先に切ったのは、政宗の方だった。
「…信玄公には、後日こちらからまた、書状を送る」
それは、幸村がここにいる理由も意味もなくなるということだ。
「……アンタはもう、来ない方がいい」
互いのために、と言い訳しながら、それは単に政宗の拒絶だった。
「……政宗殿……」
今この手で抱ければ、この手に捕らえてしまえるならば、
衝動に駆られるが、それを幸村は抑え込んだ。
「……それでは…」
姿勢を正し、幸村は頭を下げる。
「……真田幸村、これにて…お暇させて、頂きまする……」
「信玄公には、よしなにお伝えするように…」
「はい…」
立ち上がり、こちらを振り向かない政宗に背を向け、部屋から出ていく。
「……」
政宗はそれを背に感じる。
部屋を出る間際、幸村は振り返り、言った。
「それでも、某は――」
固まって動けぬ政宗に向かって、叫んだ。
「某は、政宗殿が愛しゅうございます!」
「……っ」
「その心に、嘘はつけぬ!!」
振り向きたくなる衝動も動揺も抑え、政宗はぐっと目を閉じた。
何も言わなかった。
幸村が退出した後も、しばらく動けずに、目を閉じたまま、その場に立ち尽くしていた。
これは一時の感情だ。
心は決めたはず。
ぐらつくのは、己が弱い証。
愛しい、と幸村は言った。
心に嘘はつけない、と。
そう、だから俺は求めるのだ。
狂おしいまでに、あの鬼を求めるのだ。
だから、俺はもっと強くならなければ。
強く。
ただ強く。
政宗は目を開けた。
鋭い瞳で、虚空を見据えた。
吐き気はもう、しない。
いつかの手の傷も、痛まない。
「……」
幸村は政宗を見つめる。
「……しかし、しかし某は――」
「アンタには、無理だ」
わざわざ繰り返すまでもない。
その時は、もう過ぎ去った。
「…誰にも、な」
ぼんやりとそう気付いた。
自分を止められるものなど、もうないのだ。
自分自身ですら、それはもう無理というもの。
「……」
また拒絶。
もはや言葉も浮かばなかった。
代わりにか、それしかできなかったのか、
幸村は政宗の頬にそっと触れた後、彼を自分の腕に抱く。
政宗からの抵抗はなかった。
「……今ここで…」
「……」
「…ここで、そなたを攫ってゆけるならば、どんなにいいであろうか……」
あの時抑え込んだ衝動と言葉を、今ここで漸く出すが、
それはもう遅すぎた。
「……そうだな……」
腕の中の政宗はそう呟いた。
その声には迷いも感情も見られない。
しばし止んでいた風が再び吹いた。
遠くで葉の鳴る音が聞こえる。
身動ぎし、政宗が幸村から離れた。
止められずに、その手も掴めずに、幸村はそれを目で追う。
「……じゃあな」
最後に僅かに幸村の瞳を見つめ、政宗は彼に背を向け、立ち去っていく。
その背に幸村が呼びかけた。
「……どうか、御身大切に…」
「Ha、独眼竜は伊達じゃねぇよ」
足が止まるが振り返らずに、ただし普段の口ぶりで、政宗はそう言い返した。
「どうか……」
これしか言えぬ。
せめて、と幾らかの意味を込めて、そう言った。
もう一度だけ、政宗が振り返った。
嘲りとも呆れとも取れる表情で、彼は微笑んだ。
「…See you」
おそらく次に会う時は……
それは、口に出すまでもなかった。
織田が軍を進めてきていることが、元親の耳に入ったのは、
毛利との戦もほぼ終わりかけていた時だった。
毛利の方から和議を申し入れる使者が送られ、講和の場が設けられようとしている矢先で、
家臣たちは流石に動揺を隠しきれないようだった。
「殿、如何なされますか?」
異口同音の家臣からの問いに、元親は事も無げに答える。
「まあ、なるようになるさ」
その言葉に呆れる家臣たちに、毛利との講和と織田との戦の準備を急ぐように、
とだけ命じ、下がらせた後、元親は部屋から空を見上げた。
「……そうだろう、竜?」
今は遠く離れた竜を思い浮かべ、元親は静かに笑った。
肩の痛みは、今や己の一部だ。
講和が半分程まとまったところで、やはり織田軍は攻めてきた。
前の戦も終わり切れぬうちに連続で戦。しかも相手はこちらの倍の軍勢。
家臣や兵は既に浮き足立っていた。
「参ったねぇ…」
そう零し、元親は思案を巡らせる。
軍師や家臣の意見も聞いた上で、元親は兵を指揮して、織田勢を富嶽要塞の方へと誘い込んだ。
「これで保つといいがなぁ」
重装戦車・木騎の準備もさせながら、やはり元親は一人そう零す。
追い込まれていることは明らかであるのだが、なぜか心が焦らない。
良いと言えばそうなのだが、合点がいかない。
その直後、前線にいた吉良親貞が退いたと報告された。
冷や汗が身体を伝ったが、元親の表情には、いまだ笑みが浮かんでいる。
「と、殿!」
「どうした?」
慌てふためいた様子で、斥候が本陣に駆け込んできた。
一つ息を吐き、元親が尋ねた。
「今度はどこが退いたんだ?」
「いえ、それが……」
気が動転して、二の句が継げないらしく、斥候は言い淀む。
「早く申せ!」
吉良親貞に怒鳴りつけられ、斥候は言った。
「お、織田軍の背後から、別の軍勢が迫っております」
「あぁん?」
織田の圧倒的な有利というのに、更に援軍でも来たというのか。
「…どこの軍勢だ?」
「明智光秀にござりまする。
その規模は織田軍とほぼ同数かと」
「…明智、か」
やはり援軍か。いよいよもって、危なくなってきた。
「…兄上、こうなれば不本意ながら織田に降服したがよろしいかと…」
香宗我部親泰が元親にそう提案する。
元親は、舌打ちして、それを一蹴した。
「馬鹿、援軍が来たとなりゃあ、もうあちら側はそんな余地残しちゃいねぇ」
「なんと、では…!」
「あの魔王は、俺たちを根絶やしにしたいんだろうよ」
「そ、それでは……」
言いかけた言葉を慌てて飲み込む。元親は苦笑した。
「さーて、いよいよどうするかねぇ…」
思案を駆けめぐらし始めた元親達に、先程の斥候が恐る恐る話しかける。
実は、まだ報告の続きがあるのだ。
「あ、あの、明智軍は……」
「なんじゃ、まだおったのか!
報告はもうすんだのであろう。早く退がるがよい!」
八つ当たり的な一喝に、斥候が身を竦ませる。
元親はそれを制し、また尋ねた。
「まあ待て。どうした、まだ何かあるのか?」
家臣を抑え、元親が斥候に目を向ける。
「は、はい。実は明智勢は、どうやら織田軍に攻撃の手を向けているようで……」
「……は?」
元親以下、斥候以外のその場にいた全員が、耳を疑った。
援軍かと思われた明智軍の突然の攻撃により、織田軍は浮き足だった。
元々、援軍が来る予定などなかったのだ。
しかも味方であるはずの軍勢から、背後から攻撃され、
更に長曾我部軍からも攻撃されるとあれば、混乱するのも無理はなかった。
「……光秀め」
織田軍本陣で、信長が忌々しげにそう吐き捨てるが、前後からの挟撃で、既に陣形は乱れていた。
戦慄する自軍の兵士達と、勢いづいた長曾我部の兵士。
戦況は大きく変わった。
「…たわけが」
織田軍は退いた。