迷い子
雨が降っていた。
空も泣いてくれているのか。
では、空ですら泣いているのに、泣かない自分は何なのだろう。
悲しいはずなのに、涙も出ずに、父と母の写真の前で、シゲルは立ち尽くす。
優しく頭を撫でてくれた手は、もう動かない。
「ついたぞ」
オーキド博士の声に、我に返り、シゲルは顔を上げた。
目の前には、いかにも田舎、といった様子の風景が広がっていた。
「ここが、マサラタウンじゃよ」
良い町じゃよ、と言ってから、博士は再び歩き出す。
繋がれている手に引かれて、シゲルも事務的に足を進めた。
マサラタウンに着いたその日は、かなり疲れる一日だった。
良い意味では全くなく、疲れるだけの一日だった。
住んでいた街からの長距離の移動のせいもあるが、
挨拶と称して、オーキド博士の孫を観察しに来る、
マサラタウンの人々がその主な原因だった。
相手にそのつもりがなくても、少なくともシゲルにはそう思えた。
値踏みするような目が嫌で、いい加減うんざりしてきた頃合いに、
一人の女性がやって来た。
「こんにちは、シゲル君。今日からよろしくね」
笑いかけてくる声や表情は、今までの人とは違った。
値踏みも物珍しさも何もなく、彼女は微笑む。
自分を歓迎してくれていることが分かる。
こんな人もいるのだと、シゲルは驚いて彼女を見上げた。
後でオーキド博士に聞くと、ハナコという名前だった。
が、自分をじっと見つめてくる視線に気が付いて、シゲルは視線を下に向けた。
頬に絆創膏を貼り付けたその男の子は、
ハナコのスカートの裾を掴んで、一心不乱にシゲルの方を見ている。
そのあまりにも真っ直ぐな視線に、シゲルは少々たじろいだ。
それに気が付き、ハナコは男の子に話しかける。
「サトシ、ご挨拶なさい」
促されて、サトシと呼ばれた男の子は口を開いた。大きな声で。
「オレ、サトシ。よろしくな!」
まだ舌ったらずな話し方なのに、元気だけは良すぎて、うるさかった。
シゲルが心に抱いた感想など気にせずに、サトシは笑顔で手を差し出した。
「な、いっしょにあそぼ!」
「え……」
いきなりのお誘いに、シゲルは戸惑う。
「あそぼ! オレのひみつきちおしえてあげるから!」
サトシはシゲルの手を掴み、外へと連れて行こうとする。
ハナコは苦笑しながら、サトシを優しくたしなめる。
「サトシ、シゲル君は今日来たばっかりだから疲れているの。
また今度ね」
「え〜」
サトシが不満げな声を出す。
そんなサトシを見て、シゲルはなぜか急に腹が立った。
これ以上話を続ける理由もないので、
シゲルはハナコに軽くお辞儀をして、家の中に入っていった。
それ以来、ハナコはオーキド研究所に訪ねてきて、
しばしば料理のお裾分けをしてくれた。
まだ幼いシゲルを気遣ってのことだろう。
研究の仕事があるオーキド博士に代わり、
食事は手伝いの人間がしてくれたものがあったが、
シゲルにはハナコの心遣いが嬉しかった。
最初の印象とそれのせいか、シゲルはハナコにはあまり悪い感情はわかない。
だが、いつもハナコにくっついてくるサトシのことは、どうも好きになれなかった。
サトシはシゲルに親しげに、悪く言えば馴れ馴れしく話しかけてきたが、
そんなサトシをシゲルはいつもうっとうしく感じ、無視をしていた。
家に籠もってばかりで、マサラタウンの人間になかなか打ち解けないシゲルを見かねて、
オーキド博士に家から出されてしまった。
博士の対応を別に何とも思わなかったが、
家で本が読めないのはちょっとつまらないな、とシゲルは何となく思った。
とはいえ、町の人間に話しかける気もしないので、
することもなく、シゲルは川辺に座っていた。
川の流れは穏やかで、流れる水は透き通っている。
だけど、だからといって、別に何とも思わない。
綺麗だけど、それだけだ。
感想は抱いても、感情はわいてこない。
最近ずっとそうだ。
何をしても、楽しくない。
何をしても、何も思わない。
オーキド博士に引き取られて、住み慣れた街を離れることになっても、
事実として、理解しただけだ。
いつからこうなったのか、自分でもよく分からない。
両親を失ってからだと、きっとオーキド博士は思っているだろうし、
自分でも何となく、そうは思う。
あの日、いつものように両親の帰りをベッドの中でずっと待っていて、
両親ではなく、祖父であるオーキド博士が家に来た時から、
自分はどうも「子ども」らしくなくなっている。
唯一、心に浮かんでくる感情は悲しみと後悔だけで、
それなのに涙は少しも出てこない。
姉は泣いていたのに。
ならば自分は、本当は悲しんでいないのだろうか。
だけどそれは、両親にとって、申し分けなさすぎる。
「あ、シゲルだ!!」
大きな声が聞こえてきて、それも知っている声で、
シゲルは眉をひそめ、顔を上げた。
声がした方を見ると、サトシとハナコがこちらに向かって歩いてくる。
「あら、こんにちは、シゲル君」
変わらない優しげな笑顔でハナコはシゲルに声をかける。
その笑顔にシゲルの表情が微かに和らいだ。
「こんにちは」
挨拶を返す。よく見れば、ハナコは買い物カゴを下げている。
隣ではしゃいでいるサトシも小さな袋に入った荷物を両手で抱えていた。
「何しているの?」
「……川を見ていました」
特に何かしている訳ではなかったので、ハナコの問いにそう答えた。
ハナコの表情が少し翳るが、
ハナコは何も言い返さずに、そう、と言っただけだった。
が、すぐにまた元の笑顔に戻り、シゲルに言った。
「そうだ、シゲル君、良かったら家に来ない?
クッキーを焼くからごちそうするわ」
「……」
突然の提案に、シゲルは戸惑う。
ハナコの隣できょろきょろと周りを見ていたサトシが、
それを聞いてハナコに尋ねる。
「シゲルも?くるの?」
ちょっと待ってね、とサトシに言って、ハナコはシゲルをもう一度誘う。
「どうかしら、シゲル君?」
「……」
家には、きっとまだ帰れない。
だが他に行くあてもなかった。
ここでまたぼんやりしていても、さっきのように物思いにふけるだけだ。
何か引っかかるものを感じながら、シゲルは少し考えてから、ハナコの申し出に頷いた。
ハナコがそれをサトシに告げると、サトシも笑顔になる。
その笑顔がハナコと似ていたので、さすが親子だな、とシゲルはぼんやり思った。