよ。寒いし」
今の格好は、二人とも、厚手とはいえ、パジャマ一枚。
このまま外に出れば、風邪を引くことは明らかだ。
「温かくしてれば、大丈夫だって」
思い立ったら、実行あるのみ。
サトシはハンガーにかけてあったコートや手袋、マフラーを取り、着込み始める。
「……」
まあ、いいか。
シゲルも立ち上がり、クローゼットからコートを取り出す。
珍しく文句を言う気がしなかった。
サトシは屋根に登ろう、屋根の上で見たいと言い出したが、危ないので断固拒否した。
万が一滑り落ちでもしたら、目も当てられない。
サトシに限っては、気をつけていれば大丈夫だろう、と言い切れないから、尚更不安だ。
サトシの自尊心を傷つけると、後々面倒なので、それは言わないことにした。
オーキド博士に断ってから、二人は外に出た。
夜ともなれば、外灯の少ないマサラタウンは結構な暗さになる。
ここでも十分見られるはずだが、サトシはせっかくだから、裏山に行きたいといいだした。
「だって、天体観察なら山とか暗いとこの方がいいんだぞ」
「……元気だね、君は」
「それに、ここじゃ月も見えないじゃん!」
「……」
確かに、ざっと見回しても、月は見えない。
自分たちが今いるここも割と高い位置にあるはずだが。
まだ、出ていないのか?
「……わかったよ、おじいさんに言ってくるから」
こうなったら、サトシの気の済むまで付き合ってやろう。
自分にしては、本当に珍しく、サトシに寛容だ。
「シゲル、今日は素直だな」
嬉しそうに、だが少し驚きも含めた表情で、サトシが言った。
自分もそう思う。シゲルはオーキド博士に伝えようと、再び玄関のドアを開けた。
「……サトシ、天体‘観察’じゃなくて、天体‘観測’」
ただし、素直に認めるのもちょっと癪だったので、そう言い捨て、家の中に入った。
裏山は確かに、天体観測には良い場所だった。
とにかく暗い。
馴染みの山なので、道は分かる。でも、その道は暗すぎて見えない。
懐中電灯を持ってきておいて良かった、とシゲルは思った。
ただし、ここまで本格的になるのなら、パジャマではなく、着替えてきた方が良かったな、とも思った。
山の一番上に着いたところで、シートを出して、その上に腰を下ろした。
「すごいなぁ、星がキラキラしてる!」
サトシは一心不乱に夜空を見上げて、歓声を上げている。
あまりにも熱中しすぎて、案の定バランスを崩し、倒れてきたので、受け止めてやった。
「予想を裏切らないやつだよ、君は」
「……サンキュ」
少し決まり悪そうにお礼をいってから、サトシはシゲルの横に寝転んだ。
サトシに倣い、シゲルも体を倒した。
「……」
「……」
しばらく、何も言わずに空を眺める。
月は、見つからなかった。
「……月、見えないな」
サトシがぽつりと呟く。
「……たぶん、新月なんだよ」
シゲルもぽつりと答える。
「新月?」
「月が見えない日のこと」
「ふーん……」
今日は見られなかった。
確か天気予報で、明日から曇ってくると言っていた。
ならば、しばらくは月が見られなくなるかもしれない。
「……」
それで気が付いた。
今日サトシに対して、妙に素直だったのは、月が見たかったせいらしい。
実際、今かなり落胆している自分がいる。
シゲルは目を閉じた。
見られないならば、記憶に残った月を、せめて思い浮かべよう。
印象深かった月を見たのは、どんな時だったか。
初めて記憶に残った月は、どんな風だったか。
「シゲル、眠いのか?」
サトシの声に、目を開く。サトシが半身だけ起こし、シゲルを見下ろしていた。
「……いや」
シゲルは首を振った。
サトシは微かに安堵の表情を浮かべてから、再び寝転んだ。
そのまま、シゲルに話しかける。
「シゲルは月が好きなんだな」
「……まあね」
再び目を閉じて、頷いた。
「じゃあ、今日は残念だったな」
「……そうだな」
夜風が当たる。
無駄足を踏んだ。体が冷えただけか。
そろそろ帰らないといけないな、とシゲルはぼんやり考える。
「……星は、嫌いなのか?」
サトシの言葉に、また目を開いた。
視界に、夜空が映る。
普段見るよりはるかに多くの星々が、輝きを見せている。
月明かりがないので、鮮明に見える。
今日初めて、まともに見た夜空だった。
「……いや、嫌いじゃない」
綺麗だった。静かに瞬いていた。
月のように柔らかい光もあれば、まるで小さな太陽のように、鋭い光もある。
いつも見ていたのは月だから、月が出ない時の星が、こうも綺麗だとは気が付かなかった。皮肉なものだ。
「……綺麗だ」
シゲルはぽつりと呟いた。
サトシは穏やかな声で言った。
「なら、月が見えない時は、星を見ればいいよ」
「……」
視線の先を、夜空からサトシに移した。
サトシの横顔が、まっすぐに空を見つめているのが見える。
シゲルの視線に気が付き、彼の方を向いて、にこりと笑った。
少しの沈黙の後、シゲルが呟いた。
「……そうか」
サトシの笑顔につられたのかは、分からない。
が、シゲルも静かに微笑んだ。
「……そうだな」
夜空に浮かぶ、月を見るのが好きだ。
月の出ない日、見えない日は、何となく気分が塞いだ。
でも、そんな時は、星を見ればいい。
月の代わりではなく、星の美しさを知ったから。
サトシが教えてくれたから。