明くる日の夕方、母に呼ばれ、政宗は二の丸に用意した母の部屋へと訪れた。
襖を開けると、温かな香りが鼻孔を刺激した。
食膳が三人分用意されていた。
「政宗殿、よくぞお越し下さいました」
上座に座らされた政宗は未だ不審を浮かべ、
母と同じく部屋に招かれた小次郎を交互に見た。
「…一体何用で?」
「愛しいそなたが為、母が腕を振るいました。今宵は共に」
「……」
政宗は初めて、戸惑いの浮かぶ目を母に向けた。
保春院は昨日と同じく幾分緊張した面持ちで、しかし微笑を崩さずにささ、と促した。
「…長年のわだかまりもあるでしょうが、お家の為にも水に流してもらえませぬか?」
酌された酒の白濁を暫し見つめ、それからもう一度母に目を向け、小次郎にも目を遣った。
胸にじわりと広がるこの感覚は、きっと嬉しさ故だ。
漸く、叶うのだから。
政宗は口を開いた。
「……母上、政宗は一人で誤解していたようです。
母上に憎まれているとばかり…」
躊躇いがちにそう言うと、保春院は微笑した。
「憎むなど…子を憎む母がおりましょうか」
その笑みは慈しみに溢れており、その母に政宗はぎこちなく笑みを返した。
「ささ、料理の冷めぬうちに」
「…では、ありがたく頂戴致します」
促されるままに、箸を取り、母の手料理を口に運んだ。
じわりと広がる味。
その薫りと妙に照り返して見えるその表面。
「……」
これは…
これを…
どうして?
「……っう…」
唇から零れた呻き声は、いやに部屋に響いた。
口に手を押さえ、顔を横に背けた。
「どうしました、政宗殿?」
妙に響くその声は、不思議な感覚と共に耳に届いた。
視界が歪んでいる。
世界がぐらぐらと回っている。
焦点を合わせられない。
足が膳に当たり、がしゃりと倒れたが、それすらも気付かなかった。
這うように縁まで行き、喉まで指を入れ先程呑み込んだそれを何とか吐き出した。
確か、確か薬を持っていたはず。
上手く働かない頭を必死に動かして、痺れてきた手で懸命に懐を探り、解毒薬を口の中に押し込んだ。
奇妙な違和感は走っていた。
予感めいたものはあったのだ。
だが、…
「…兄上」
衣擦れの音がする。
歪んだ視界では上手く捉えられないが、音で近付いてくるのが分かった。
弟に背を向けたまま、低く呻く。
先程押し込んだ薬もろとも出してしまいたい程の嘔吐感、
きりきり痛む腹、
ぐらぐらと揺れる頭。
音だけが妙に鮮明で、金属の音を耳に捉えてしまった。
「……」
どこかで僅かながらも夢見たものがあったはずだった。
叶わぬ夢ながら、それを願うことを弱いとは思ったが浅ましいとは思わなかった。
だってそう思うのは当然だろう。
親と子であるから、家族なのだから。
だが、やはりそれは浅ましいことだったのか。
最早己は、そう思うことすら許されぬと。
俺は、何かするつもりなんて無かった。
ただ願っていただけだ。
だけどアンタは、それすら許してくれないのか。
腕の感覚が無い。
空気が寒い。
これが、これで終わるのか。
「…兄上、申し訳――」
空気が冷たい。
腕の感覚は無い。
だが、振り返りざま、確かにその腕を、
刀を握ったその腕を振ったのだ。
肉の感触。
短い悲鳴と、続けて甲高い悲鳴。
冷えた身体に何か生温かいものがかかり、皮肉にも身体を温めた。
鉄錆の臭い。
悲鳴。
周りは次第に騒がしくなり、足音が増えてきた。
「政宗様!」
襖の開く音と共に聞こえてきた小十郎の声。
それと同時に、全てが闇に包まれた。
完全なる闇。
在るのは意識だけ。
在るという意識だけ。
果てなく続き、終わりなどあるはずもなく。
身体中が痛い。
吐き気が酷い。
そして、目蓋が重い。
「……」
このまま眠ってしまえていたら、と一瞬でも思ったことに知らず苦笑を漏らし、
それが音をたてたらしく、近くで別の音がした。
無理矢理目蓋を開き、音が聞こえた方に目を向ければ、小姓がこちらを凝視していた。
「あっ!」
短く叫び、慌てて平伏した後、
すぐに呼んで参ります、と言い逃げるように退出していった。
「政宗様、失礼致します」
襖に向かい声をかけ、返答を確認してから小十郎は襖を開けた。
彼の主君は、その生来の意地故に半身だけは起こしていた。
小十郎が外し、枕元に置いていた眼帯も普段通り彼の右眼を覆っている。
小十郎はすぐさま脇息を政宗の隣に用意する。
彼が人前で横にならないのは分かり切っていることだ。
未だ生気のない様子ではあるが、政宗は小十郎に尋ねた。
「……小十郎、俺はどれぐらい眠っていた?今の状況は?」
「は、十日程でございます。
しかし今のところ各地に大きな動きはございません。
…武田には、病、と伝えてあります」
「……」
自分で尋ねておきながら聞いているのか聞いていないのか、
政宗は視線を虚空に彷徨わせ、暫くは黙して何も語らない。
小十郎も自ら言い出すには躊躇われた。
「……母上達、は…?」
「……」
やつれた表情ながら、漸くか政宗は小十郎に縋るような視線を向ける。
しかし本人が何に縋っているのかは知る由もないだろう。
それに気付くが、小十郎は促され、再び口を開く。
「…保春院様は、最上へ立たれました」
「……」
「……小次郎様は…九日前に…お亡くなりに…」
「……」
小十郎を見つめていた瞳が不意に伏せられる。
「そうか…」
力の抜けきった声で、政宗は辛うじてそれだけ呟いた。
「政宗さ――」
「もういい、退がれ」
これ以上を拒む彼に、所詮は家臣である己に何が出来ようか。
片倉小十郎に出来ることは、彼がやるべきことは、主君に忠実であることだけで、
その垣根を越えることは今の彼には出来るはずもなかった。
小十郎が退出し、再び部屋には政宗以外誰もいなくなった。
「……っ」
途切れることの無い吐き気と頭痛に、彼は脇息に俯し、大きく息を吐いた。
俺の夢はな、小次郎…
皆が笑って暮らせる世を作ることだ。
お前や小十郎たち、それに母上、いや、奥州だけじゃねぇ、この日の本全ての民だ。
今、敵の奴らだって、降しちまえば俺の民になるんだぜ、だから全部だ。
それに、そうすりゃ俺だって嬉しいんだ、一石二鳥だろ?
違和感は確かに感じていたはずだった。
ただ、その違和感こそが抱いていた夢であってほしかった。
母と弟と己と、皆で笑い合える幻を見ていたかった。