ハナコとサトシの後についていき、シゲルは赤い屋根に白い壁の家に着いた。
ハナコが玄関のドアを開けると、サトシは中に飛び込むように入っていく。
だがすぐに、荷物を置いて、外に戻ってきた。
「シゲル、こっち、こっち」
サトシはシゲルの側まで来ると、シゲルの腕を掴んで、中に入っていく。
結構な力で引っ張られて、前に何度かつんのめりそうになりながら、シゲルも家の中に入った。
そのまま引っ張られていき、ダイニングまで案内された。
「シゲル、ここすわって」
サトシにとっては大きな椅子を何とか引いて、サトシはシゲルに座るように促した。
言われるままに座ったところで、ようやくハナコがダイニングに入ってきた。
「あら、ありがとう、サトシ。
シゲル君をおもてなししてくれたのね」
ハナコにそう言われ、サトシは嬉しそうに笑う。
それから自分の分の椅子も引き、シゲルの隣に座った。
ハナコは二人にジュースをついだ後、クッキー作りに取りかかり始めた。
サトシはシゲルの方を向き、話しかけてくる。
「シゲル、シゲル、ママのクッキーおいしいんだぜ」
「……そう」
「シゲルはクッキー好き?」
「別に」
「きらいなの?」
「…別に」
じゃあ、どっちなんだろう、とサトシは首を傾げる。
シゲルは頬杖をついて、興味なさげにテーブルを見ていた。
サトシは少しの間黙った後、椅子から飛び降りて、クッキーを作っているハナコのところに行った。
「ママ、いつできる?」
「まだまだ。それまでシゲル君と遊んでいてね」
ハナコにそう言われ、サトシはシゲルの方にまた寄ってきた。
「シゲル、まだだって。オレのへやにいこ」
シゲルの手をまた掴んで、部屋に引っ張っていこうとする。
「自分で歩ける」
シゲルはサトシの手を振り払って、椅子から降りた。
サトシは一瞬驚いたようだが、すぐに楽しそうに、シゲルの前を歩き出す。
その後ろをシゲルはついていく。
何で、ここに来たんだろう……
引っかかっていたものは、これだった。
幸せそうな家、楽しそうな親子。
それを見ていると、虚しくなる。
サトシが自室のドアを開ける。
中に入り、振り向いて、シゲルを手招きする。
「はいって、はいって」
「……」
サトシの後ろには、大きなカビゴンのぬいぐるみが見えた。
他にも、たくさんのポケモンのぬいぐるみやおもちゃがある。
それらに囲まれて、目の前のこいつは、幸せそうに笑っている。
親の愛を一心に受けて、それを素直に受けいれることができるのだ。
自分にはそれが何一つできないのに。
何か、嫌なものが込み上げてくる。
「シゲル、はやくはやく」
部屋の入り口で立ち尽くしたままのシゲルに、サトシは手招きして催促する。
「……帰る」
一言呟いて、手招きするサトシに背を向けた。
階段の方へと向かう。
ここにはいたくない、早く帰りたかった。
「シゲル、まって」
慌ててサトシがシゲルを追いかけ、その腕を掴む。
「まだ、クッキーできてないよ。いっしょにたべようよ」
「……いらない」
「ママのクッキーおいしいんだよ。
だからいっしょに――」
「うるさい」
腕を掴んでいるサトシの手を振り解き、シゲルがサトシを睨んだ。
手を振り解かれ、自分の言葉を遮られ、サトシは驚いてシゲルを見る。
「シゲル……」
「……お前となんか、一緒にいたくない」
込み上げてくるものは止まらず、感情を抑えることができない。
サトシが悲しそうにシゲルを見つめる。
「シゲル、オレのこときらいなの?」
サトシのその言葉も、悲しそうなその表情も、
今はシゲルの気持ちを逆撫でする。
「……嫌いだよ」
溢れ出す。
「大嫌いだ」
素直に母親に甘えられるお前なんか、大嫌いだ。
シゲルの言葉に、サトシはしばらく呆然としていた。
「……きらいなんだ……」
ぽつりと呟けば、その言葉が頭に響いてくる。
ウソでもなく、夢でもなく、面と向かって言われた言葉が、サトシの胸に突き刺さった。
胸の内から生じてくるこの感情を、どう扱えばいいのか、
幼いサトシには分からない。
たくさんのことが、わからない。
サトシの瞳から、ぽろぽろと涙が流れ出す。
シゲルはそれを見て、少し動揺したが、
何も言わずに、サトシに背を向け、階段を降りていった。
残されたサトシは一人で泣き続ける。
シゲルはオレのことがきらいなんだ。
だいきらいなんだ。
かなしい。
すごく、かなしい。
シゲルのことと、
シゲルに言われたことと、
悲しさで、
サトシの頭の中はいっぱいだった。
シゲルから突然、帰ります、と告げられ、ハナコは一瞬困惑した。
おかげで返事をするのが遅れ、その前にシゲルは出て行ってしまった。
ハナコが二階に上がると、階段の側でサトシがうずくまって泣いていた。
「サトシ」
ハナコが声をかけると、サトシは顔を上げ、ハナコに抱きついて声を上げて泣き始めた。
ハナコはサトシを抱き上げ、頭を撫でながら部屋に連れて行く。
「……そう、悲しかったね」
ハナコはサトシの頭を優しく撫でる。
サトシはハナコに顔を埋めたまま、ハナコにしがみついている。
「…でもね、サトシ、シゲル君のこと、嫌いにならないであげてね」
「……」
「…本当はね、シゲル君はサトシのこと嫌いなんかじゃないの」
「でもシゲルいったんだ。
オレのこときらいだって、いった」
今言った自分の言葉が悲しくて、サトシはまた泣き始めた。
「それじゃあ、サトシは、もうシゲル君のこと嫌い?」
「……」
しばらく考えた後、顔を埋めたまま、サトシは首だけ左右に動かした。
「……なら、サトシにお願いがあるの」
「おねがい?」
「そう、大切なお願い」
サトシは顔を上げ、ハナコを見上げる。
泣き腫らした目にまだ引っかかっている涙を優しく拭って、
ハナコはサトシに言った。
「サトシに、シゲル君を助けてほしいの」
「……たすける?」
意味を理解できずに、きょとんとした顔で、サトシはそう聞き返した。
ハナコは頷く。
そして、悲しそうに眉を寄せ、言った。
「……シゲル君ね、ちょっと前に、シゲル君のパパやママとお別れしたの」
「おわかれ?オレのパパみたいにたびにでたの?」
「……うん、でもずっと遠いところに行っちゃって、もう二度と会えないの」
「あえない……」
ハナコの言葉と表情に、サトシも悲しそうな表情へと変わる。
「シゲル君、本当は寂しいの。だから、サトシ」
ハナコはサトシに微笑みかけ、願うように言った。
「シゲル君の側に、いてあげてね」
「いつもすみません、ママさん」
昨日作ったのだというクッキーが入ったバスケットを受け取り、オーキド博士は軽く頭を下げる。
ハナコは首を振る。
「いいえ、昨日シゲル君にご馳走するって約束しましたから」
ハナコは自分のスカートの裾を掴んで俯いているサトシに目を向け、同意を求める。
「ね、サトシ?」
「……」
サトシは黙って俯いたまま、首だけ縦に振った。
オーキド博士は、言いにくそうにしながらも、
昨日のことを切り出した。
「……その、昨日、
シゲルが何か……したんでしょうか?」
昨日帰ってきてから、シゲルは部屋に閉じこもったまま出てこない。
食事もとっていない。
「……」
ハナコは黙っていた。
代わりに、俯いていたサトシが顔を上げ、口を開いた。
「……はかせ、シゲル、どこにいるの…?」
「……」
複雑な感情が入り乱れたその瞳に、オーキド博士はしばらく何も言えなかった。
「シゲル」
自分を呼ぶ声と、ドアを叩く音に、シゲルはうっすらと目を開けた。
オーキド博士の声だ。
ベッドから身体だけ起こし、ドアの方向を見つめる。
胃の中はからっぽなのに、吐き気が続いている。
誰にも会いたくない。
「……シゲル、お客さんだぞ」
もう一度、そう呼びかけられるが、その客に会う気もなかった。
本当に会いたい人間など、今の自分にはいない。
放っておこうと、また身体を倒した時に、別の声が聞こえた。
「……シゲル、あけて」
あいつだ。
シゲルはまた身体だけ起こして、ドアを見つめる。
「いっしょに、あそぼうよ」
「……」
まだ、そんなこと言っているのか。
なんで、そんなこと言うのだろうか。
「オレのひみつきち、おしえてあげるから」
「……」
「シゲルだけに、おしえるよ」
また、吐き気が込み上げてくる。
嫌な感情が、溢れてくる。
「うるさいっ」
ドアに向かって、その感情をぶつける。
だがそれは、跳ね返って、また自分の中に戻ってくるだけだった。
誰の声も聞こえなくなってから、少し経った後、ドアを開ける音が聞こえた。
しかしシゲルは、枕に顔を埋めたまま、動かなかった。
「……」
入ってきたのが誰かなんて分かっている。
その人は身内なのだから、
この家の主人なのだから、
ドアなんて簡単に開けられるのだ。
その権利を持っている。
「シゲル」
「……」
「こちらを、向きなさい」
声に少し怒りが込められている。
当たり前だろうな、と人ごとのように思った。
シゲルは身体を起こして、声がした方に目を向けた。
祖父だという人が、シゲルの方を見ていた。
「シゲル、こういう態度をいつまでも続けるのは良くないぞ」
「……」
じゃあ、どういう態度ならいいのだろうか。
他の人間に愛想良く振る舞えと?
「みんな、お前のことを心配しているんじゃ」
「……」
そうだ、そんなこと分かっている。
母も父も、いつも自分のことを心配していた。
二人の重荷になっていた。
だからなるべくワガママも文句も言わないようにした。
大切だったから。
何よりも父さんと母さんが大切だったから。
だけど何の意味もなかった。
もう何の意味もない。
二人はもういない。
大切な人たちはもういない。
いないんだ。
だからもう知らない。
「うるさい」
同情も心配もされたくない。
そんなもの必要ない。
いらない。
頭が痛くなる。
本当のことは何一つ言えやしないのに、
弛んだままの感情は、抑えることなど到底無理で、
簡単に溢れ出す。
止まらない。
吐き捨てるように、呟いた。
「都合の良い時だけ、家族面するな」
その言葉に、オーキド博士が愕然となったのが分かる。
言ってはいけないことを言ってしまったことも分かった。
胸の中がドロドロしていて、気持ち悪い。
シゲルはオーキド博士の横をすり抜け、飛び出していく。
自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、
そんなもの知らない。